1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

2/8・山本寛斎のエネルギー

2013-02-08 | 個性と生き方
2月8日は、日本軍が旅順港にいたロシア艦隊を攻撃して日露戦争がはじまった日(1904年)だが、ファッションデザイナーの山本寛斎の誕生日でもある。
自分がはじめて山本寛斎の名前を知ったのは、大好きなアーティスト、デヴィッド・ボウイがらみである。1978年、来日して公演をおこなっていたボウイが、日本の雑誌のインタビューを受けた発言のなかに、山本寛斎の名前がでてきたのだったと思う。
「わたしのレコードは売れないので、ときどきこうしてツアーにでてお金を稼がないといけないのです」
インタビュー中、そんなことをいっていたボウイは、日本の安全さに触れ、
「自分の子どもと山本寛斎の子どもが二人だけで外に遊びにいって、無事に帰ってくるのにびっくりした」
という意味のことをいっていた。
これは当時、7歳くらいだったゾウイ(現在の映画監督、ダンカン・ジョーンズ)と、4歳くらいだった(将来の女優)山本未來のことを指していたと思われる。
自分は、そのインタビュー記事を読んで、
「ふうん、外国は、こわいところなんだなあ」
と思ったものだ。

山本寛斎は1944年、横浜生まれ。コシノジュンコなどのもとで働いた後、独立。27歳のとき独立し、自分の会社を設立。英国ロンドンでコレクションを発表。これが機縁となって、デヴィッド・ボウイの衣裳を担当。ボウイが羽織ったマントに躍る「出火吐暴威」の文字も、たぶん山本寛斎によるのものだろう。
31歳のとき、仏国パリでコレクションを発表。しかし、このころから彼のファッション・デザインが受けず、会社の経営もうまくいかなくなった。一時はウツ状態となり、自殺を考えて悶々とする日々をすごしたらしい。
その後、一念発起して、企業をまわってスポンサーを募り、「スーパー・ショー」と題した、ファッションと音楽とアート、舞台芸術をあわせた総合芸術イベントのプロデュースを開始。スーパー・ショーを世界各国で開催し、鉄道車両など幅広い分野でデザイン、アートを展開している。

自分は、山本寛斎のデザインの、ゆったりとした、大きめの服の感じがけっこう好きである。
たしか、大島渚監督が「戦場のメリー・クリスマス」をもって、カンヌ映画祭に乗りこんだとき、監督が着ていた「THE OSHIMA GANG」と染め抜いたTシャツも、たしか寛斎のデザインだった気がする。
1990年ごろに放送されていた、作家、村上龍がホスト役を務めるテレビのトーク番組『Ryu's Bar 気ままにいい夜』にゲスト出演したときの山本寛斎の印象は鮮やかだった。スーパー・ライブのプロデュースに力を入れているころで、全身これエネルギーのかたまりといった風だった。誰が見ても、
「ただものではない。こんなエネルギーのある人なら、どんな分野でも、きっと成功する」
と思わせるオーラがあった。
そのころ、山本寛斎がいっていたことばのなかで、スポンサーになってくれるよう企業にお願いするため、そこの社長宛てに、まず誠意をこめて手紙を書くところからはじめるといっていたこと、あるいは、海外で勝負しようとするとき、自分はなにをもっているのかと突き詰めて考えたとき、最後に残る自分の強さとは「自分のなかにある日本人」これしかない、といったこと、それから、友だちに「今年はやるぞ」という気持ちを伝えたくて、年賀状でなく、元旦に電報を打つといっていたことが印象に強く残っている。
すごい人だなあ、と感心した。
でも、後になって、そんな元気に満ちた人でも、挫折感がいっぱいで自殺ばかり考えていた時期があったことを知り、自分はそれで余計に山本寛斎が好きになった。
(2013年2月8日)



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『2月生まれについて』(ぱぴろう)
山本寛斎、志賀直哉、村上龍、桑田佳佑、ジョン・マッケンロー、スティーブ・ジョブズ、ジョージ・フェリス、ロベルト・バッジョ、ジョン・フォード、ルドルフ・シュタイナーなど、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。

