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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

2/18・ファンタジスタ、ロベルト・バッジョ

2013-02-18 | スポーツ
2月18日は、インドの聖者、ラーマクリシュナ(1836年)、前衛芸術家、オノ・ヨーコ(1933年)の誕生日だが、至上のサッカー選手、ロベルト・バッジョが生まれた日でもある。
自分は、ジュビロ磐田の本拠地、静岡県磐田市の生まれで、小さいころからサッカーにはよく親しんでいた。小学生のころは、大空翼ではないが、「ボールは友だち」といった感覚で、足を出せば、ボールが吸いついてくる感じだった。小学校の代表チームのメンバーとして、市内大会に出場し、優勝したこともある。
その後、中学からテニスをはじめたので、しだいにサッカー・ボールとは疎遠になり、だんだん、ボールに嫌われている自分に気づくようになってきたけれど、そうやって嫌われても、なおサッカー・ファンではありつづけている。
ペレ、クライフ、マラドーナ、オーウェン、ジダン、カカ、ゴン中山と、好きなサッカー選手はたくさんいるけれど、いちばん好きな選手は誰かといえば、やっぱりサッカーのファンタジーを見せてくれるアーティスト、ロベルト・バッジョである。
その存在が大きすぎるために、つねに監督とのあいだに緊張関係が築かれ、結果として監督に冷遇される、そしてバッジョは宿命的にそのハンディをはねのけて活躍することになるという、その悲劇性も魅力である。

ロベルト・バッジョは、1967年、イタリアのカルドーニョで生まれた。8人きょうだいの6番目の子で、小さいときからサッカー大好き少年だった。地元のユース・チームの選手として活躍し、1試合で6ゴールを決め、プロ・スカウトの目にとまり、15歳のとき、プロ・デビュー。
彼は、セリエC1のヴィチェンツァというチームからキャリアをスタートした。高い技術に裏打ちされた、想像力豊かな華麗なプレーと、圧倒的なゴール決定力でチームの勝利に貢献し、18歳のとき、セリエAのフィオレンティーナに移籍。ところが、右ひざをけがし、2シーズンを棒に振った。それでも、チームはバッジョの回復を待った。けがが回復して、戦線へもどると、バッジョは大活躍して、地元フィレンツェはバッジョのプレイに熱狂した。バッジョが、当時の史上最高額の移籍金でトリノのユヴェントスへ移籍することが発表されると、フィレンツェでは暴動が起きたほどだった。これは、フィオレンティーナのオーナーの一存でおこなわれた移籍で、バッジョ自身も当惑したといわれるが、ユヴェントスへ移ったバッジョは、やはり大活躍して、チームをUEFAカップ優勝に導き、バッジョ自身も国際サッカー連盟(FIFA)の最優秀選手に選ばれた。以後、バッジョは、ACミラン、ボローニャ、インテル、ブレシアとチームを変えて活躍し、「ファンタジスタ」の名をほしいままにした後、37歳で現役を引退した。
一方、サッカー・ワールド・カップにおいては、1990年イタリア大会(第3位)、1994年アメリカ大会(準優勝)、1998年フランス大会(ベスト8)と、バッジョは3大会にわたって代表として出場し、いく度となく奇跡的なゴールを決め、母国を窮地から救い、勝利へと導いた。3大会を通じて、バッジョを擁するイタリアは、一度も試合のスコアで負けたことはなく、敗北はすべてPK戦による。
その後、バッジョは、イタリア・サッカー協会の技術部門監督に就任し、セリエAの監督資格を取得。
しかし、2013年1月、バッジョが提言する若手サッカー選手育成法の改善策に、サッカー協会が耳を貸さないとして、彼は技術部門監督を降りている。

