peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

平家物語ゆかりの地を巡る旅 京都6:寂光院の庭園とマンリョウ(万両)

2010年02月09日 | 平家物語ゆかりの地を巡る旅

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 寂光院本堂

2010年2月4日(木)、寂光院:京都市左京区大原草生676 平清盛の娘建礼門院徳子と侍女の阿波内侍の像があり、近くに2人の墓がある。2人は壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も生き残り尼となって寂光院で余生を送った。寂光院や三千院のある大原の里は念仏行者の修行の地であり、貴人の隠棲の地であった。平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈っていた建礼門院を訪ねて後白河法皇が寂光院を訪れるのは文治2年(1186)のことで、この故事は平家物語の「大原御幸」の段において語られ、物語のテーマである「諸行無常」を象徴するエピソードとして人々に愛読された。見学予定時間(15:30~16:10)通り進行。

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本堂前西側の庭園。平家物語当時のままで、心字池、千年の姫小松、苔むした石、汀(みぎわ)の桜などがある。

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 四方正面の庭

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 太閤豊臣秀吉家寄進の鉄燈籠

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<strongt></strongt>寂光院の庭園には、マンリョウ(万両)が沢山植えられていて、真っ赤な実をつけた姿がひときわ目立っていました。

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 鐘楼と「諸行無常の鐘」と名付けられた梵鐘

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マンリョウ(万両) ヤブコウジ科 ヤブコウジ属 Ardisia crenata

暖地の林の中に生える常緑の小低木。縁起のいい木とされ、正月飾りによく利用される。また常緑で実も美しいので庭などによく植えられている。高さは50~100cm。葉は長さ5~12cmの長楕円形で、縁には波状の鋸歯がある。7月頃、花びらがクルリとそり返った白い花が下向きに咲く。花は直径約8mm。果実は直径6mmほどの球形で、晩秋に赤く熟し、翌年の春まで残る。果実が黄色のものや白いものもある。分布:本州(関東地方以西)~沖縄。[以上、山と渓谷社発行「山渓ポケット図鑑3・秋の花」より]

 「マンリョウ(万両)の花」の画像が、下記のWebサイトに掲載されています。

 http://www.jakkoin.jp/sizen7.html [大原 寂光院の自然]


平家物語ゆかりの地を巡る旅 京都5:寂光院

2010年02月09日 | インポート

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建礼門院大原西陵に寄り道している間に、仲間たち一行の姿が見えなくなってしまいました。行き先がわかっているのであわてませんでしたが、このタクシーが停まっている所の右側の方に、寂光院の入口がありました。

(下)寂光院の門前にある漬物店「翠月(すいげつ)」:シソの香りの高い生しば漬けなどを売っている。

 建礼門院に仕えた阿波内侍(あわのないじ)は、院の前の草生川を渡った所の墓で静かに眠っている。この阿波内侍が里人の貢ぎ物の夏野菜(ナスやキュウリなど)を、シソ(チソ)の葉と一緒に漬け込んだ漬物が「しば漬」の始まりとされ、みやげ物として茶店などで売られている。

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 謡曲「大原御幸」と寂光院:文治2年(1186)4月、後白河法皇が壇ノ浦で平家が滅びた後、洛北寂光院に隠棲された建礼門院(徳子・高倉帝の皇后)を訪ねられたことは「平家物語の潅頂巻」にくわしく、また謡曲「大原御幸(おおはらごこう)」にも謡われている。当時、法皇は鞍馬街道から静原を経て江文峠を越え大原村に入り、寂光院を尋ねられているが、ここ寂光院の本尊は聖徳太子御作の地蔵菩薩で、その左に建礼門院の木像や阿波ノ内侍の張子の座像が安置されている。謡の詞章にそって緑羅の垣、汀(みぎわ)の池などが趣をそえ、うしろの山は女院の御陵域になっており、楓樹茂り石段は苔むし、謡曲をしのぶことが出来る。謡曲史跡保存会

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寂光院の受付

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 参道の長い石段を登ると山門があり、潜るとすぐ前に本堂(書院)がある。本堂は平成12年(2000)、放火で焼失したが平成17年(2005)に再建された。

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寂光院:天台宗の尼寺で、山号は清香山(せいこうざん)、寺号は玉泉寺(ぎょくせんじ)という。推古2年(594)に、聖徳太子が父・用明天皇を弔うために建立したと伝えられる。初代住職は、聖徳太子の御乳人(めのと)であった玉照姫(たまてるひめ)[敏達十三(548)年に出家した日本仏教最初の三比丘尼の御一人で、慧善比丘尼という]で、その後、代々高貴な家門の姫君らが法灯を守り続けてきた。第二代の阿波内侍(藤原信西の息女)は、崇徳天皇の寵愛をうけた女官であったが、出家後に入寺し、証道比丘尼となった。建礼門院に宮中より仕え、草生では大原女のモデルとされている。第三代の建礼門院徳子(平清盛の息女、高倉天皇の皇后、安徳天皇の国母)は、 文治元年(1185)9月入寺し真如覚比丘尼となった。そして源平の戦に破れて遠く壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子安徳天皇の菩提を弔い、終生をこの地で過ごされた。閑居御所とされた。それ以来、御閑居御所、また、高倉大原宮とも称されている。

