1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

2/18・ファンタジスタ、ロベルト・バッジョ

2013-02-18 | スポーツ
2月18日は、インドの聖者、ラーマクリシュナ(1836年)、前衛芸術家、オノ・ヨーコ(1933年)の誕生日だが、至上のサッカー選手、ロベルト・バッジョが生まれた日でもある。
自分は、ジュビロ磐田の本拠地、静岡県磐田市の生まれで、小さいころからサッカーにはよく親しんでいた。小学生のころは、大空翼ではないが、「ボールは友だち」といった感覚で、足を出せば、ボールが吸いついてくる感じだった。小学校の代表チームのメンバーとして、市内大会に出場し、優勝したこともある。
その後、中学からテニスをはじめたので、しだいにサッカー・ボールとは疎遠になり、だんだん、ボールに嫌われている自分に気づくようになってきたけれど、そうやって嫌われても、なおサッカー・ファンではありつづけている。
ペレ、クライフ、マラドーナ、オーウェン、ジダン、カカ、ゴン中山と、好きなサッカー選手はたくさんいるけれど、いちばん好きな選手は誰かといえば、やっぱりサッカーのファンタジーを見せてくれるアーティスト、ロベルト・バッジョである。
その存在が大きすぎるために、つねに監督とのあいだに緊張関係が築かれ、結果として監督に冷遇される、そしてバッジョは宿命的にそのハンディをはねのけて活躍することになるという、その悲劇性も魅力である。

ロベルト・バッジョは、1967年、イタリアのカルドーニョで生まれた。8人きょうだいの6番目の子で、小さいときからサッカー大好き少年だった。地元のユース・チームの選手として活躍し、1試合で6ゴールを決め、プロ・スカウトの目にとまり、15歳のとき、プロ・デビュー。
彼は、セリエC1のヴィチェンツァというチームからキャリアをスタートした。高い技術に裏打ちされた、想像力豊かな華麗なプレーと、圧倒的なゴール決定力でチームの勝利に貢献し、18歳のとき、セリエAのフィオレンティーナに移籍。ところが、右ひざをけがし、2シーズンを棒に振った。それでも、チームはバッジョの回復を待った。けがが回復して、戦線へもどると、バッジョは大活躍して、地元フィレンツェはバッジョのプレイに熱狂した。バッジョが、当時の史上最高額の移籍金でトリノのユヴェントスへ移籍することが発表されると、フィレンツェでは暴動が起きたほどだった。これは、フィオレンティーナのオーナーの一存でおこなわれた移籍で、バッジョ自身も当惑したといわれるが、ユヴェントスへ移ったバッジョは、やはり大活躍して、チームをUEFAカップ優勝に導き、バッジョ自身も国際サッカー連盟(FIFA)の最優秀選手に選ばれた。以後、バッジョは、ACミラン、ボローニャ、インテル、ブレシアとチームを変えて活躍し、「ファンタジスタ」の名をほしいままにした後、37歳で現役を引退した。
一方、サッカー・ワールド・カップにおいては、1990年イタリア大会(第3位)、1994年アメリカ大会(準優勝)、1998年フランス大会(ベスト8)と、バッジョは3大会にわたって代表として出場し、いく度となく奇跡的なゴールを決め、母国を窮地から救い、勝利へと導いた。3大会を通じて、バッジョを擁するイタリアは、一度も試合のスコアで負けたことはなく、敗北はすべてPK戦による。
その後、バッジョは、イタリア・サッカー協会の技術部門監督に就任し、セリエAの監督資格を取得。
しかし、2013年1月、バッジョが提言する若手サッカー選手育成法の改善策に、サッカー協会が耳を貸さないとして、彼は技術部門監督を降りている。

バッジョは、サッカー史に残る数々の名場面を演出してきたが、自分がいちばん印象に残っているのは、サッカー・ワールドカップの1998年フランス大会、グループ・リーグの、イタリア対チリ戦で見せた、相手ディフェンダーの手をねらって蹴ったボールである。
そのとき、試合はすでに後半の終わり近くで、イタリアは1対2で負けていた。相手側コートに攻め込んだイタリアは、ルーズボールになりかけたのを、バッジョが奪って足元に落ち着かせた。そのバッジョの前に、チリのディフェンダーが立ちはだかった。瞬間、二人はペナルティ・エリアのラインをはさんで対峙した。バッジョはペナルティ・エリアの外、チリの選手は内である。バッジョは、ボールを蹴った。高く上がったボールは、チリ選手の手にぶつかり、選手の手が大きくはねあがった。バッジョは、ハンドではないかと、腕を掲げてアピールした。主審はハンドの反則と判定し、ペナルティ・キック(PK)を宣言した。
PKはバッジョ自身が蹴った。ワールドカップでバッジョが蹴るPKといえば、4年前のアメリカ大会の、イタリア対ブラジルの決勝で、PK合戦となった最後にバッジョが蹴り、高くゴールをはずし、その瞬間、ブラジルの優勝が決まった、あのPKが思い起こされる。世界中のサッカー・ファンのほとんどが、4年前の悲劇的なシーンを思いだしながら、バッジョのPKを見守っていたはずだ。
バッジョが蹴ったボールはキーパーの手をすりぬけ、ゴールに吸い込まれていった。試合は2対2の引き分けで終了し、イタリアは貴重な引き分けポイントを手に入れた。

自分は、そのときの映像を収めたDVDをもっていて、問題のハンドのシーンを、もう30回以上は見ている。
先ほど、自分は、バッジョが相手の手をねらって蹴った、と書いたが、映像を見たかぎりでは、はっきりそうだとは断言できない。ほんの一瞬のことで、バッジョがねらったようにも見えるし、そうでないようにも見える。
しかし、自分はやっぱり、バッジョは、相手の手をねらって、つまりPKをねらって蹴ったのだと確信している。
なぜかというと、蹴ったのが、ほかでもない、バッジョだからだ。
バッジョの技術は当時世界一で、彼がこの場面でミスキックするということは、まずあり得ない。
その彼が、蹴りだしたボールのコースを見ると、もしも相手ディフェンダーの手に当たっていなかったら、とんでもない後方へ高く上がって、味方のディファンダーがとるかどうか、というへんちくりんな軌跡を描いたはずのボールなのである。この時間帯で、この点差、この位置で、バッジョがそんなパスを出すはずがない。ということは、やはり、相手のハンドをねらったのである。
審判の判定は正しかったと思う。
ペナルティ・エリア内のハンドは反則で、相手チームにPKが与えられる。
それが故意のハンドと見なされれば、レッドカードの一発退場となる。
そのときのチリ選手は、ハンドの反則だが、故意ではない、と判定され、カードが出なかったわけである。

