カメさんのチャイナ♪チャイナ♪

中国大好きなカメさんの自由空間

復刻版 台湾の想い出 最終回

2010-07-06 22:51:31 | 1980年代台湾の想い出

台湾想い出シリーズも8日連続となりまして少々しつこく飽きられる回数にとなりましたので、今日が一応の最終回としてカキコさせて頂きます

数多く訪問した台湾旅行で何が一番印象的だったかと言えば阿里山の涼しさです

カメさんは暑さには大変弱いと言うより大嫌いな性格でして、代わりに冬の寒さは少々厳しくても耐え切れると言った体質ですから、全ての台湾旅行に於いては大変辛いものがありました

台北市内は盆地特有の蒸し暑さ。しかも当時のタクシーは冷房車がまだ少なくで窓全開ですから走っても涼しくなく、むしろ排気ガスと熱風が入り込んできて汗と交わり不快指数100パーセント状態でした

一方鉄道旅行は基本的には冷房効果抜群の特急を選んで利用していましたが、これまた目的地に着いて降車したとたんに猛暑の襲来を受け反省しきりでした

しかし台湾南部の暑さは台北より強く感じますが、日陰や夜になると大層過ごしやすく感じられました
いわゆるベトツキ感が感じられません

そんな中で阿里山に日帰りで行った事があります
阿里山鉄道は正式には台湾省林務局森林鉄路阿里山線ですが、一般には阿里山森林鉄道と呼ばれ台湾南部の嘉義から台湾で一番高い玉山(戦前までは新高山と呼ばれていた)の手前にある阿里山(標高2400m)までの間、71.4km 標高差2244m 平均勾配1000分の50。その間にトンネルが48ヶ所、橋梁が64ヶ所あり、阿里山に茂るスギ・ヒノキを搬出するために1909年に着工され1911年に完成された登山鉄道です。

最初の鉄道建設の目的は豊富にある森林資源の唯一の運送手段として建設されましたが、80年代に道路が整備され最近では観光用鉄道としての利用に変化しています

便利なバスではな鉄チャンである性格からして知人を通じて阿里山鉄道の切符を入手してもらい、朝、嘉義駅発で正午前に阿里山着。滞在2時間で阿里山とお別れして夕刻嘉義駅に戻ってくると言う大変勿体無い旅行を体験しております

その阿里山に行ったのは7月の下旬です
嘉義の街は大変暑く、乗車したディーゼルカーは冷房無しで車内は通路まで溢れる乗客が乗っており蒸し風呂状態で出発

しかし山に登っていく都度に外気が涼しくなり、終点の阿里山駅に到着した時などは正午と言うのに半袖では寒く感じられるほどで最高の気分でした
その最高の気分は夕刻には地獄に舞い戻り、改めて阿里山の有難さを感じたものでした

画像は1980年頃まで使用されていた阿里山駅


復刻版 台湾の想い出 その7

2010-07-05 21:23:15 | 1980年代台湾の想い出

カメさんは1980年を最初に計30回程度台湾訪問を経験しました
特に1981年からは台北市内中心から台湾各地へ鉄道旅行を経験しまして、離島を除いてほぼ全土と言うほどではありませんが鉄道の通っている地域には経験してます

その間の想い出話としていろいろとカキコしてきましたが、最後に警察にご厄介になった話題を披露させていただくと
2007年7月19日付けの『続・台東の夜』において、1982年7月に台東に行き、夕方駅前のビシネスホテルに宿泊したとカキコしました。
実はその前に地元警察にお世話になった経験があります

当時高雄から鉄道とバスを乗り継ぎ、終点の台東駅前に到着したのは夕方5時前だったと記憶しております。台東に到着して今夜のホテルを捜すのにガイドブックには台東そのものが小さなローカル町なので日本人向けのホテルとしては一軒だけ掲載されており、そこに行くべくタクシーを利用し目的のホテルを告げて走る事数分で到着、歩いてもいける距離でした。

問題はこの下車する際に運ちゃんから告げられた料金が50元
当時台北市内でのタクシー基本料金が確か20元でしたから、ローカルの台東なら当然距離的にも20元以内であると思っていたのが何と50元
当然運ちゃんと揉め、そのまま地元警察署に移動です

カタコトの日本語が話せる警察官との遣り取りにおいて事情を説明したところ、警察官より次の様な説明を受けました
台北と違って台東の場合は田舎であり一日当たりのタクシー利用者は限定される。その為にメーター料金ではなく一律50元を請求しているから理解してもらいたい?