『1月生まれについて』(ぱぴろう)
デヴィッド・ボウイ、エイゼンシュテイン、スタンダール、モーツァルト、盛田昭夫、夏目漱石、ビートたけし(北野武)、ちばてつや、ジョン万次郎、村上春樹、三島由紀夫など1月誕生の31人の人物評論。人気ブログの元となった、より詳しく、深いオリジナル原稿版。1月生まれの教科書。

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2/7・作家の中の作家、ディケンズ

2013-02-07 | 文学
2月7日は、侵略の日なのかもしれない。1964年のこの日は、英国のザ・ビートルズが米国のJFK空港に到着し、アメリカ侵略を開始したまさにその日であり、翌1965年のこの日には、その仕返しというわけでもあるまいが、今度はアメリカ軍が北ベトナムに爆撃をはじめた、いわゆる北爆開始の日でもあるからだ。
侵略云々はさておき、この日はまた、英国の国民的作家、チャールズ・ディケンズの誕生日でもある。
ディケンズといえば、米国のマーク・トウェイン、日本の夏目漱石にあたる英国の国民的作家。ポンド紙幣に肖像が刷られたこともあるそうだ。
自分は、ディケンズ作品を数えるほどしか読んでいないけれど、あらすじを知っている作品はけっこうあって、この極東の無学な自分ですらそうであることを考え合わせてみると、あらためてその偉大さに驚くのである。

チャールズ・ディケンズは、1812年に、イングランドのポーツマスで生まれた。
父親は海軍の事務員で、チャールズは8人きょうだいの2番目だった。
貧しい家系を助けるため、ディケンズは子どものころから工場へ働きにでた。その後、法律事務所に奉公にいき、速記を勉強して、記者になった。
雑誌の記者をしながら、エッセイや小説を書きだし、雑誌の編集長の仕事のかたわら、小説も精力的に発表した。
こうした幼少時から作家になるまでの職業遍歴は、彼の自伝的な代表作『デイヴィッド・コパフィールド』に反映されている。
そのほか、『オリヴァー・トゥイスト』『クリスマス・キャロル』『二都物語』『大いなる遺産』など、世界的に知られる名作を書き、その多くが繰り返し映画化、テレビ化されつづけている。また、執筆のかたわら、朗読会も精力的にこなした。
1870年6月、ケント州の自宅で、脳卒中により没。58歳だった。

ディケンズは、なかなかタフな人で、雑誌の編集をしながら書いたり、朗読会に走りまわりながら書いたりしたにもかかわらず、作品の量が多い。
たくさんある作品の味わいもさまざまで、たとえば『二都物語』のような歴史・悲恋ものや、世界最初の推理小説といわれる『バーナビー・ラッジ』もあって、いちがいにはいえないけれど、自分にとっては、やはり『オリヴァー・トゥイスト』『クリスマス・キャロル』『デイヴィッド・コパフィールド』といった、社会の底辺にいる、貧しい弱者の視点に立ったヒューマニズムの作家である。
この辺の性質が、トルストイをして、シェイクスピアなんかより、ディケンズのほうがずっといいといわせるゆえんなのだとも思う。

007シリーズを書いたイアン・フレミングは、エッセイのなかでこういっている。
「お金のために書くことが、昔は立派な仕事だったからである。バルザックもそうしたし、ディケンズもそうした。実際、ディケンズなどは、自分の作品を朗読することが、書くことより余計に金になるということがわかると、多少書くことの方を見捨てたものである」(井上一夫訳「スリラー小説作法」『007号/ベルリン脱出』)

あのマーク・トウェインも、借金を返済するために世界中を朗読してまわった。日本の現代作家たちも、講演やテレビ、ラジオへの出演などに生活の糧を求めている人はすくなくない。
そういう意味でも、ディケンズは、作家らしい作家だった、まさに「作家の中の作家」といえるのではないだろうか。
(2013年2月7日)



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「デイヴィッド・コパフィールド」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。


