Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

カッコよくなくていい、でもみっともない人間にはなりたくない!

2009年01月18日 | Weblog


 肝心なのは自分が間違えているかもしれないと疑う心を自信と同じくらい大事にし続けること。

 福本容子 (毎日新聞経済部記者)

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意見を書く。何のためだろう。

わたしは、自分の頭のなかでうまくことばにできない考えを、とにかくことばで表現できるようにしたいからだった。自分の心のありようも把握したかった。でも教養が低いので、ことばそのものを学ばなければならなかった。だから、わたしのブログはスクラップ方式だから。わたしの眼目は、ライブで、人と対面したときに自分のことばで意見をいうことだ。頭には、エホバの証人や同様の人びとの大きな声に従わせられたくない、ということがある。それは単なる願望ではなく、意志だ。

今、ふりかえって、エホバの証人系のホームページやブログを少し覗いてみるに、たしかに自分は成長してきたことが、うぬぼれではなく、はっきりと見て取れる。そう言い得る特徴は、書かれた意見なり、考えが、「自己」から分離されていることだ。自分のアイデンティティから切り離されていることだ。

掲示板時代には、民主的討論はできなかった。自分の意見と相手の意見を出し合って、新たな見解をつくりだすということができなかった。掲示板で繰り広げられていたのは自我と自我のバトルであり、自分のアイデンティティが生き残れるかどうかの闘いだった。論題はさまざまでも、そこで主張されていたのは、決して個々の論題ではなく、相手よりも自分のほうが「正しい」あるいは「強い」こと、もっと極端にいえば、相手よりも自分のほうが「価値が優れている」ということだった。

掲示板では排他的になる傾向が強い。主だった人が「裸の王様」になってしまって、その、一種の「権力」にあやかって自己を拡大させようという人々が集まってくる。いわば取り巻きという人々が、掲示板に入り込んでくる人を選別しはじめる。裸の王様のカラーにとってそぐわない人は容赦なくバッシングされ、排除される。追従(ついしょう)する人には大げさな賞賛が与えられる。…そう、まさにエホバの証人時代とまったく同じ人間関係が現れるようになる。


このアイロニックが示すのは、そういうふるまいが、自分を見失っている人の「症状」であり、カルトに自らかかわってゆく人は、「自分」を見いだし、それを強化しようとする、そんな動機がうかがえるということではないだろうか。また、周囲とうまく折り合えず、つまり民主的な相互的な意見調整、自分を譲歩させることのできないひとが、それでも居場所を与えてくれる社会を求め、自らカルトに入ってゆくのではないだろうか。

カルトでは厳格な家父長制が敷かれ、個々人を尊重するという民主主義ではなく、伝統的な「身分」あるいは「権威」が尊重されなければならない。だが、「自分」という明確な自意識が求められた「個人」を持たないでは成立しえない民主主義と違って、家父長制のような権威主義ではむしろ、権威者に逆らい、そのメンツを潰しかねない民主的自我を主張するものは排除されるのだ。そこでは成員にはっきりしたアイデンティティがないほうが好まれる。権威主義だからだ。権威を立て、権威に追従する場合に限り、賞賛と身分が与えられ、そうやって「自分」とそして「居場所」が確立される。わたしが観察できた範囲内では、わたしの親、周囲の信者たち、掲示板に集まる人々を範囲としていうと、カルトに飛び込んでゆく人びとはそういう人だったと思う。


権威主義では権威に追従しなければ「自己」という存在そのものが脅かされる。だから自分の感受性、自分の意見、自分の希望、願望がもし権威者に気に入られなければ、それらはボツにしなければならない。それがカルトにおける「息苦しさ」の主な正体だった。そこで、「権威者の意見や感受性は批判されることなく持ち上げられるのに、どうして自分の感受性や意見はいちいち辛辣に批判され、取り下げられるのだろう。こういうのに強い不満を感じる」、こう思うようになったら、内面の人間性が成長をはじめたのだ。そういう考えがでてくると、「よく考えてみれば、権威者たちの言うことには矛盾や独善的な点が見える」と、批判するようになる。茹でた魚のような、白く濁った状態から、黒く澄んだ状態に眼が回復したのだ。そしてついに、頼もしい自信と思えた権威者の特徴は、ただの独善であると気づくようになる。

権威者たちはなぜああも独善的なのか。それは取り巻きに、イエスマンしかいないことが挙げられる。権威者みずからそういうブレーンを集めたのかもしれないし、取り巻きたちが権威にあやかろうとしたため、権威者を過剰に持ち上げたのかもしれない。もしそうなのであれば、この取り巻きという連中ほど卑怯な者はいない。なぜなら、みずから権威者になるのではなく、あくまで権威にあやかるものでいようとするからだ。それは「自分たちは責任は取りたくない」からだ。この点で取り巻きたちは「官僚」の性質を帯びている。そうだとすると、彼らに自分の人生をまったく委ねておくのは危険きわまりない、ということに気づく。