釈然としないいまま説明は終了し警察署を出て再び駅前の方向に歩き出したところ、運ちゃんが待っており何か言われるのか?と思っていましたが、何事も無く終わりました

その後に駅前のビジネスホテルに宿泊した次第です

結局料金は支払わないままで終了した訳ですが何やら釈然としないひとときでした

画像は高雄から台東に移動する際に利用した屏東線の当時の終点・坊寮駅
この駅で下車した後は駅前の国道から台東行きの路線バスに乗車しましたが、このバスは冷房無しの車両でして、車内は暑くて暑くて蒸し風呂状態だったのを未だに鮮明に記憶しております

一時間程走ったところの『楓港』で休憩。ここで余りの暑さに耐えかねて後から来た冷房車に追加料金を支払い乗り換えました


復刻版 台湾の想い出 その6

2010-07-04 21:26:36 | 1980年代台湾の想い出

30年前の台湾旅行の際に馴染みになった女性といろいろな所に遊びに行きました
市内観光を始めショッピングや各種娯楽

その中でも映画館にはよく行ったものです
台湾でのアメリカ映画は場合によっては日本より先に公開される作品が有って、帰国してから近日公開などとの広告を見て驚いたこともありました

台湾での映画館での想い出は作品の上映に際して先に中華民国国歌が演奏されます。当然観客全員が起立してスクリーンに上映される国防関係の映像に併せて国歌が流れ、それが終了してから作品がスタートとなります

愛国心を鼓舞して反共精神を高揚させると言った趣旨なんでしょうが、実際作品が上映されると館内は無法状態と言いましょうか、あちらこちらからタバコの煙が舞い上がり火事の心配で最初は落ち着いて観賞出来なかった想い出でした

画像は台湾北部の野柳公園
女性と一緒に鉄道で基隆に行き、そこからバスで10キロほど北西に行ったところにある観光地です
海岸の岩場が浸食されて月世界の様なイメージ

帰りは奮発してタクシーを利用しましたが、そのクルマは黒色の日産セドリックでしたがドアに『○○タクシー』との表示。沖縄県のタクシー会社の中古車が使用されていました。
そう言えば沖縄県は祖国復帰後の昭和49年でしたか右側通行から左側通行に変更となり、その際に廃棄になった車両が台湾に流れてきたものだと理解した次第です


復刻版 台湾の想い出 その5

2010-07-03 15:28:08 | 1980年代台湾の想い出

台湾での想い出の一つに台湾鉄道旅行が挙げられます

当時の台湾鉄道を利用する際に一番の難関はやはり最近の中国ほどではありませんが切符の入手が困難でして、特に台北・高雄間の特急関係は利用者の割には運行本数が少なく、また窓口での言葉の問題もあって外国人にはいささか辛いものがありました

それでも年配の職員が担当している窓口などでは戦前の日本語教育を受けた人も居たおかげで入手出来た事もあり、売切れでどうしようも無い場合などは駅長室に行き、日本語でお願いすると必ずと言っていいほどメモ書きをくれ、それを持って窓口に行けば不思議と購入できたものでした

画像は1982年の夏に台湾一周の鉄道旅をした際の花蓮駅
この花蓮駅から夕方の台北行き特急に乗車しようと計画していましたがあいにく売切れ
止むを得ず駅長室に行き明日の便で帰国するので何とかとお願いして切符を入手出来、乗車しましたらダブリ発行となっておりました

しかし日本語の出来る車掌の差配で座ることが出来、元々の乗客は台北までの間デッキに移動させられていました・・・ゴメンなさい


復刻版 台湾の想い出 その4

2010-07-02 22:01:01 | 1980年代台湾の想い出

30年前の男性天国と言われた台湾ですが、その国内の治安情勢と言いましょうか、対大陸態勢には厳しいものがありました

台湾と言うより国民党による中華民国は第二次大戦後に中国大陸において共産党に敗れて台湾に逃げてきたと言う歴史があり、いつかは大陸を奪い返すと言ったスローガンの下、反共政策を取り入れていました

その関係で台湾全土に戒厳令を布告して徴兵制を始め各種国防施設付近や海岸線での行動にいろいろな制約がありました

それらの代表例としましては
カメさんの大好きな鉄道に於いても客車内に反共のスローガン『スパイを見つけたものには報奨金をだす』との掲示やキップの裏側にも国防・反共・復光etcの印刷がされていました
特急列車の愛称もその関係の名称が付けられており、これは今現在でも定着したのか運用されています