バッジョは、サッカー史に残る数々の名場面を演出してきたが、自分がいちばん印象に残っているのは、サッカー・ワールドカップの1998年フランス大会、グループ・リーグの、イタリア対チリ戦で見せた、相手ディフェンダーの手をねらって蹴ったボールである。
そのとき、試合はすでに後半の終わり近くで、イタリアは1対2で負けていた。相手側コートに攻め込んだイタリアは、ルーズボールになりかけたのを、バッジョが奪って足元に落ち着かせた。そのバッジョの前に、チリのディフェンダーが立ちはだかった。瞬間、二人はペナルティ・エリアのラインをはさんで対峙した。バッジョはペナルティ・エリアの外、チリの選手は内である。バッジョは、ボールを蹴った。高く上がったボールは、チリ選手の手にぶつかり、選手の手が大きくはねあがった。バッジョは、ハンドではないかと、腕を掲げてアピールした。主審はハンドの反則と判定し、ペナルティ・キック(PK)を宣言した。
PKはバッジョ自身が蹴った。ワールドカップでバッジョが蹴るPKといえば、4年前のアメリカ大会の、イタリア対ブラジルの決勝で、PK合戦となった最後にバッジョが蹴り、高くゴールをはずし、その瞬間、ブラジルの優勝が決まった、あのPKが思い起こされる。世界中のサッカー・ファンのほとんどが、4年前の悲劇的なシーンを思いだしながら、バッジョのPKを見守っていたはずだ。
バッジョが蹴ったボールはキーパーの手をすりぬけ、ゴールに吸い込まれていった。試合は2対2の引き分けで終了し、イタリアは貴重な引き分けポイントを手に入れた。

自分は、そのときの映像を収めたDVDをもっていて、問題のハンドのシーンを、もう30回以上は見ている。
先ほど、自分は、バッジョが相手の手をねらって蹴った、と書いたが、映像を見たかぎりでは、はっきりそうだとは断言できない。ほんの一瞬のことで、バッジョがねらったようにも見えるし、そうでないようにも見える。
しかし、自分はやっぱり、バッジョは、相手の手をねらって、つまりPKをねらって蹴ったのだと確信している。
なぜかというと、蹴ったのが、ほかでもない、バッジョだからだ。
バッジョの技術は当時世界一で、彼がこの場面でミスキックするということは、まずあり得ない。
その彼が、蹴りだしたボールのコースを見ると、もしも相手ディフェンダーの手に当たっていなかったら、とんでもない後方へ高く上がって、味方のディファンダーがとるかどうか、というへんちくりんな軌跡を描いたはずのボールなのである。この時間帯で、この点差、この位置で、バッジョがそんなパスを出すはずがない。ということは、やはり、相手のハンドをねらったのである。
審判の判定は正しかったと思う。
ペナルティ・エリア内のハンドは反則で、相手チームにPKが与えられる。
それが故意のハンドと見なされれば、レッドカードの一発退場となる。
そのときのチリ選手は、ハンドの反則だが、故意ではない、と判定され、カードが出なかったわけである。

あのキックを見たとき、自分は背筋に寒いものを感じた。バッジョの勝負師としてのすごみを見た気がした。どんな絶望的な状況でも、活路を見いだし、あらゆる手段を使って勝ちにいく。つねに自分の勝利を確信していて、最後の最後までその確信を捨てない、そういう強い意志のようなものを感じた。
すぐれた技術、的確な状況判断、創造性豊かなプレイ、仲間を統率する力といった、さまざまな点において、バッジョはずぬけた選手ではあるが、その根もとのところにある、あの強い意志こそが、バッジョをしてバッジョたらしめているのだと、自分は思った。
バッジョは創価学会員で、試合後のインタビューの際など、よく、この勝利を池田先生に捧げる、というようなコメントをしていた。コメントを聞いて、テレビの通訳が当惑する場面もよく見かけた。そういう仏教徒としての信仰、信念も、彼の強さを支えている面があったろう。
それにしても、バッジョの目はいつも、キラキラと鋭く輝いていた。それは、夢見る少女の瞳のきらめきとはまったくちがう種類の、獲物をねらう黒ヒョウの目に宿る光だった。
あの光を、自分もほしい、と思う。
(2013年2月18日)


著書
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