あのキックを見たとき、自分は背筋に寒いものを感じた。バッジョの勝負師としてのすごみを見た気がした。どんな絶望的な状況でも、活路を見いだし、あらゆる手段を使って勝ちにいく。つねに自分の勝利を確信していて、最後の最後までその確信を捨てない、そういう強い意志のようなものを感じた。
すぐれた技術、的確な状況判断、創造性豊かなプレイ、仲間を統率する力といった、さまざまな点において、バッジョはずぬけた選手ではあるが、その根もとのところにある、あの強い意志こそが、バッジョをしてバッジョたらしめているのだと、自分は思った。
バッジョは創価学会員で、試合後のインタビューの際など、よく、この勝利を池田先生に捧げる、というようなコメントをしていた。コメントを聞いて、テレビの通訳が当惑する場面もよく見かけた。そういう仏教徒としての信仰、信念も、彼の強さを支えている面があったろう。
それにしても、バッジョの目はいつも、キラキラと鋭く輝いていた。それは、夢見る少女の瞳のきらめきとはまったくちがう種類の、獲物をねらう黒ヒョウの目に宿る光だった。
あの光を、自分もほしい、と思う。
(2013年2月18日)


著書
『12月生まれについて』

『新入社員マナー常識』

『ポエジー劇場 子犬のころ』

『ポエジー劇場 大きな雨』
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2/17・雪国から莫言

2013-02-17 | 文学
2月17日は、島崎藤村(1872年)や、梶井基次郎(1901年)など有名作家が生まれた日だが、中国の文豪、莫言(モーイエン)の誕生日でもある。
莫言は、言わずと知れた、2012年度ノーベル文学賞の受賞者である。
自分が「莫言」の名をはじめて知ったのは、2000年ごろの新聞のインタビュー記事のなかでだった。インタビューで、莫言は、
「川端康成の小説『雪国』を読んでいて、文学に目覚めた」
という旨を告白していた。『雪国』のなかに、犬が温泉の湯をなめていると書いた一節があって、それを読んだとき、自分は文学に目覚めたのだ、と。
それですぐに原稿用紙に書いたのが、『白い犬とブランコ』の冒頭の一文だという。
「そうか、『雪国』には、そんな覚醒作用があるのであったか」
自分は驚いた。中学生のときから『雪国』をいく度か読んできて、その都度、さまざまな思いを抱いては、感嘆してきてはいたのだが、「目覚めた」覚えはついぞなかった。そもそも、そんな犬、でてきたかしら?
自分は、莫言の『白い犬とブランコ』を読んでみた。
おろしろかった。なにより「熱さ」があった。
それは、メリメの「マテオ・ファルコネ」や、ジャヤカーンタンの「誰のために哭いたのか」に通じる「熱さ」だった。
これは、すごい。もっと広く読まれるようになるといいなあ、と思い、それから莫言は、ジャヤカーンタン、ミラン・クンデラ、ジョン・アーヴィング、村上春樹といった作家たちと並んで、自分が心の内で推すノーベル文学賞候補作家となった。選考委員でもなんでもない自分が推しても、意味はないわけなのだけれど、まあ、気持ちとして。
だから、2012年の10月に、莫言が受賞すると、うれしかった。もう10年以上も、ひそかに応援してきた作家だったわけなので。

莫言は、1955年、中華人民共和国の山東省高密市で生まれた。本名は管謨業(コワン・モーイエ)。ペンネームの莫言は「言うなかれ」という意味で、作家の名として、また中国という特殊な国にいる者の名として、二重にしゃれている。
60年代の文化大革命のために小学校中退を余儀なくされ、21歳のころに人民解放軍に入隊。軍に在籍しながら執筆活動をはじめた。『赤い高粱(コーリャン)』『豊乳肥臀』『酒国』『白檀の刑』などの作品があり、映画化されたものもある。
米国の作家、フォークナーが米国南部のヨクナパトーファ郡という架空の土地を舞台にしていて「ヨクナパトーファ・サーガ」と呼ばれる作品群を書いたのにならって、莫言は高密県東北郷という架空の農村地区を舞台にして、作品を積み上げている。

川端康成作品の英訳者であるエドワード・サイデンステッカーは、『雪国』は世界一美しい小説だと思う、といっていたが、自分もまったく同感で、どうしてこういうものが書けるのか不思議に思う。
で、莫言を文学に目覚めさせた問題の箇所は、小説『雪国』の前半中の、雪国の温泉町の風景を描写したこんなくだりである。
「雪を積らせぬためであろう、湯槽(ゆぶね)から溢れる湯を俄(にわか)づくりの溝で壁沿いにめぐらせてあるが、玄関先では浅い泉水のように拡がっていた。黒く逞しい秋田犬がそこの踏石に乗って、長いこと湯を舐めていた。物置から出して来たらしい、客用のスキイが干し並べてある、そのほのかな黴(かび)の匂いは、湯気で甘くなって、杉の枝から共同湯の屋根に落ちる雪の塊も、温かいもののように形が崩れた」(川端康成『雪国』新潮文庫)
このなかの「黒く逞しい秋田犬が……」という一文を読んだとき、莫言の頭に新しい着想が浮かび、ただちに原稿用紙にこう書いたのだという。
「高密県東北郷原産のおとなしい白い犬は、何代かつづいたが、純血種はもう見ることが難しい」(莫言『白い犬とブランコ』日本放送出版協会)

川端から莫言へ。
雪国から高密県東北郷へ。
黒い犬から白い犬へ。
莫言は、中国共産党のネット検閲を容認するなど、体制側の作家だとして、そのノーベル賞受賞が批判されることもあるが、思い返せば、ノーベル文学賞の先輩、川端康成も、べつに戦時中に反戦や反体制を訴えたわけではない、軍国体制容認派だったのだし、ノーベル文学賞は、体制側と反体制側のどちらの陣営かということとはべつのところで決まるべきものなのだろう。