当然街中も同じような光景が至る所で見かけられました

空港到着後の税関検査も中共製品の持ち込みは厳禁となっており厳しい現実を感じ取ったものです

しかしそれらを除けば戒厳令が施行されていると言っても夜間の外出制限もなく、まったく気にならないどころか天国とまでは行かないまでも南国の街の趣がありました

画像は台北駅付近の一コマ
奥に見えるのが当時の台北駅。手前のアーケードには建設台湾・光復大陸のスローガンが掲げられています


復刻版 台湾の想い出 その3

2010-07-01 21:59:51 | 1980年代台湾の想い出

男性天国で有名だった台北郊外の新北投温泉。この温泉には残念ながら滞在した経験はありませんが、経験者からいろいろな話を聞いたり舞台にした小説を読んだりしての耳年増です。

当時の台湾での男女を話題とした小説では作家 邱永漢の『たいわん物語』が参考になるでしょう?
この作品の時代背景がちょうど1975年から80年にかけての台湾を舞台とした男女間のさまざまな話題が描かれており、カメさんが初めて訪台した頃に週刊誌に掲載されていた作品です。

さらに台湾での日本人買春問題を提起した作品として台湾人作家の黄春明の作品で『さよなら・再見』が有名だと思います
日本語が出来る元教諭が日本人相手の旅行会社のガイドとして買春目的の日本人団体客のガイドを生活の為に不本意ながら努め、最後に日本に憧れる台湾学生と日本人団体客の間に入り双方の行動を諭すと言った内容です

カメさんは1980年から3年間でほぼ台湾全土に行きました
その間にいろいろな夜遊びにも当然励み励み『たいわん物語』に描かれているような場面に近い内容の経験もしましたが、相手の女性とも楽しい想い出だけが残っております

画像は台東市郊外に位置する知本温泉
当時は交通の不便な台東地区でしたから観光客もあまり訪れることの無かった田舎の温泉地でしたが、最近のガイドブックを見ると大規模な温泉ホテルが営業しているとか?
一度行ってみたいものです


復刻版 台湾の想い出 その2

2010-06-30 21:21:56 | 1980年代台湾の想い出

カメさんが初めて台湾に行った30年前、当時の台湾は男性天国であったとカキコしました。
当時の日本からの団体観光客の大半は男性中心で、空港到着後はガイドに案内されてホテルや観光地に行く前に先に立ち寄るのが市内にある酒家や酒吧と呼ばれる置屋です

日本発午前便であれば正午過ぎには1979年に開港したばかりの当時の中正国際空港に到着し、高速道路を約一時間かけて台北市内の置屋に到着、だいたい午後三時前後でした
そこで今夜のお相手を選び予約完了してから観光・夕食を済ませホテルに送迎となり、その頃を見計らって予約した女性が部屋に尋ねて来ると言った手順でした

当時の台湾は公娼制度そのものが廃止されておりましたが、ガイドの説明では既存の経営者一代限りにおいてのみ経営が認められていると聞いた記憶があります

特に台湾が男性天国として有名だったのは台北市郊外にある新北投温泉でして、この温泉地は日本の植民地当時から湯治客で賑わうと同時にいつの間にか超有名な歓楽地となってしまい、1979年に台湾での公娼制度が廃止されるまでの間は酒池肉林で有名だったとの事です

この新北投温泉に余りにも多くの日本人男性が押し寄せ、酒池肉林行為で連日連夜盛り上がるものですから、当時の現地旅行会社の社長が日本の新聞に『恥と言う言葉を知っていますか?』と言った内容の意見広告を掲載したことは話題ともなりました
その後、その広告を出した良心のある旅行会社は日本の旅行会社から敬遠され倒産したとか

残念と言いましょうかカメさんの台湾初訪問が翌年の1980年ですからその辺りの経験はありません
カメさんが体験したのは市内の酒吧遊びです。今で言うKTVですがTVはありませんでした

これも先程カキコしましたように午前便を利用するか午後便を利用するかによって大きな影響を受けます。当然午後便だと入店出来る時間が夜の7時以後となり、午前便の客に指名された残りの中から選ぶと言った状況になります