「官僚の性質を帯びている」と書いたのは、そういうことは何もカルト宗教や、掲示板だけに限られるのではない、現実社会の統率者である政府にもふつうに見られる事態だということを言おうとしている。会社で部下を持つ身になると、自分もそういう独善的な裸の王様になってしまうかもしれない。人から賞賛され、もてはやされるのはたしかにうれしい経験ではある。でもそこで、賞賛のことばを批判する眼を失いたくない。

この賞賛のことばは、実質をどれほど有しているか、つまり自分が挙げた成果に、たしかに見合ったものか、それとも漠然とした人物賞賛でしかないか。もし後者ならば、その賞賛者はわたしに取り入ろうとしているか、わたしを追い落とそうとしている。しかし前者であれば、つまり自分への賞賛が自分の行ったことに限られたものであれば、それは正当に評価していい、自分の自信をさらに強めてくれる経験をしたのだ。さらに強化された自信を持って、明日からまた新しいステージへ上がってゆこう。こうして人生を多くのチャレンジで満たすのだ。そしてその自信が「自分」というものを形成するのだ。そうなれば、もはや二度と、「自分」の価値を他人に尋ねるためカルトに飛び込もうとはしないだろう。

目は黒く回復したが、いまだカルト宗教にいたとき、権威者たちはみっともなく見えた。ひどくこっけいに見えた。しょせん裸の王様だった。取り巻きの誰かに運が回ってきて、彼が権威を多く集め、やがて以前の権威者が追い落とされたとき、その裸の王様は、もはや王様とはみなされず、裸の人間とみなされて、放り出される。彼への評価はしょせんバブル経済と同じだ。実質に見合った評価ではなかったのだ。自分の自信を持つのはいい、だが裸の王様になってしまわないためにはどうすればいいか。それが上記の福本記者のことばだ。このことばは毎日新聞の「発信箱」というコラムに書かれたものだ。この記事の最後にコラムの全文を転載しておきます。

エホバの証人を出て、新たに人生を歩んでいこうと決意された方々に、またあるていど、新しい人生になじんだ人にも、この言葉を贈る。なぜならわたしたちはかつてカルトにいたのであり、自分の価値を他人の評価で測ってしまう教育を受けてきたからだ。わかりやすく言えば、ほめられれば必要以上にのぼせ上がってしまうよう教育されてきたから。自分に権威が与えられ、部下をさえ持つようになったとき、わたしはこのことばを胸に刻む。独善的権威者になって他人の人格を否定したりして悲しませたくないから、というのはもちろん「よそ行き」の理由だ。そういう気持ちももちろんあるけれど。ほんとうの気持ちは、「みっともない人間として人生を送りたくない」という多少のナルシスティックなものだ。でも、それでもいいじゃない。さんざんそういう人を見てきたし、バカにしか思えなかった彼らに十分利用され続けて悔しい思いもしてきた、あんなみっともない人間にはなりたくない、そう思うのも、勉強の成果ってものだと思う、ネ。




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ブラックベリー=福本容子


 もうすぐ大統領、のオバマさんは、どうやら強力な味方と、しばらくお別れみたいだ。

 その名はブラックベリー。カナダのRIM社が開発した電子メールやインターネットが便利な携帯電話である。次期大統領は中毒と呼ばれるほどの愛用者で、侍の刀のようにいつもベルトの腰に着け、選挙戦中も親指で小さなキーボードに文字を打ち込む姿がキャッチされた。

 懸命の訴えもかなわなかったか。利用不可の理由は主に二つだ。まず暗号化されたメールが何者かに解読される情報漏れの恐れ。そして情報公開法によりメールの開示を求められ、思わぬ面倒に巻き込まれる心配で、側近や弁護士が譲らなかった。

 なぜおもちゃのような小さな機械にそれほど執着する? 先週、米CNBCテレビで本人が話していた。


「ホワイトハウスの外とのコミュニケーションを保ちたいのです。(側近が)用意する管理された情報とか、いつもいい話しかしない人、私が部屋に入るとき起立して迎える人からの情報ではだめだから」。

外界から遮断され、守られたカプセルの中に住みたくない、との抵抗である。



 人気の高い権力者の周囲にはイエスマンが集まる。企業の世界もそう。斬新さが魅力だったトップも成功するにつれ、批判が耳に届かなくなり、判断を誤ってしまうことは珍しくない。

 肝心なのは自分が間違えているかもしれないと疑う心を自信と同じくらい大事にし続けることなのでは。新大統領はブラックベリーを使えなくなっても、目立つ所に置いておけばいい。画面の文字の奥にある批判の声さえ必死に分かろうとしていた自分を忘れなければ大丈夫。(経済部)

 

 

毎日新聞 2009年1月16日 東京朝刊


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