それにしても、『雪国』の一節を読んで、猛烈な勢いで書きだす、という、その感性がうらやましい。
自分もまねして、
「玄関を開けると、茶色い犬がそこにいて、じっとこちらを見つめてくるのと目が合ってしまった」
と書いて見るけれど、後がつづかない。
(2013年2月17日)


著書
『12月生まれについて』

『新入社員マナー常識』

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』

『ポエジー劇場 天使』

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2/16・テニスの芸術家、ジョン・マッケンロー

2013-02-16 | スポーツ
2月16日は、法華経こそ大事と説いた日蓮聖人の誕生日(貞応元年)だが、米国の不世出のテニス・プレイヤー、ジョン・マッケンローの誕生日でもある。
中学生のときからテニスをはじめ、当時からの愛読書『エースをねらえ!』をいまでも見返す自分にとって、マッケンローは、岡ひろみと並ぶ青春のヒーローである。
マッケンロー・ファンの自分は、『俺はマッケンロー』『勝つためのテニス マッケンロー物語』といった本や、彼の自伝『Serious』(未邦訳)も、しっかり読んできた。
1989年の全米オープンの際、自分は、ニューヨークのフラッシング・メドゥのコートサイドで、マッケンローのプレイを5メートルほどの距離から観戦した。それは、文字通り夢見心地の体験だった(その大会の男子ダブルスで彼は優勝した)。
マッケンローのテニス・プレイを見ることは、ほかのどのテニス観戦とも異なっている。それは、奇跡の連続を目撃することだからだ。

ジョン・マッケンローは、1959年、西ドイツ(当時)のヴィースバーデンで生まれた。父親は当時、米国空軍に所属していて、西ドイツの基地に赴任中だったのである。その後、父親は、家族を連れて米国ニューヨークへもどり、広告代理店に勤務しながら、法律学校に通っている。
8歳からテニスをはじめたジョンは、アマチュア時代から全仏オープンの混合ダブルスを制するなど、飛び抜けた成績をあげていた。
スタンフォード大学を中退してプロに転向。
1979年の全米オープンでは、決勝でビタス・ゲルレイティスをで破り、20歳の若さで優勝。
以後、シングルスとダブルス、両方で活躍するトップ・プレイヤーとして、ビヨン・ボルグ、ジミー・コナーズらとともに数々の名勝負を繰り広げ、テニスの黄金時代を作った。
とくに、1980年の全英オープン(ウィンブルドン)の決勝における、4時間近いボルグとの死闘は、スポーツ史上に残る伝説的名勝負となった。
全盛期の1984年には、年間に負けた試合がたった3試合のみ、年間勝率96.5パーセントという大記録を打ち立てている。
通算獲得賞金は、1250万ドル以上だが、マッケンローはまだまだ健在で、2006年にはSAPオープンの男子ダブルスで優勝しているし、2012年の全仏オープンでは、シニア男子ダブルスで優勝した。2013年現在、彼の生涯獲得賞金額はいまだ積み上げられつつあり、確定されていない。

男子テニスのトップ・プレイヤーたちの技というのは、間近で見ると、まったくすごいものである。
23歳のころのステファン・エドバーグのシングルス・ゲームをコート・サイドで見たことがあるけれど、すごかった。
相手の選手がものすごく早いボールを、コートのすみっこへ打ち込んできて、
「さすがにこれは、とれないだろう」
と思って見ていると、エドバーグは驚くべき脚力でそれに追いつき、からだを低く伸ばして、ほとんど上にバウンドしてこない、コート上をすべっているような感じのボールを、ちゃんとラケットに当てて拾い、鋭く打ち返して、相手コートのすみのすみの、これまた信じられないくらいむずかしい場所へ落として、エースをとってしまうのだった。
「プロの技とは、かくもすごいものであったか」
という話である。
が、マッケンローの技はさらにその上を行っていた。

エドバーグは、テニスの教科書通り、しっかり走って、ボールに追いつき、打つ方向に対してからだを横向きにし、ひざをちゃんと曲げ、腰を落として、ちゃんと構えてボールを打つので、そのプレイがいかに卓越してまねできないものだったとしても、理論的には頭で理解できた。
しかし、マッケンローのプレイとなると、もう理解を超えていた。
マッケンローはコートにただ突っ立って、ぶらぶら歩いている。そして、ボールがくると、いつの間にかそのそばに立っていて、手先でちょっとラケットを振りまわして、ボールをひっぱたくだけなのだった。
ところが、ボールはネットの上すれすれのところをものすごいスピードですべってゆき、相手側のコートの、相手選手のいない場所に突き刺さるのである。
頭脳の理解などもうどうでもよくなる。目の前に実現された、不可能だと思われるプレイを、ただただ見て感嘆し、その奇跡の連続を楽しむしかない、それがマッケンローのテニスなのだった。

ずっと以前、テニス仲間と飲みながら、
「天才とは何か?」
ということについて議論したことがある。そのときの議論は、こんな風だった。
テニスでいえば、やはりマッケンローは天才だろう。では、マッケンローをほかのテニス・プレイヤーと識別させる特徴とはなにか? それが天才の定義になるのではないか。
それで、出た結論は、
「意外性の頻度の高さ」
ということになった。
右へ打つと見せかけて左へ打つとか、パッシング・ショットを打つと見せかけてロブを放つとか、テニス選手はいつも相手の裏をかく意外性のあるプレイを心がけるものだが、マッケンローのプレイはそれがずぬけていた。
「ここでそれをやるか」
というプレイの連続だった。
頭がよく、想像力が豊かで、通常予想されるつぎのいくつかの選択肢とはまったくちがう新展開を創造し、それがちゃんと肉体で表現されるので、テニスコート上に彼のイマジネーションが目に見える形で展開され、観客はそれを文字通り見て、芸術作品を鑑賞するように楽しめるのである。マッケンローはよく「アーティスト」と称されたが、ひと言でいえば、そういうことなのである。

努力を重ね、想像力を思い切り羽ばたかせて、意外性のある技を、いともかんたんにやっているかのように、やってのけたい。
ジョン・マッケンローは、自分に、そんな忘れかけていた欲望を思いださせる。
(2013年2月16日)


著書
『12月生まれについて』

『新入社員マナー常識』

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』

『ポエジー劇場 天使』
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2/15・スーザン・アンソニーの女性解放

2013-02-15 | 歴史と人生
2月15日は、「それでも地球はまわっている」と言ったガリレオ・ガリレイが生まれた日だが(1564年)、米国の女性解放運動家、スーザン・アンソニーの誕生日でもある。
南北戦争のころからすでに、女性解放(ウーマンリヴ)を訴え活動していた女性である。