画像は2007年に20数年振りに訪問した新北投温泉駅前


復刻版 台湾の想い出 その1

2010-06-29 21:26:47 | 1980年代台湾の想い出

カメさんにとって産まれて初めての海外旅行は今から30年前の1980年7月に2泊3日で行った台北3日間のツアー

当時の思い出としては
パスポートの取得が今のように簡単ではなく、旅行会社の渡航引受書等の渡航に関する書類の提示を求められた記憶があり、パスポート受領の際には漢字とローマ字でのサインを旅券の署名欄に直接記載するように求められました

それより当時の台湾と言えば男性天国として非常に悪名高く、カメさんが台湾に行くと皆に話しをした時点で大ヒンシュクを受けたものでした(笑)

当然と言えば当然でして、当時日本から台湾への観光客は年間60万人ぐらいが行き、その大半は台北市内観光を兼ねた俗に言う『買春観光ツアー』ご一同様です

そのため行きの大阪国際空港(伊丹空港)からの台湾便の乗客の大半は男性ばかりで、搭乗する前からその辺りの話で盛り上がり、更に機内サービスでのアルコールが入ると一部の乗客はもう感情が昂ぶり大声での会話となってしまい、客室乗務員が苦笑い状態でした(反省)

一方台湾の受入側の現地旅行会社にしても一般の観光客相手より買春観光ツアー客を相手にする方が実入りがいいのかして、空港で出迎えてから直ぐに市内にある契約先置屋であるところの酒吧に案内し、紹介・斡旋をして利益を出す。と言った営業が一般的でした

1980年7月、伊丹空港から三時間のフライトで開港間もない中正国際機場(桃園空港)に到着
初めての国際線による外国入国手続きでしたが、税関通過の際に当時の台湾がおかれている状況を知る事となりました
税関検査において大陸製品の持込は厳禁。また日本の新聞・雑誌の持込も厳禁でして、あえて持込が認められていたのは日経新聞だけだったと記憶しております


復刻台湾シリーズ

2010-06-28 21:26:02 | 1980年代台湾の想い出

6月26日に道草亭ベンベンさんから2007年7月24日にカキコしました『淡水線』にコメントを頂きました(感謝)

毎日毎日中国関連の内容だけをカキコすると言うことは大変なものでして最近ではネタ切れ状態になりつつあり、さりとて中国での2006年度の活躍を思い出シリーズとしてまとめ、カキコするのも最近脳みそが悪い病気で腐り出したのか?多少ボケ症状が感じられてきてめんどくさい気持ちになっているので中断したままです

しかし勝手なもので四年前の記憶がめんどくさいのに30年前にもなる台湾となると更に過去の遺物ではとなるのでしょうが台湾は別格です

台湾の懐かしい記憶を道草亭ベンベンさんが思い起こしてくれたものですから以前カキコした内容と重複するかも知れませんが復習の意味で何回かに分けて披露させて頂きます


待ちぶせ♪in TAIPEI

2007-11-12 20:01:11 | 1980年代台湾の想い出

カメさんが台北狂いしていた1981年には、当然馴染みの女性が出来、その女性との再会を目指して日本での生活は『質素倹約を旨とす』を心がけていたものです?( ただのアホです!)

その頃、やっとのことで金が貯まり( 下半身が貯まりの間違いかも? ← 大笑い )訪台の予定が決まると、相手に連絡を取る必要がありました。

今の様にインターネットがある訳でもなく、国際電話と言ってもKDD単独で利用料金はベラボウに高くて出来ない

時たま女性から短時間の電話がありましたが、もっぱら連絡手段は手紙です。

便利なもので日本語で手紙を送っても、日本語の達人のような翻訳屋を通じて返事が届きますので意思の行き違いがありませんでした。

そこで訪問予定日時を連絡し、市内での待ち合わせ場所をどこにするか?でいろいろと考えた結果、よく利用したのが台北駅前の喫茶店です。

その喫茶店に到着するのはだいたい利用航空からすれば夕方4時頃となり、晩秋の時期などは夕暮れ時になり、まさに当時流行っていた『石川ひとみ』のヒット曲『待ちぶせ』とオーバーラップします

夕暮れの街角 のぞいた喫茶店
微笑み見つめ合う 見覚えある二人~♪

まさにカメさんの青春時代そのものでしょうか?←(青春?性春または買春じゃないの?)

画像は当時の台北駅前の風景です(今は建て替えられて面影はありませんよ!)