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2/6・愛と性のトリュフォー

2013-02-06 | 映画
2月6日は、ゴロから「ブログの日」。また、国連が定めた世界女性器切除根絶の日だが、フランスの映画監督、フランソワ・トリュフォーの誕生日でもある。
自分はトリュフォーの映画が好きで、全作品の半分近くはみている。
まだみていないものも、今後、折を見つけてはみていきたいと思っている。
トリュフォーは、ゴダールと並んで、ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)の中心的監督だけれど、トリュフォーの映画は、ゴダールの作品とちがって、どの映画も一般大衆がおもしろくみられるようにできている。
そして、どの作品にも、ある新しい新鮮なときめきが、用意されている。
トリュフォーの出世作「大人は判ってくれない」、「突然炎のごとく」、「恋のエチュード」、「アメリカの夜」など、どの作品のなかにも、新鮮なときめきがあって、それは時代をへて見直してもなお、初々しさを失わない。トリュフォーという監督は、そんな独特の味わいをもった映画作家だと思う。

フランソワ・ロラン・トリュフォーは、1932年に仏国パリで生まれた。
フランソワは、未婚だった母親が産み落とした私生児で、母親が後に結婚した相手の男、ロラン・トリュフォーが認知し、それで彼の姓は「トリュフォー」となった。
実の父親は知られていないが、1960年代に探偵社によっておこなわれた調査によると、ユダヤ人の歯科医であると推定されている。
認知はされたものの、すぐに父母と暮らすことはかなわず、フランソワは幼いころ、祖母に引き取られ、育てられた。
感化院に送りこまれたりした不穏な少年時代をすごしたトリュフォーは、やがて映画にのめりこむようになり、雑誌に先鋭な映画批評を書きはじめる。
24歳のとき、ロベルト・ロッセリーニの助監督となったトリュフォーは、映画製作会社を興し、自分で映画を作りだす。
27歳のとき、最初の長編映画「大人は判ってくれない」を発表。これは、感化院にいた経験を生かしたトリュフォーの自伝的映画だったが、大ヒットとなり、ヌーヴェル・ヴァーグの旗手、トリュフォーの名は一躍有名になった。以後(以下、各年号はフランスでの公開年)、
「ピアニストを撃て」(1960年)
「突然炎のごとく」(1962年)
「柔らかい肌」(1964年)
「華氏451」(1966年)
「黒衣の花嫁」(1967年)
「夜霧の恋人たち」(1968年)
「暗くなるまでこの恋を」(1969年)
「恋のエチュード」(1971年)
「アメリカの夜」(1973年)
「アデルの恋の物語」(1975年)
「トリュフォーの思春期」(1976年)
「恋愛日記」(1977年)
「終電車」(1980年)
「日曜日が待ち遠しい」(1982年)
などなど、名作を数多く発表した後、1984年10月、ガンにより没。52歳だった。

トリュフォーの映画は、いつも恋愛映画で、さすがフランス人らしい、と感心する。というか、映画をみるならフランス映画、フランス映画なら恋愛映画、とこうこなくっちゃという王道を、トリュフォーはまっすぐ歩いた監督である。
そして、もうひとつの特徴として、トリュフォーの映画には、いつもセックスのムードが流れている。
トリュフォーは、作品のなかで露骨なセックス描写をするわけではないけれど、映像や会話のなかで、つねに性的なことがほのめかされていて、それが映画全体をとてもセクシャルな雰囲気にしている。エロ映画でないのに、とてもエロティックである。
こういうことを感じるのは、自分だけかしらと思っていたら、大女優のカトリーヌ・ドヌーヴがまさにそのことを指摘していると、最近になって知った。ドヌーヴはこういっている。
「フランソワは恋愛映画を何本も撮りましたが、作品の中には常に性的なものが存在していました。それはかなりぼかされていて、多くの場合は羞恥心のほうが優位に立っています。でも彼の作品を、たとえば『暗くなるまでこの恋を』を、ちょっと注意してそうした正確な角度から見れば、どんなに性的に激しくてはっきりしているかがわかります」(アントワーヌ・ド・ベック他、稲松三千野訳『フランソワ・トリュフォー』原書房)
「暗くなるまでこの恋を」は、自分がもっとも好きなトリュフォー作品で、DVDをもっていて、もう何度みたかしれない。 
ドヌーヴはこの「暗くなるまでこの恋を」に主演していて、この映画の撮影中に、監督のトリュフォーと恋に落ち、二人は熱々の仲となった。トリュフォーが36歳、ドヌーヴが25歳のころである。
だから、この映画には主演女優のドヌーヴに対する監督の愛が、映画全編にわたってしみこみ、あふれだしているような気がする。
やりにくかったであろう主演男優は、ジャン・ポール・ベルモンド。
「主演女優と監督の恋と主演ベルモンド」の組み合わせといえば、「アンナ・カリーナとゴダール、主演ベルモンド」の「気狂いピエロ」が思いだされる。
ジャン・ポール・ベルモンドという人は、こうやってみると、監督が見ている前で、その恋人とラヴシーンを演じる、というシビアな場数を、けっこう踏んでいるわけである。
そういうドキドキ感も加わって、トリュフォー作品はますます、セクシャルな恋のムード満載なのである。
(2013年2月6日)