スーザン・ブローネル・アンソニーは、1820年、米国マサチューセッツ州で生まれた。父方の先祖は代々クェーカー教徒で、父親は綿繰機(わたくりき、実綿から種子を取り除く機械)の工場の経営者だった。
小さいころ、スーザンは父親の工場を見ていて不思議に思った。工場に、ひとりの女性工員がいて、その女性は仕事ができ、仕事全体に目が通り、ほかの誰よりも優秀なのは一目瞭然で、機械が不具合を起こしたときなど、彼女がひとりで直してしまうのだった。しかし、彼女は一工員であり、工場の監督はべつの男がやっているのである。
「お父さん、どうして、彼女を監督にしないの?」
スーザンが訪ねると、父親はこう答えた。
「女の監督は前例がないし、女だと男たちが働かないから」
スーザンは、女性の権利獲得にその生涯をかけることになる。

クェーカー教徒の人たちは、人間はみな平等と考え、黒人も白人も、男も女も分け隔てなく接するが、一歩その世界をでると、現実社会では黒人差別、女性差別が歴然としている。その落差も、スーザンに刺激を与えたかもしれない。

スーザンは教師となって代数を教えたが、同じ仕事をしても女性の給料は男性の4分の1だった。彼女は、教育現場での賃金の不平等、就業機会の不平等を訴え、そこからスタートして、組織だった方法で、女性の社会的権利を主張していった。
彼女は、権利平等協会を組織し、奴隷解放と女性参政権を訴えた。
「ザ・レボリューション」という週刊の女性誌をだし、講演旅行をして、各地の人々に女性解放運動の必要性を訴えてまわった。
朋友、エリザベス・スタントンとともに、全国女性参政権協会を設立した。
そうして、スーザンは大統領選挙があるたびに、投票しに行っては逮捕された。女性の投票は違法だったからである。

スーザン・アンソニーやスタントンらの努力により、米国憲法に修正条項が加えられた。
その第14条には、男性の市民に参政権が与えられると明記された。
第15条では、参政権は「人種」「肌の色」「身分」によって制限されない、と規定された。しかし、そこに「性」の一文字が加わることは、スーザンの生前にはかなわなかった。
合衆国全体としては、女性参政権はなかなか実現しなかった。しかし、スーザンの努力は地方で着実に実っていった。
各地でスーザンの講演を聴いた女性が、自分の権利に目覚め、地元の州で運動を起こした結果、その州議会で女性の参政権が認められる、という現象が起きたのである。
1869年、ワイオミング州での女性参政権可決を皮切りに、ユタ州、コロラド州、アイダホ州がそれにつづき、女性が参政権を獲得した。
スーザン・アンソニーは、ニューヨーク州ロチェスターで、1906年3月に亡くなった。
スタントンなど、ほかの女性解放論者たちが、結婚して子どもの面倒をみながら、解放運動に出たり、家庭に引っ込んだりしているなか、スーザンは、生涯独身を通し、女性解放運動にその全精力を傾けた、はじめての米国女性だった。(池上千寿子『アメリカ女性解放史』亜紀書房)

時代を、ざっと百年くらい先走って生きた人もいるのだ、と、ため息をつかざるを得ない。
周囲との摩擦たるや、たんへんなものだったろうと想像される。
でも、時代というのは、そういう人に引っぱられて、ようやく、よっこらしょ、と、動きはじめる、そういうものなのかもしれない。
(2013年2月15日)




著書
『12月生まれについて』

『新入社員マナー常識』

『コミュニティー 世界の共同生活体』

訳書、キャスリーン・キンケイド著
『ツイン・オークス・コミュニティー建設記』
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2/14・ジョージ・フェリスの観覧車

2013-02-14 | 建築
2月14日。自由結婚を主張した聖バレンタインが処刑された(269年)この日は、観覧車を発明した米国人技術者、ジョージ・フェリスの誕生日でもある。
ジョージ・フェリスが挑戦した課題は、
「エッフェル塔を超える」
という難題で、彼が出したその答えは、空高くそびえてまわる、巨大な観覧車だった。

ジョージ・ワシントン・ゲイル・フェリス・ジュニアは、1859年、米国イリノイ州ゲールズバーグで生まれた。父親は園芸家だった。
陸軍士官学校をへて、工科大学で土木工学を専攻したフェリス・ジュニアは、鉄道と橋の建設業界に進み、ペンシルベニア州ピッツバーグで、鉄道、橋梁用の素材の検査をする会社を興した。
折しも、コロンブスがアメリカに到達してから400周年を記念した、 コロンブス記念世界博覧会が、1893年にシカゴで開かれることになった。
博覧会を主催する委員会側は、4年前に開かれたパリ万博の象徴であったエッフェル塔をしのぐ何かを、このシカゴ万博の会場に建設することを望み、その案を募った。
それに応じたのが、フェリスだった。彼のアイディアは、機械仕掛けで動く巨大な観覧車を会場に設置して、客はこの観覧車に乗って、会場全体を俯瞰できるというものだった。
委員会側ははじめ、この案に対し、危険すぎると怖じ気づいたが、最終的にはフェリスの案を認可した。
フェリスは建設費を捻出するために投資家を募り、資金を集め、観覧車建設に着手した。
完成した観覧車は、36個の観覧ボックスをもち、それぞれのボックスが40席の回転椅子を備え、60人を収容できた。都合、観覧車はいちどに2,160人を乗せてまわるという巨大なものだった。
乗客は、50セントの切符を買い、約20分かけて2周する観覧車の旅を楽しみ、観覧車は毎日、3万8,000人の観客を乗せて営業をつづけ、主催者側にばく大な利益をもたらした。
万博が終わると、フェリスと投資家たちは、利益の分け前をよこさないと、主催者側を訴え、ただちに法廷闘争へと移った。
フェリスは、1896年11月、腸チフスのため、ピッツバーグにて没している。
観覧車のことを、英語ではフェリスの名から、Ferris Wheel (フェリスの輪)というらしい。
恋人たちが愛を誓う日、バレンタインデイと、恋人たちが愛を語らうデートスポット、観覧車とが、不思議な縁でつながっている。
(2013年2月14日)




●おすすめの電子書籍!

