1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

2/8・山本寛斎のエネルギー

2013-02-08 | 個性と生き方
2月8日は、日本軍が旅順港にいたロシア艦隊を攻撃して日露戦争がはじまった日(1904年)だが、ファッションデザイナーの山本寛斎の誕生日でもある。
自分がはじめて山本寛斎の名前を知ったのは、大好きなアーティスト、デヴィッド・ボウイがらみである。1978年、来日して公演をおこなっていたボウイが、日本の雑誌のインタビューを受けた発言のなかに、山本寛斎の名前がでてきたのだったと思う。
「わたしのレコードは売れないので、ときどきこうしてツアーにでてお金を稼がないといけないのです」
インタビュー中、そんなことをいっていたボウイは、日本の安全さに触れ、
「自分の子どもと山本寛斎の子どもが二人だけで外に遊びにいって、無事に帰ってくるのにびっくりした」
という意味のことをいっていた。
これは当時、7歳くらいだったゾウイ(現在の映画監督、ダンカン・ジョーンズ)と、4歳くらいだった(将来の女優)山本未來のことを指していたと思われる。
自分は、そのインタビュー記事を読んで、
「ふうん、外国は、こわいところなんだなあ」
と思ったものだ。

山本寛斎は1944年、横浜生まれ。コシノジュンコなどのもとで働いた後、独立。27歳のとき独立し、自分の会社を設立。英国ロンドンでコレクションを発表。これが機縁となって、デヴィッド・ボウイの衣裳を担当。ボウイが羽織ったマントに躍る「出火吐暴威」の文字も、たぶん山本寛斎によるのものだろう。
31歳のとき、仏国パリでコレクションを発表。しかし、このころから彼のファッション・デザインが受けず、会社の経営もうまくいかなくなった。一時はウツ状態となり、自殺を考えて悶々とする日々をすごしたらしい。
その後、一念発起して、企業をまわってスポンサーを募り、「スーパー・ショー」と題した、ファッションと音楽とアート、舞台芸術をあわせた総合芸術イベントのプロデュースを開始。スーパー・ショーを世界各国で開催し、鉄道車両など幅広い分野でデザイン、アートを展開している。

自分は、山本寛斎のデザインの、ゆったりとした、大きめの服の感じがけっこう好きである。
たしか、大島渚監督が「戦場のメリー・クリスマス」をもって、カンヌ映画祭に乗りこんだとき、監督が着ていた「THE OSHIMA GANG」と染め抜いたTシャツも、たしか寛斎のデザインだった気がする。
1990年ごろに放送されていた、作家、村上龍がホスト役を務めるテレビのトーク番組『Ryu's Bar 気ままにいい夜』にゲスト出演したときの山本寛斎の印象は鮮やかだった。スーパー・ライブのプロデュースに力を入れているころで、全身これエネルギーのかたまりといった風だった。誰が見ても、
「ただものではない。こんなエネルギーのある人なら、どんな分野でも、きっと成功する」
と思わせるオーラがあった。
そのころ、山本寛斎がいっていたことばのなかで、スポンサーになってくれるよう企業にお願いするため、そこの社長宛てに、まず誠意をこめて手紙を書くところからはじめるといっていたこと、あるいは、海外で勝負しようとするとき、自分はなにをもっているのかと突き詰めて考えたとき、最後に残る自分の強さとは「自分のなかにある日本人」これしかない、といったこと、それから、友だちに「今年はやるぞ」という気持ちを伝えたくて、年賀状でなく、元旦に電報を打つといっていたことが印象に強く残っている。
すごい人だなあ、と感心した。
でも、後になって、そんな元気に満ちた人でも、挫折感がいっぱいで自殺ばかり考えていた時期があったことを知り、自分はそれで余計に山本寛斎が好きになった。
(2013年2月8日)



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『2月生まれについて』(ぱぴろう)
山本寛斎、志賀直哉、村上龍、桑田佳佑、ジョン・マッケンロー、スティーブ・ジョブズ、ジョージ・フェリス、ロベルト・バッジョ、ジョン・フォード、ルドルフ・シュタイナーなど、2月誕生の29人の人物評論。人気ブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。

『1月生まれについて』(ぱぴろう)
デヴィッド・ボウイ、エイゼンシュテイン、スタンダール、モーツァルト、盛田昭夫、夏目漱石、ビートたけし(北野武)、ちばてつや、ジョン万次郎、村上春樹、三島由紀夫など1月誕生の31人の人物評論。人気ブログの元となった、より詳しく、深いオリジナル原稿版。1月生まれの教科書。

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