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2/5・タイヤのダンロップ

2013-02-05 | ビジネス
2月5日は、仏国の自動車メーカー、シトロエンの創業者、アンドレ=ギュスターヴ・シトロエンの誕生日(1878年)だが、自動車のタイヤで有名なダンロップの誕生日(1840年)でもある。
自分は中学生のころからテニスをやっていて、長年、ダンロップ社のラケットやボール、シューズを愛用している。いまは古いシトロエンに直し直し乗っているのだけれど、そのトランクには、ラケット3本とテニスシューズ、かごに入れたボールが20個ほど、いつも積んであって、それらはすべてダンロップ社の製品である。(ただし、タイヤはミシュラン)
でも、ダンロップがスコットランドの人だとは、知らなかった。

ダンロップ社の創業者である、ジョン・ボイド・ダンロップは、スコットランドの北エアーシアに生まれた。獣医外科医の勉強をして、10年ほど地元で獣医をした後、アイルランドへ越していき、クリニックを開いたりした。
47歳のとき、ダンロップは子ども用の三輪車のタイヤに、自分が考案した空気タイヤを装着して、走らせた。当時は、まだ空気でふくらめたタイヤというものがなく、馬車でも荷車でもなんでも、かたい木製の車輪か、かたいゴムのついた車輪がせいぜいで、乗り心地はひじょうに悪く、車体や車輪のいたみ具合もはげしかった。そうした問題を、空気を注入してクッションをよくしたタイヤによって、彼は一気に解決したのである。翌年、彼はこの空気タイヤを特許申請した。
ダンロップが開発した空気タイヤは、自転車に装着され、彼のタイヤを付けた自転車はほぼすべての自転車レースで優勝した。
50歳のとき、タイヤ製造を本格化したが、その際、事業の経営者に、収益の取り分と引き換えに、タイヤの特許権を譲渡したこともあって、空気タイヤの発明は、ダンロップにたいした富をもたらさなかったらしい。
申請しておいた特許も、同じアイディアが、ダンロップより40年ほど前に、同じスコットランド人の天才発明家ロバート・トムソンによってフランスで申請されていたことから、認められなかった。
1921年10月、ダンロップはアイルランドのダブリンで没している。81歳だった。

特許はとれなかったけれど、おそらくダンロップは、トムソンの発明を実用化したのでなく、やはり自分で発明したのだろう。
だから、やっぱり、タイヤの改良者でなく「発明者」と呼んであげたい。
自分としては、とても恩恵をこうむっている、恩のある人である。

タイヤといえば、元首相の鳩山由紀夫(敬称略)などは、彼のお母さんが、タイヤ・メーカー、ブリジストンの創業者の長女なので、その関係で、とてもお金まわりがいいと有名だけれど、タイヤの元祖のダンロップは、そんなにお金持ちにはなれなかったのである。
功績ということと、経済的成功ということを、結びつけるのは、なかなかむずかしいみたいだ。

でも、ダンロップのことを、自分のように、とても感謝している後世の者もいる。
もちろん、素材となるゴムのこともあるが、乗り心地を圧倒的によくする、このタイヤというのは、いったいどこのどんなえらい人がつくってくれたのだろうと、昔から知りたいと思っていながら、調べたことはなかったのだけれど、今回ダンロップを知って、よかった、やっぱり、長生きはするものだなぁ、と思ったのでした。
(2013年2月5日)