『2月生まれについて』(ぱぴろう)
ジョージ・フェリス、ロベルト・バッジョ、ジョン・フォード、マッケンロー、スティーブ・ジョブズ、ルドルフ・シュタイナー、志賀直哉、村上龍、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。


www.papirow.com

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2/13・ジョルジュ・シムノンの疑問

2013-02-13 | 文学
2月13日は、第二次大戦中、無防備都市宣言をしていたドイツの美しい街、ドレスデンを英米空軍が爆撃し、2万人以上が殺された日で(1945年)、そのときドレスデンの捕虜収容所にいて、奇跡的に生き長らえたひとりが米国作家カート・ヴォネガットだが、一方、この日は、ベルギー生まれの推理作家、ジョルジュ・シムノンの誕生日(1903年)でもある。
シムノンが書いた「メグレ警部」シリーズをはじめて読んだのは、小学校6年生のときだった。もう小学校もあとすこしで終わりだし、怪盗ルパン・シリーズの児童向けの本はすべて読み尽くしたので、そろそろ、新たに追いかけるべき、つぎのミステリー・シリーズをさがさなければと、いくつか読んでみたミステリーのひとつだった。
「メグレ警部」もののほか、「ナポレオン・ソロ」「ペリー・メイスン」「87分署」などを味見した末、自分は「007号ジェイムズ・ボンド」シリーズを読むようになったので、メグレ警部とはそれ以来、あまり縁がないけれど、当時から、全世界でものすごく人気のある推理小説シリーズだということは知っていた。

ジョルジュ・シムノンは、ベルギーのリエージュで生まれた。
父親は保険会社に勤める会社員だった。子どものころから小説家志望で、15歳のとき、新聞記者になり、記事と並行して小説を書きはじめた。
17歳のとき、処女作を発表。
19歳のとき、仏国パリへ移り、さまざまなペンネームで短編小説を量産。
その後、ヨットを購入し、そのヨットで航海しながら、推理小説を書いた。
28歳のときに発表された、パリ警視庁のメグレ警部が登場する推理小説の第一作が好評を博し、以後「メグレ警部」シリーズを百編以上も書いた。
1960年代には、シムノンは毎年6冊の長編を書き、それらは出版されるやいなや、27カ国語に翻訳され、世界中で読まれたという大ベストセラー作家で、ヴィクトル・ユゴー、ジュール・ヴェルヌと並ぶ、世界でもっとも読まれているフランス語作家だった。
70歳のころ、シムノンは「メグレ警部」ものからの引退を宣言。
1989年9月、スイスのローザンヌで没。86歳だった。

コナン・ドイルといえば、シャーロック・ホームズ。
モーリス・ルブランといえば、怪盗ルパン。
チャンドラーといえば、フィリップ・マーロウ。
そして、シムノンといえば、メグレ警部、なのだけれど、シムノンはそれだけの男ではなく、純粋な文学作品も書いていて、文学に関する考察にも深いものがあった。

シムノンには、3人の子どもがあって、上の二人が男の子、いちばん下が女の子だが、この3人の子どもたちが3人とも、小さいときに夕暮れをこわがったという。
日が暮れるのを見てると、こわくて家に飛びこむ、逆に外へでたがる、ひとりきりになってもの思いに沈む、など、子どもによって、その反応はちがったが、どの子どももみな、沈み行く夕日を見て、
「明日も日がまた昇ってくるのだろうか」
と不安を訴えたという。
父親のシムノンは、とうぜん、
「お日さまは、明日もきっと帰ってくるよ。だいじょうぶだよ」
と請けあうわけだが、シムノンはそこに、自分がもの書きになってからずっと疑問に思っていた、
「われわれ人間がなぜ小説を読むのか」
という疑問に対する答えを見つけたのだという。
「小説とはなにか。なぜひとは小説を読むのか。自分と同じ人間が、自分と同じようなことをやっているのを見るために、わざわざ金を出して小説本を買ったり、劇場や映画館に出かけたりするのか」
その答えをみつけた、と。
話を端折ると、その答えは、
「われわれを安心させるため。われわれを和解させるため」
である。(参照・河盛好蔵「人間の小説」『文学空談』文藝春秋)

シムノンがこういう趣旨の講演をしていたことを知って、自分はとても感慨深かった。
シムノンは、アンドレ・ジイドや、マルタン・デュ・ガールなどの文豪にも高く評価されていたそうで、むべなるかな、と思わせるものがある。
自分は、なぜブログを読むのだろう、そんなことを、シムノンは考えさせる。
(2013年2月13日)


著書
『12月生まれについて』

『新入社員マナー常識』

『コミュニティー 世界の共同生活体』

訳書、キャスリーン・キンケイド著
『ツイン・オークス・コミュニティー建設記』

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2/12・良識ある天才、ダーウィン

2013-02-12 | 科学
2月12日は、第16代米大統領エイブラハム・リンカーン(1809年)の誕生日だが、彼が米国ケンタッキー州で生まれた、ちょうどその同年同月同日に、英国で、生物学者、チャールズ・ダーウィンが誕生している。

自分は若いころから、ダーウィンの『ビーグル号航海記』の愛読者だった。細かな部分は忘れてしまったが、スペイン人たちによる現地のインディオたちへの虐殺、虐待ぶりに対しダーウィンが抗議するくだりや、ダーウィンが南米ではじめて地震を体験したくだりなどの鮮やかな印象はいまでも懐かしく思いだされる。
有名な『種の起源』は、何度か読もうとしては挫折して、いまだ読みおおせていない。
とはいえ、ダーウィン・ファンなので、彼の著作の概要や生涯については、学生のころからよく知っていた。

