聖書に学ぶ神のみことば

teacherが感じ、思ったことなどをいろいろと綴ります。聖書の一節をちょっと添えて。

残雪~ヨハネ15章 ぶどうの木~

2006-04-23 18:20:56 | みことば
 祝福に包まれた春の聖会~日陰の残雪とともに~

 「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」(ヨハネ福音書15:1)
 I am the true vine and my Father is the vinedresser. (※英文はNKJV。新国際訳ではvinedresserの代わりにgardenerをあてている。)

  宣教団で毎年2回行なっている聖会。春の聖会が昨日、今日と行なわれた。今日は、お昼ごろからようやく陽射しに包まれて春らしくなり、まさに神の祝福が注がれていると実感。自宅西側の隣家(写真左側)に遮られて日があたらないために、毎年いつまでも解けないしぶとい残雪もようやくあと4~5日でなくなるのかな~というところまできた。
 春の汚い泥をかぶっている残雪。なんだか、今日のメッセージと重なるものがあった。ヨハネ15章は、あまりにも有名な「ぶどうの木」のたとえ話で、正直「いまさら・・・」という気持ちになりがちな箇所であるが、やはり福音書の理解範囲はとても広く、いかに自分が小さき者、未熟者であるかをまた教えてくれる箇所である。今日のゲストメッセンジャーであった遠藤勝信(まさのぶ)牧師に、そして主に感謝である。

 なぜ春の汚い雪をみて、ヨハネ15章か?「わたしにとどまりなさい。(中略)わたしにとどまっていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。」(ヨハネ15:4)とあるように、自分自身、神中心の生活意識になっていない時がやはりあるということだ。遠藤師は、「みなさんもそんなときがありませんか。おうおうにして人はそうなっていくものです。教会という存在すらも、神中心というところから離れ、誤った方向に歩みがちになるものです。」という趣旨のことを話されていたが、真冬に降り積もる純白の雪をまっすぐな信仰とすれば、正直なところ、時にふらつきがちな僕の信仰など、いつか自然に消えてなくなっている春の汚い雪そのものだな~と思った次第。

 ちなみにヨハネ15章2節にある「父が(中略)刈り込みをなさいます」の刈り込み=英語で、<prune>は、同じく3節にある「もうきよいのです。」の「きよい=clean」とは、ギリシャ語で同義であるというお話がありました。これは、ヨハネ福音書の理解を広げるうえで、とても参考になるお話でした。

 弟子たちとの最後の晩餐で話されている主イエス。大いに苦しまれていたことでしょう。13章から17章にかけて、主はいろいろなたとえ話をされていますが、16章1節に至り、「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。」とあります。
 「いつも読んでいる福音書」という軽い気持ちではダメで、何度も読み返しては主が言わんとしたところについて理解を深めるそんな謙虚な姿勢に立ち戻らねばならないことを、遠藤師は示してくれました。感謝であります。

 なお、「ぶどう」については、イザヤ書5:4に預言者の口から語られているように、旧約から新約の時代に脈々と関連あるテーマであることも学びました。(他に、エレミヤやエゼキエルなどとも関連)

 イザヤ書5章4節 「わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうになるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。」

 信仰の書、「聖書」。謙虚な姿で何度も神のみことばに立ち戻ることの大切さを教えていただいた春の聖会でした。

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