著書
『12月生まれについて』

『新入社員マナー常識』

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『ポエジー劇場 天使』

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2/4・立たない勇気、ローザ・パークス

2013-02-04 | 歴史と人生

2月4日は、米国の人権運動家、ローザ・パークスの誕生日。
ローザ・・パークス。この黒人女性の起こした歴史的事件のことは、自分は十代のころからよく知っていたが、彼女の名前にはあまり注意をはらっていず、記憶していなかった。
彼女の名を覚えるようになったのは、この10年以内のことである。
有色人種がほとんどの日本では、「人種差別」が日常生活のなかで露骨に示されることがすくないから、一般の人は差別意識もあいまいだし、認識もぼんやりしていて、差別の情報についても無知な人が多い。
一方、差別についてつねに意識せざるを得ない国、米国では彼女の名を冠した博物館があるくらいパークスは有名な人物である。
日本でも、21世紀になった現在では、英語の教科書にその名がでてくるようになり、彼女の名前はかなり「常識」となってきているようではある。
彼女がなぜそんな歴史に名を残す偉人となったかというと、バスに乗って席につき、立たずに、すわったままでいたから、という単純な理由なのだから、すばらしい。
できれば、以下の文章は、読んでいるあなたが、生まれながらに黒人女性だった、として、読んでいただけたら、と思う。

ローザ「リー」ルイーズ・マコーリー・パークスは、1913年2月4日、米国アラバマ州タスキーギで生まれた。大工だった父親の名がジェイムズ・マコーリーだから、生まれたときは、ローザ・ルイーズ・マコーリーだったわけである。
生まれて、気がついてみれば、彼女は黒人の女性だった。
彼女は11歳のとき、州都モンゴメリーの学校に入り、そこで就職し、19歳のとき、黒人理容師、レイモンド・パークスと結婚した。
それで名前に「パークス」が付いた。「リー」は愛称である。

1943年、30歳のとき、モンゴメリーの百貨店に勤めていたパークスは、勤めの帰りにバスに乗った。
料金を払って、席にすわっていると、白人のバス運転手がやってきて、彼女にいった。
「規則通り、後ろのドアから乗り直してくれ」
すこし説明が必要かもしれない。
当時の南部では、公共施設において、白人と黒人の居場所が厳格に分けられていた。
いわゆるジム・クロウ法というやつで、モンゴメリーでも、市の条例によって、バスの座席は、有色人種と白人とでは、席が区分けされていた。
バスの後ろのほうが黒人の席で、前のほうが白人の席。ここから後ろが「カラード(有色人種)」という札で、境界が示されていて、その札は、運転手がこみ具合によって、動かしていいことになっていた。
白人と黒人が同じ横の列に並んではいけないのがルールだった。
さらに、黒人の乗客は、バスの前の乗車口から乗って、運転手に料金を払った後に、いったんバスを降りて、後ろの乗車口からバスに乗り直さなくてはいけない、という決まりがあった。黒人は白人の乗客の横を通るな、というわけである。
「後ろのドアから乗り直してくれ」
そのとき、バスの運転手がそういったのは、そういう意味だった。
ローザ・パークスはいったんバスを降りた。すると、バスはドアを閉めて、彼女をおいて、走り去ってしまった。
雨が降っていた。彼女は雨のなかを長い時間歩いて家に帰った。
このとき、彼女は、雨に打たれながら、なにごとかを思いつつ歩いたのだろう。
その姿が、南アフリカで列車の乗車拒否にあい、ひと晩考え、人生を決断した、あのマハトマ・ガンジーに重なるのを、自分は感じる。
ただし、彼女は、ガンジーのように、すぐには決起しなかった。熟成の期間が必要だった。