チャールズ・ロバート・ダーウィンは、英国イングランドのシュルーズベリーで生まれた。父親は医師で、母親は陶器で有名なウェッジウッド家の出身だった。
子どものころから、博物学に興味があり、植物や鉱物を収集していたダーウィンだったが、父親の意向もあって、エジンバラ大学で医学の勉強をした。しかし、成績は芳しくなく、そこで今度は牧師になるようケッブリッジに移って神学を勉強した。
22歳のとき、英国海軍の測量船ビーグル号に乗船し、世界周航に出発。この旅立ちについては、父親は猛反対したが、叔父のとりなしで、ダーウィンは船に乗りこむことができた。南アメリカ大陸の測量を主な目的とするこの航海は、英国プリマス港を出航、アフリカ沖のカナリア諸島をかすめて大西洋を渡り、南米ブラジルの海岸沖を南下し、マゼラン海峡をへて太平洋にで、ガラパゴス諸島へ寄り、オーストラリアのシドニーをへて、インド洋を渡り、喜望峰をまわって大西洋にでて横断し、測量の補足のためふたたび南米へ寄ってから、大西洋をとって返して本国英国へもどるという約5年がかりの大航海だった。
ビーグル号船上でのダーウィンの役割は、はじめ船長の話し相手、後に船医といったものだったが、船がいかりを下ろし、上陸した土地土地で彼は精力的に植物、動物、鉱物、化石など大量の標本を採集し、記録をとりつづけた。
帰国後、ダーウィンはもち帰った標本の研究を進め、そうして発表したのが『ビーグル号航海の動物学』『ビーグル号航海の地質学』で、つづけて出版した『ビーグル号航海記』も好評を博した。

ダーウィンをもっとも偉大ならしめているのは、帰国したころすでに彼が着想を得ていた「自然選択」という考え方だった。
当時は(現在でも米国の半数以上の人々には)、人間を含め、すべての生物は神が作ったもので、それぞれの種は、まったくべつの、不変のものである、と考えられていた。
しかし、ダーウィンはガラパゴス諸島の生態系など、航海中に得てきたさまざまな見聞を通して、種は環境に適応して、種が生き残る方向へとしだいに変異した者が生き残っていく、つまり、種は変わっていく、そういう考えをもつにいたった。
これが「自然選択」説であり、進化論の骨子である。
ダーウィンは、この考えに説得力をもたせるために、約20年間にわたって、さまざまな証拠を集め、研究を重ねた。そうして『種の起源』の原稿が準備されていった。
50歳のとき、『種の起源』を発表。このセンセーショナルな書は、発売当日に完売し、即座に増刷され、大反響を呼んだ。
ダーウィンはその後も動植物などの研究、論文執筆をつづけ、1882年4月に没した。73歳だった。国葬が営まれ、遺体はウェストミンスター寺院に眠っている。

もしも叔父さんが応援してくれなかったら、もしもビーグル号に乗れなかったら、ダーウィンはダーウィンになれなかったろう。やっぱり、かわいい子には旅をさせよ、というのはほんとうだなあ、と思う。

ダーウィンは、天才中の天才のひとりとされるが、彼とよく比較されるのは、古代ギリシアの哲学者、ソクラテスである。
ダーウィンは、家庭内ではよき夫であり、父であり、外ではよき友人であり、おだやかな晩年を送った。
一方のソクラテスは、酒飲みで、家庭をほとんどかえりみず、最後は毒を飲んで死んだ。
ダーウィンのような温厚で誠実、礼儀正しい人物が、それまでの世界観を根本からひっくり返す爆弾のような書を社会にたたきつけたというのが興味深いと思う。

自分がダーウィンを好きなのは、もちろん『ビーグル号航海記』がおもしろかったからなのだけれど、ひとつには、ダーウィンが若いころから、奴隷制を嫌悪し、新大陸での現地人の虐待に憤慨するという、当時の英国の富裕層にしては、信じられないくらいに進歩的な良識の持ち主だったこともある。

また、こういうこともある。
29歳のとき、ダーウィンは結婚を前にして、マリッジブルーというのか、ずいぶん迷っている。幼なじみである、ウェッジウッド家の従妹をお嫁さんに迎えるにあたり、彼は貸借対照表のようなものを書いている。

「結婚しないことの利点」
・好きなところにでかけられる自由。
・親戚訪問の強制、くだらないことに屈する必要もいっさいなし。
・子どもに対する出費と心配もなし
・たぶん口げんかもなし。
・いずれも時間の浪費。
……

「結婚することの利点」
・子ども。
・一生の連れ合い(それと、老いたときの友)。
・愛情と遊びの相手。
・とにかく犬よりはまし。
……
・ソファーにすわる優しくてすてきな妻に暖かい暖炉、読書、たぶん音楽が、おまえにとって唯一の団らん風景。
・この光景とグレート・マルバラ街の陰気な現実を見てみろ。
「結婚──けっこう──結婚。証明終わり」(国立科学博物館他編『ダーウィン展』読売新聞東京本社)

ダーウィンの、こういう人間味のあるところも、自分は好きである。
(2013年2月12日)



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『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
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2/11・偉人中の偉人、エジソン

2013-02-11 | 個性と生き方
2月11日は、神武天皇が即位した日を新暦に換算して決めた旧「紀元節」を、戦後に名称変更して「建国記念の日」とした祝日だが、この日は発明王、トーマス・エジソンの誕生日でもある。
日本人にとって、エジソン、イコール「えらい人」なのかもしれない。
「偉人」といったとき、真っ先に浮かぶ名前は、野口英世であり、キュリー夫人であり、ヘレン・ケラーであり、やっぱりこのエジソンということになる。世界偉人全集にとりあげられる常連、しかもそのなかの筆頭、それがエジソンである。

トーマス・アルバ・エジソンは、1847年、米国オハイオ州ミランで生まれた。父親はオランダ系で、カナダで政府刷新を狙った反乱に参加し、それが失敗したために合衆国に逃げてきた人物だった。
7人きょうだいの末っ子だったトーマスは、幼いときから好奇心旺盛で、にわとりの卵を自分で温めようとしたとか、学校では授業などうわの空で、教師を授業と直接関係のない質問攻めにして授業の妨げになるので、学校をやめさせられたなどの伝説があるが、一説によると、学校の教師があるとき、エジソンのことを「腐ったやつ」と呼んでいるのをエジソンが聞いてしまい、それで学校へ行かなくなったともいう。
いずれよせよ、家庭で母親が教師がわりになり、エジソンは勉強し、成長することができた。エジソンはこう回想している。
「母がわたしを作った。母はとても誠実で、わたしを信頼してくれた。それで、わたしは、自分が生きてゆくための何かをもっていると、感じることができたのだ」
7歳のとき、彼の家族は、ミシガン州ポートヒューロンへ引っ越した。そこでエジソンは、列車のなかの売り子になった。キャンディーや新聞を乗客に売って歩く仕事だった。
そんなあるとき、3歳の子どもを暴走列車にはねられる寸前に助けたところから、その子の父親である駅長から感謝され、エジソンは彼に電信の技術を教わる。それからエジソンは電信技師となり、比較的忙しくない夜間シフトを希望して、仕事中に読書や実験を繰り返していた。それから実用的な機械を発明しては、特許をとり、それをお金にして、さらにそれを実験に注ぎ込んでは発明を重ねていった。
21歳のとき、電気投票記録機を発明。
22歳のとき、株式相場表示機。
30歳のとき、電話機と、蓄音機。
32歳のとき、電球。
33歳のとき、発電機。
44歳のとき、のぞき眼鏡式映写機。
63歳のとき、トースター。
エジソンは生涯に約1300件の発明をし、ゼネラル・エレクトリック社など14の会社を創設した。
80歳をすぎてもなお、1日16時間のペースで働きつづけたというタフな発明王は、1931年10月、84歳で没した。