 翌文治2年(1186)、後白河法皇が御幸したことは、平家物語や謡曲で有名な大原御幸(おおはらごこう)として知られている。 旧本堂は、内陣及び柱が飛鳥様式、藤原時代及び平家物語当時の様式、また外陣は桃山様式で慶長8年(1603)に豊臣秀頼が、片桐且元を工事奉行として修理させたという歴史的に貴重なものであったが、平成12年(2000)5月9日の火災により全焼し、その姿は永遠に惜しまれるものとなった。ともに焼損した聖徳太子の作と伝えられる旧本尊、六万体地蔵尊は重要文化財の指定が継続されているが、損傷が甚だしいため、収蔵庫に安置されている。

現在の本堂及び本尊は平成17年(2005)6月に古式通りに忠実に復元したものである。また、江戸時代には、豊臣秀頼や徳川家康、淀君らが再興に手を尽くした。

本堂前西側の庭園は、平家物語当時のままで、心字池、千年の姫小松、苔むした石、汀(みぎわ)の桜などがある。この姫小松は、平家物語潅頂巻の大原御幸に「池のうきくさ 浪にただよい 錦をさらすかとあやまたる 中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色」の松として伝わるもので、文治2年(1186)の春、翠黛山(本堂正面に対座する山)から、花を摘み帰った建礼門院が、後白河法皇と対面するところに登場する。この樹齢千年の名木も、本堂の火災によって痛みが激しくなり、遂に平成16年夏に枯死した。この庭園は幽翠で哀れに美しく、当時の余韻を残している。

本堂前北側の庭園は、回遊式四方正面の庭で、林泉・木立・清浄の池として表現され、特に石清水を引いた三段の滝を玉だれの泉と称し、一段一段高さと角度が異なり、三つの滝のそれぞれ異なる音色が、一つに合奏するかのように作庭されている。

 また、本堂手前右側にある大きな南蛮鉄の雪見燈籠は、太閤豊臣秀吉の寄進で桃山城にあったものを移した。

本堂の右手裏山には、建礼門院大原西陵が所在し、五輪塔の仏教式御陵として珍しいとされている。さらに翠黛山には、阿波内侍をはじめとする5人の侍女の墓地群が所在する。

[受付で頂いたパンフレットの「寂光院略縁起」より]

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 寂光院の山門

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 (上)と(下) 寂光院の本堂(書院):平成12年(2000)5月に放火により全焼した本堂は復元され、平成17年(2005)6月に一般公開された。往時の姿を取り戻した内陣は、漆塗りの黒い柱に赤、青、金色の極彩色で唐草模様が描かれている。中央には、高さが2mを越える鮮やかな色の地蔵菩薩像が安置されているほか、建礼門院の像と建礼門院に仕えた阿波内侍(あわのないじ)の像が祀られていた。

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本堂左手の庭園に一本の桜の木がある。「汀の桜(みぎわのさくら)」といい、そばの池を「汀池(みぎわいけ)」という。これは、後白河法皇(夫・高倉天皇の父)が建礼門院を見舞ったとき、法皇が詠われた「池水に汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛りなりけり」に因んで名付けられたとされる。

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 本堂右手前に、伏見城から移されたという南蛮鉄で造られた大きな雪見燈籠が置かれていた。

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 本堂右の北庭園は「四方正面の庭」で、岩清水の流れる滝と泉がある。

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平家物語ゆかりの地を巡る旅 京都4:大原西陵

2010年02月09日 | 平家物語ゆかりの地を巡る旅

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2010年2月4日(木)、比叡山を後にして、次に向かったのは「大原の里」にある寂光院。「島本」とある有料駐車場にバスを駐めて、約800mほどある道を歩く。「寂光院」までは、道しるべが完備していたので迷わずに行けた。のどかな感じがする道ばたには、カンツバキと思われる赤紫色の花がそちこちに咲いていた。

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寂光院まで後700m。

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寂光院まで後300mとなった。

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道の右側を流れる小川に小さな滝があった。建礼門院が詠んだ和歌にある「落合の滝」というのだろう。「ころころと小石ながるる谷川の河鹿なくなる落合の滝」

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 道の左側に 大原温泉 「大原の里」があった。温泉が湧いているのだ。

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 道の右側に「大原の味噌屋」があった。

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 道の右側にお食事処 池谷茶屋があった。

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 ここにもカンツバキと思われる花が咲いていた。

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 先を歩いていた一行が「足湯 Cafe らく焼 寂光院窯」の店に立ち寄っていた。フクロウやガマ蛙の置物などが展示されていた。

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 道の右側に「宮内庁」が管理する「大原西陵」があった。高倉天皇と書かれている。夜間や早朝には施錠するのだろうが、丁度門扉が開いていた。ガイド役の村上先生が先に入って行ったので、私も続いたのだが、一行は誰もいなかった。

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 平家滅亡の地、壇ノ浦から生きて京に戻った平清盛・時子の二女で、高倉天皇中宮、安徳天皇の母の建礼門院は、東山の麓、左京区吉田あたりの奈良法師の坊に入り、長楽寺で髪をおろしたと「平家物語」では記している(諸本により異説もある)。

 落飾した建礼門院は、京の中心地から北へ入った山奥、大原の寂光院に引きこもった。九月のことという。壇ノ浦の合戦から半年後だ。

 寂光院は、聖徳太子が父用明天皇の菩提を弔うために開基した古刹である。本堂のかたわらに庵を結び、建礼門院は昼夜絶え間なく念仏を唱えて月日を送ったという。[以上、JTBパブリッシング発行「平家物語を歩く」より]

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大原西陵前から参道入り口を望む

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ご一緒した見学者一行(寂光院見学後)