それから12年後。
1955年12月、42歳になったローザ・パークスは、百貨店の仕事帰り、またいつものようにバスに乗った。
バスの黒人の席のいちばん前の列にすわっていた。
バスが走るうち、しだいに車内が混雑してきた。
白人用の席がいっぱいになり、何人かの白人がさらに乗ってきた。すると、運転手がやってきて、「有色人種」の札をひとつ後ろの列に移し、黒人席の最前列にすわっていた彼女ら4人の客に、立って席を移るようにいった。
この運転手が、12年前、彼女を雨のなかに置き去りにしていったあの運転手と同一人物だったという。
ただし、ローザ・パークスは、同じ運転手だとは、気がつかなかったらしい。
さて、ほかの3人の黒人は席を立ったが、ローザ・パークスは立たなかった。彼女はただ、横の窓ぎわの席へずれた。
「なぜ、席を立たないのだ?」
運転手が問うと、彼女は答えた。
「立つべきだと思わないから」
「それなら、警察を呼んで逮捕してもらうぞ」
「どうぞ、そうしてください」
それで、運転手はその通りにし、ローザ・パークスは逮捕された。
彼女は留置場にいれられ、簡易裁判を受けて、罰金刑が下り、すぐに釈放された。

このニュースが走ると、現地の黒人たちが立ち上がった。
当時モンゴメリーの教会の牧師だった、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、地域の黒人に、バスに乗車しないようバス・ボイコット運動を呼びかけた。
ここから、公民権運動の大きなうねりがはじまり、運動のうねりは全米へ波及し、1961年の「フリーダム・ライダー」運動(差別撤廃を求め、あえて白人座席に乗りこむ運動)につながり、1963年のワシントン大行進となり、初の黒人大統領誕生(バラク・オバマ)へともつながっていくのである。

ローザ・パークスはキング牧師らの公民権運動に参加し、後、ミシガン州デトロイトへ移った。
彼女は自己開発教育センターを創設して青少年の人権教育に尽力し、連法議会から議会金メダルを授与された後、2005年10月、デトロイトにて没。92歳だった。
デトロイトにはローザ・パークス記念館があり、モンゴメリーにはローザ博物館が設立された。
彼女が席を立つことを拒否したバスは、ミシガン州ディアボーンにあるヘンリー・フォード博物館に展示されている。

そのとき、席を立ったほかの3人と同じようにしていたら、彼女はローザ・パークスになれなかったわけである。
しかし、そのまますわっていた、という、その勇気はすごいと思う。
そのために、彼女はリンチにあったり、殺されたり、家に火をつけられたり、家族を皆殺しにされたり、といった事態さえ、容易に想像できたわけだから。
歴史をいまからふり返るから、勇気をもって立たずにいたえらい人、とかんたんにいえるけれど、その行動の結果がどうでるかなど、その時点ではわかったものではなかった。

現在、世界中で、そして日本のいたるところで、人間に対する差別や理不尽な扱いが横行している。
女として生まれたから、若いから、あるいは貧乏だから、というだけで、ひどい扱いを受けている人がさくさんいる。
立って、黙って席をゆずっていく人がおおぜいいる。
そんな現代社会の状況を思うと、いたたまれない気持ちになる。
後年、ローザ・パークスは、なぜ席を立たなかったのかと問われて、こう答えたそうだ。
「今回ばかりは、人間として権利、市民としての権利を守らなくてはいけいなと感じたため」
(2013年2月4日)



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2/3・美をにらむガートルード・スタイン

2013-02-03 | 美術
2月3日は、米国出身の作家、ガートルード・スタインの誕生日(1874年)。
ガートルード・スタインというと、自分はピカソが描いた「ガートルード・スタインの肖像」が真っ先に目に思い浮かぶ。
すわったスタインが、ひざに手をおき、斜に構えた感じで、なにかをじっとにらんでいる恰好の肖像画である。
もちろん自分はスタイン本人に会ったことがないけれど、ピカソの肖像画のほうが、写真よりも実物に近い気がする。