エジソンは、自分で発明するだけでなく、他人が発明した技術を改良したり、買い取ったり、あるいは盗んだり、部下の発明を横取りしたり、といったこともさかんにしたようだ。
なんだか、ビル・ゲイツや、スティーブ・ジョブズは、エジソンをお手本としたのではないか、と思われるふしもないではないが、それはさておき、そういった、よくない風評や批判を差し引いても、エジソンのなし遂げた業績の偉大さといったらない。
数々の発明もさることながら、エジソンの生きざまには、常人にはちょっとまねできない、強烈な魅力がある。

エジソンというと、その昔、クラスメイトがこんな愚痴をこぼしていたのが思いだされる。
「いやあ、生まれてくるのがちょっと遅かったよ。電灯にしても、レコードにしても、発明しようかな、と思ったものは、なんでもエジソンがもう発明してあるんだもの」
ああ、自分を含めて、凡人というのは悲しいものだ。

いや、やっぱり、エジソンは努力してエジソンになったので、エジソンの真にえらいところは、そこだと思う。
そんな風に考える凡人に勇気をくれる、エジソンのつぎのことばが、自分は好きである。

「わたしはがっかりしない。だって、まちがった試みは捨ててきたけれど、それらはすべて、前へ進むつぎの一歩となるのだから」
(I am not discouraged, because every wrong attempt discarded is another step forward.)

天才とは1パーセントのひらめきと、99パーセントの汗である」
(Genius is one percent inspiration and ninety-nine percent perspiration.)
(2013年2月11日)


著書
『12月生まれについて』

『新入社員マナー常識』

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』

『ポエジー劇場 天使』
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2/10・時代をひらく、平塚らいてう

2013-02-10 | 歴史と人生
2月10日は、ゴロ合わせで「ニットの日」だそうだが、女性解放運動の旗手、平塚らいてうの誕生日でもある。
「元祖、女性は太陽であった」と高らかに宣言して、雑誌「青鞜(せいとう)」を興した、あの平塚らいてう、である。
女性に教育など必要ない、女性は男にしたがっていればいいのだ、とされていた時代。良妻賢母、それが唯一無二の女性の道だった時代。もちろん女性に選挙権などなかった時代に、すでに女性の恋愛の自由、母性の保護、女性の参政権を訴えていた新しい女性である。自分は中学生のころからよく知っていて、えらい人だなあ、とずっと思っていた。
いまでも、そう思っている。男性、女性を含めて、若い人などのうちに、選挙の投票などいったことがないという人に会うと、ああ、平塚らいてうの魂が泣いているなあ、と思ったりする。

平塚らいてう(らいちょう)、本名、平塚明(はる)は、1886年、東京で生まれた。父親は元紀州藩士で、会計検査院の役人。らいてうは、3人姉妹の末娘だった。
「女子には女学校以上の学問は必要ない」という父を説き伏せて、日本女子大学校に17歳で入学。卒業後は、二松学舎、女子英学塾で学び、さらに成美女子英語学校で生田長江の教えを受けた。
22歳のとき、文学講座仲間の男性と、栃木県の塩原温泉で心中未遂事件を起こし、スキャンダルとして報道される。
生田長江に女性だけの文芸誌作りをすすめられ、1911年、25歳のとき、雑誌「青鞜」を創刊。
「青鞜」は、「ブルーストッキング」から長江が命名したもの。英国では当時、青い長くつしたをはくのが、教養ある婦人に流行していたところからきているという。
飛ぶように売れたというこの雑誌の創刊の辞に、彼女ははじめてペンネームの「らいてう」を使い、こう書いた。
「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他によって生き、他の光によって輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。……云々」
この宣言の急進性は、ものすごいと思う。
仏国のボーヴォワールが、同じ意味の旨を述べた書『第二の性』がでたのが、1949年で、それより40年近く前に、すでにその認識を声高らかに宣言しているのである。
雑誌「青鞜」は賛否両論を巻き起こし、彼女の家には激励の手紙が舞い込むとともに、石もよく投げこまれ、大変だったらしい。
らいてうは、自由恋愛を主張し、従来の結婚制度や「家」の制度からの脱却を訴え、母性保護に関しては、与謝野晶子を敵にまわして論争を繰り広げた。
私生活では、26歳のとき、年下の画家の卵と恋に落ち、実家をでて同棲をはじめている。このとき、いったん身を引こうと考えた相手の青年が、らいてうに宛てた手紙に、つぎのような意味の一節があった。
「水鳥たちが暮らしているところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱した。若いツバメは池の平和のために去っていく」
これはマスコミに乗り、たいへん有名になった。以来、年下の男性の愛人のことを「若いツバメ」と呼ぶようになった。
「ツバメなら、春になれば帰ってくるでしょう」
と、らいてうは、青年との関係をつづけ、2児をもうけたが、ふるい結婚制度を否定する考えから、婚姻届けはださず、事実婚をつづけた。
彼女は、雑誌「青鞜」を伊藤野枝に託した後も、市川房枝らと婦人運動団体を設立し、婦人参政権や母性の保護の必要を訴えるなど、つねに社会に対して、フェミニズムの立場に立って発言しつづけた。
胆のうのガンにより、1971年5月、85歳にて没。

日本で女性の参政権が認められるのは、結局、戦後のGHQの指導のもとでおこなわれた選挙でのことである。その意味では、日本人男性は、歴史的にみれば、日本人女性が政治に参加する権利などいまだかつて認めたことはなく、ただ、占領軍がそうしろというから、仕方なく認めただけだ、という見方もできる。