ガートルード・スタインは、米国ペンシルヴァニア州で生まれた。
「スタイン」の名前からわかる通り、ユダヤ系で、父親は羊毛を扱う商人で、鉄道会社に投資して潤沢な資産を築いていた。
ガートルードは、7人きょうだいの末っ子で、当初5人きょうだいだったのが、上の2人が死んだため、急遽もうけられた下の2人のひとりが彼女だった。
長男のマイクが資産運用にたけた人物で、彼らきょうだいはその運用利益で、なに不自由なく暮らしていける身分だった。
ガートルードは医学学校で勉強していたが、途中で退学。すぐ上の兄レオが住んでいたパリへ引っ越していった。これが1903年、29歳のとき。
スタイン兄妹は、サロンを開き、そこには大勢の新進画家、文学者などの芸術家が出入りした。
画家のマスス、ピカソ、ブラック、詩人のアポリネールなど。
「ガートルード・スタインの肖像」が描かれたのは、このころである。
ガートルード・スタインは新進画家たちの絵画を収集するとともに、彼ら現代芸術家たちを擁護する論陣を張り、「これが芸術家か」と反発の強かった一般の人たちに、しだいに新しい20世紀芸術を受け入れ、認めさせる啓蒙家的な役割を果たした。
スタインが買い集めた絵画は、しだいに値が上がり、ついにスタインも手が届かないくらいに高価になった。
執筆活動も旺盛で、著作に小説『三人の女』、評伝『アリス・B・トクラスの自伝』『みんなの自伝』などがある。
第二次大戦仲は、占領されたフランス国内にいたが、かろうじて迫害をまぬがれた。
1946年7月、胃ガンのため没。72歳だった。

自分がガートルード・スタインの書いたものを、はじめて読んだのは、ヘミングウェイの小説『日はまた昇る』の文庫本である。
このヘミングェイの処女小説の扉には、エピグラフとして、スタインのこんなことばか引用してある。
「あなたがたはみなうしなわれた世代の人たちです」
(You are all a lost generation. )
パリに住んでいたころのヘミングウェイに作文の指導をしたのは、スタインだった。

ところで、ピカソの「ガートルード・スタインの肖像」のスタインが、じっと、にらんでいるのは何だろう?
それは「美」だ、と自分は思う。
じっと「美」をにらむ。これが20世紀の新しいスタイルなのである。
それ以前、19世紀までは、芸術家が美の女神に祈りを捧げ、一心不乱に作品に打ち込めば、おのずとそこに「美」が生まれた。
しかし、20世紀に入るとそうはいかなくなった。
芸術家は、まず創作する前に「美」をじっとにらみすえ、悩まなくてはならなくなった。
これが、ピカソやスタインが掲げた芸術革命であり、「ガートルード・スタインの肖像」が重要であるゆえんである、と自分は考えている。
(2013年2月3日)


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2/2・ユリシーズのジョイス

2013-02-02 | 文学
2月2日は、20世紀で最も重要な文学者といわれるジェイムズ・ジョイスの誕生日。
ジョイスといえば『ユリシーズ』である。
自分は学生だったころのある日、書店で『ユリシーズ』の上下2巻本を見かけ、手にとった。
20年間くらいは本棚に並べて、もっていたと思う。
結局、巻末の解説にあった、全体のあらすじと、作者ジョイスのプロフィールを読み、あとは、ぱらぱらと拾い読みしたくらいで、引っ越しする際に処分してしまった。
だから、自分にとって『ユリシーズ』は、いまだに「難解をもって鳴る現代の古典」である。

ジェイムズ・オーガスティン・アロイジアス・ジョイスは、1882年2月2日に、アイルランドのダブリンで生まれた。
10人きょうだいのいちばん上だった。
ジェイムズが子どものころ、家運が急速に傾き、ジェイムズは転校や、頻繁な引っ越しを余儀なくされた。
ジェイムズ・ジョイスは語学が堪能だったが、若いころから自堕落で、酒びたりの生活を送っていた。
アイルランド脱出を目論んだジェイムズは、22歳のころ、ベルリッツ語学学校の英語教師となり、トリエステ(現イタリア)で語学教師として働きはじめた。
トリエステには10年ほどいて、その後、スイスのチューリッヒに5年ほど、それから約20年間パリに住んだ。
そうやって国外生活をつづけながら、『ダブリン市民』『若き芸術家の肖像』『ユリシーズ』『フィネガンズ・ウェイク』など、前衛的で、言語実験的な文学作品を書いた。
外国暮らししながら、ダブリンの話ばかり書いた。
1940年、フランスがドイツに占領されたため、ジョイスは長年住んだパリを離れ、チューリッヒにもどった。
そして翌1941年1月、チューリッヒで、十二指腸潰瘍により没。58歳だった。

『ユリシーズ』というのは、1904年6月16日の1日間にダブリンの街で起きたことを描いた小説である。
主人公のユダヤ人、ブルームが、頭のなかでいろいろな妄想を思い浮かべながらダブリンの街をさまよう。
一方で、彼の妻は浮気相手に熱をあげている。
そういう基本的に下世話な筋立てを、ジョイスは「意識の流れ」を追う描き方でつづっていく。
ブルームが通りの店の奥さんを見かけると、あの女はいい尻をしているとか、やらしてくれないかなあとか、あの女はこんなことがあってなどとブルームは考え、向こうのべつのものに目を移すと、今度はそれについて、ああ、あれは○○だなあ、と考えだす。
といった具合で、登場人物の意識にちらっとでも浮かんだことがらを、残らずすべて記述していくという、ひじょうに面倒な書き方をしている。
だから、とても読みにくいのだけれど、あるいはこの小説は、頭の部分から読もうとするから、挫折するのかもしれない。
エッチな妄想全開の、第4章あたりから読みはじめれば、案外楽しく読めたりするのかもしれない。
自分も、いつかリベンジ、ふたたび挑戦してみたいと思っている。
ジョイスというのは、ほんとうにたいしたことを企て、それをやり遂げた、たいした人だ。
(2013年2月2日)



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2/1・ミスター映画、ジョン・フォード

2013-02-01 | 映画
2月1日は、米国の映画監督、ジョン・フォードの誕生日。
ジョン・フォードといえば「西部劇の神さま」、ハリウッド映画の神さまである。
自分の感覚としては、自分の好きな映画監督たちが敬愛した映画監督、といった感じになる。

ジョン・フォードは、1894年2月1日、米国メイン州に生まれた。
両親はアイルランドからの移民で、ジョンは、11人きょうだいの下から2番目である。
父親は農場、漁業、ガス会社、酒場など、さまざまな事業を試みた人物で、市会議員にもなった。
ジョンより12歳年上の兄フランシスが、先にカリフォルニアへいき、映画の仕事についていてた。
フランシスはトーマス・エジソンなどの無声映画100本以上に出演したという。
ジョン・フォードはメイン州のポートランド高校をでた後、兄のいるカリフォルニア州へいき、映画関係の仕事を志した。
ジョンは、当初、兄の助手としてスタートした。 彼は兄の映画の雑用係、スタントマン、俳優、カメラマンなど、なんでもこなした。
俳優としてはじめて映画出演したのは、20歳のときだった。
23歳のとき、初の監督作品「台風」を発表。
以後、ハリウッドを代表する映画監督として「男の敵」「駅馬車」「若き日のリンカン」「怒りの葡萄」「タバコ・ロード」「わが谷は緑なりき」「荒野の決闘」「三人の名付け親」「黄色いリボン」「静かなる男」「ミスタア・ロバーツ」「荒鷲の翼」「西部開拓史」など、数々の名作を世に送った。
第二次大戦中は、軍に志願し、映画撮影班として従軍し、ドキュメンタリー映画「ミッドウェイ海戦」「真珠湾攻撃」などを撮影した。ジョン・フォードは、太平洋戦争の転換点となったミッドウェー沖海戦の戦場にいあわせたのである。
1973年8月、カリフォルニア州パームデザートで没。79歳だった。

自分は、ジョン・フォードの作品はそんなにたくさんみていない。
ジョン・フォードといえば「駅馬車」だが、この映画は、映像のスピード感、テンポのよさ、筋の展開のみごとさなど、やっぱりよくできた娯楽映画だと思う。映画作りのお手本のような映画である。
ただし、いささか古い時代の映画なので、ネイティブ・アメリカンを悪役にすえ、白人を正当化して主役におき、話をわかりやすく単純化する時代性が、いまみると、さすがにつらい。
そこで、自分としてはむしろ「わが谷は緑なりき」の、いつまでたっても古びない、温かい、ヒューマニスティックな味わいが好きである。
まさに、ミスター映画と呼ぶにふさわしい巨匠だった。
(2013年2月1日)



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『2月生まれについて』(ぱぴろう)
ジョン・フォード、マッケンロー、スティーブ・ジョブズ、ルドルフ・シュタイナー、村上龍、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。


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