いずれにせよ、平塚らいてうの女性解放論は、百年くらい時代を先取りしていたわけで、当時の人たちは理解できない人が多かったのではないかと思う。その先見性には脱帽する。その恩恵を、後世の日本女性たちは受けとって生きていることになる。ただし、まだ不平等は多く、いたるところにあるけれど。
また、らいてうは、マッチョな男まさりのリーダーとして運動の先頭に立つのでなく、恋愛をし、子どもも育て、夫の看病もして、女性の自由を実践して示しながら、女性解放を叫びつづけたわけで、そこのところも、やはりすごい、と思う。
自分は男性だけれど、彼女のバイタリティーを見習いたいと思います。
(2013年2月10日)

著書
『12月生まれについて』

『新入社員マナー常識』

『コミュニティー 世界の共同生活体』

訳書、キャスリーン・キンケイド著
『ツイン・オークス・コミュニティー建設記』


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2/9・国際人、ラモス瑠偉

2013-02-09 | スポーツ
2月9日は、ゴロ合わせで「フグの日」だそうだが、サッカー選手、ラモス瑠偉(るい)の誕生日でもある。
日本に多くいるであろうファンの人たちと同様、自分はラモス(敬称略)が大好きで、彼の言動にはいつも励まされ、刺激を受けてきた。彼はサッカーも上手だけれど、それ以上に人間性がすばらしく、楽天的なブラジル人のいいところと、闘魂に燃える日本人のいいことろを掛け合わせて生まれた奇跡の混血児のようだ。
ラモスは、2011年の夏に日本人の奥さまを亡くされた。それに関する彼のインタビュー記事が載った週刊誌をすぐ買って読んだけれど、つい、もらい泣きしてしまいました。まずは、お悔やみ申し上げます。

ラモス瑠偉は、1957年にブラジル、メンデスで生まれた。父親は公認会計士で、ラモスが12歳のとき鬼籍に。
家族のためにも、サッカー選手としてお金を稼ぎたいと考えたラモスは、18歳のときプロ選手になる。
19歳のとき、スカウトされ、日本の読売サッカークラブへ入団。以後、日本サッカーリーグ、
1993年、Jリーグが開幕してからは、ヴェルディ川崎、そして日本代表の柱として活躍。日本代表では、背番号「10」を背負った。
同年10月、カタールのドーハでおこなわれた、ワールドカップ・アジア地区最終予選の、対イラク戦において、後半ロスタイムで同点に追いつかれ、この最後の最後の1点によって、ワールドカップ・アメリカ大会への出場権を失うという、いわゆる「ドーハの悲劇」を経験。
以後、Jリーグ、フットサルで選手、またコーチ、監督として活躍。

ラモス瑠偉は、ほかのサッカー選手とちがう、という発見をしたことが、自分は2度ある。

1度目。
ラモスが、Jリーグ・ヴェルディ川崎時代のこと、その練習風景をテレビで見て、びっくりしたことがある。その番組の解説者やコメンテイターはひと言も触れなかったけれど、技術レベルがほかの一般の選手たちと、ぜんぜんちがうのである。
サッカーには、ボールを地面に落とさずに、足やひざ、頭、肩などを使って、ポンポンと宙に保ちつづけるリフティングという練習がある。そのテレビ放送された練習では、ヴェルディの選手たちがそろって、そのリフティングをやっていた。ヴェルディといえば、当時のJリーグの顔で、顔の売れたスター選手がたくさんいた。で、みんな、カメラを意識し、ボールを落とさないことに精一杯といった感じでボールをようやく扱っていたのだが、ラモスはちがった。ラモスだけは、足先でボールを右回転させてけり上げ、つぎに逆に左回転させてけり上げ、今度は前回転、また逆回転、と、ぜんぜん余裕で、ボールとたわむれている感じなのだった。
仏国のジダンや、ブラジルのジュニーニョのリフティングも同じような余裕の遊び感覚だが、そうした一点を見ただけでも、ほかの選手たちとの技術的な差が一目瞭然なのだった。
「すごいなあ」
自分は、ため息をついた。自分は、サッカーどころ静岡県の磐田市出身で、子どものころはサッカーボールをよくけっていた。小学校時代は市内大会の優勝チームのメンバーの一員だった。でも、リフティングはたいして続かなかった。なので、ラモスのような「できる人」を見ると、もう反射的に最敬礼してしまうのである。

2度目。
いつのころだったか、2000年代に入ってからだったと思うけれど、朝日新聞が、サッカー元日本代表選手のインタビュー記事を、日替わりで連載したことがあった。
趣旨は、「ドーハの悲劇」をふり返って、というもので、1993年、ドーハの対イラク戦で、あと一歩というところでワールドカップに進めなかった日本代表チームの当時のメンバーに、毎日一人ずつ、そのときをふり返って、語ってもらおうという企画だった。井原正巳、三浦知良など、当時の日本代表メンバーが、毎日そのコラムに登場した。
そのコラムで、みなそれぞれ、当時の心境や、思いだしたくないとか、いまでも悔しいとか、いろいろ語っていたのだけれど、ラモスだけは、いうことがぜんぜんちがっていた。ラモスの語ったところは、おおよそこういう意味だった。
「イラクの選手はみな高い技術をもっていて、まとまったいいチームだった。イラクの代表チームは、当時の国情もあって、ワールドカップのアジア地区予選では、いった先々で不利な審判を下されることがすくなくなかった。しかし、彼らはそんな不公平な試合のなかでも、文句をいわず、黙々とフェアプレイを続けた。ドーハでの試合の結果は残念だったが、試合が終われば敵も味方もない、友である。あの後、イラクの選手たちがどうなったか、心配である。向こうは戦地。あのときの代表メンバー同士を集めて、また試合をしたいけれど、日本は同じメンバーが集まったとしても、イラク側は亡くなった選手もいるのではないか。とても心配している」
と、そういう旨の内容だった。
ここに自分は、ラモス瑠偉という人のふところの深さを、あらためて知り、仰ぐ思いだった。
彼は、その精神性において、高いスポーツマンシップを獲得した、真の国際人なのだ、ということがよくわかった。
(2013年2月9日)



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『2月生まれについて』(ぱぴろう)
ラモス瑠偉、志賀直哉、村上龍、桑田佳佑、ジョン・マッケンロー、スティーブ・ジョブズ、ジョージ・フェリス、ロベルト・バッジョ、ルドルフ・シュタイナーなど、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。


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