2月16日は、法華経こそ大事と説いた日蓮聖人の誕生日(貞応元年)だが、米国の不世出のテニス・プレイヤー、ジョン・マッケンローの誕生日でもある。
中学生のときからテニスをはじめ、当時からの愛読書『エースをねらえ!』をいまでも見返す自分にとって、マッケンローは、岡ひろみと並ぶ青春のヒーローである。
マッケンロー・ファンの自分は、『俺はマッケンロー』『勝つためのテニス マッケンロー物語』といった本や、彼の自伝『Serious』(未邦訳)も、しっかり読んできた。
1989年の全米オープンの際、自分は、ニューヨークのフラッシング・メドゥのコートサイドで、マッケンローのプレイを5メートルほどの距離から観戦した。それは、文字通り夢見心地の体験だった(その大会の男子ダブルスで彼は優勝した)。
マッケンローのテニス・プレイを見ることは、ほかのどのテニス観戦とも異なっている。それは、奇跡の連続を目撃することだからだ。
ジョン・マッケンローは、1959年、西ドイツ(当時)のヴィースバーデンで生まれた。父親は当時、米国空軍に所属していて、西ドイツの基地に赴任中だったのである。その後、父親は、家族を連れて米国ニューヨークへもどり、広告代理店に勤務しながら、法律学校に通っている。
8歳からテニスをはじめたジョンは、アマチュア時代から全仏オープンの混合ダブルスを制するなど、飛び抜けた成績をあげていた。
スタンフォード大学を中退してプロに転向。
1979年の全米オープンでは、決勝でビタス・ゲルレイティスをで破り、20歳の若さで優勝。
以後、シングルスとダブルス、両方で活躍するトップ・プレイヤーとして、ビヨン・ボルグ、ジミー・コナーズらとともに数々の名勝負を繰り広げ、テニスの黄金時代を作った。
とくに、1980年の全英オープン(ウィンブルドン)の決勝における、4時間近いボルグとの死闘は、スポーツ史上に残る伝説的名勝負となった。
全盛期の1984年には、年間に負けた試合がたった3試合のみ、年間勝率96.5パーセントという大記録を打ち立てている。
通算獲得賞金は、1250万ドル以上だが、マッケンローはまだまだ健在で、2006年にはSAPオープンの男子ダブルスで優勝しているし、2012年の全仏オープンでは、シニア男子ダブルスで優勝した。2013年現在、彼の生涯獲得賞金額はいまだ積み上げられつつあり、確定されていない。
男子テニスのトップ・プレイヤーたちの技というのは、間近で見ると、まったくすごいものである。
23歳のころのステファン・エドバーグのシングルス・ゲームをコート・サイドで見たことがあるけれど、すごかった。
相手の選手がものすごく早いボールを、コートのすみっこへ打ち込んできて、
「さすがにこれは、とれないだろう」
と思って見ていると、エドバーグは驚くべき脚力でそれに追いつき、からだを低く伸ばして、ほとんど上にバウンドしてこない、コート上をすべっているような感じのボールを、ちゃんとラケットに当てて拾い、鋭く打ち返して、相手コートのすみのすみの、これまた信じられないくらいむずかしい場所へ落として、エースをとってしまうのだった。
「プロの技とは、かくもすごいものであったか」
という話である。
が、マッケンローの技はさらにその上を行っていた。
エドバーグは、テニスの教科書通り、しっかり走って、ボールに追いつき、打つ方向に対してからだを横向きにし、ひざをちゃんと曲げ、腰を落として、ちゃんと構えてボールを打つので、そのプレイがいかに卓越してまねできないものだったとしても、理論的には頭で理解できた。
しかし、マッケンローのプレイとなると、もう理解を超えていた。
マッケンローはコートにただ突っ立って、ぶらぶら歩いている。そして、ボールがくると、いつの間にかそのそばに立っていて、手先でちょっとラケットを振りまわして、ボールをひっぱたくだけなのだった。
ところが、ボールはネットの上すれすれのところをものすごいスピードですべってゆき、相手側のコートの、相手選手のいない場所に突き刺さるのである。
頭脳の理解などもうどうでもよくなる。目の前に実現された、不可能だと思われるプレイを、ただただ見て感嘆し、その奇跡の連続を楽しむしかない、それがマッケンローのテニスなのだった。
ずっと以前、テニス仲間と飲みながら、
「天才とは何か?」
ということについて議論したことがある。そのときの議論は、こんな風だった。
テニスでいえば、やはりマッケンローは天才だろう。では、マッケンローをほかのテニス・プレイヤーと識別させる特徴とはなにか? それが天才の定義になるのではないか。
それで、出た結論は、
「意外性の頻度の高さ」
ということになった。
右へ打つと見せかけて左へ打つとか、パッシング・ショットを打つと見せかけてロブを放つとか、テニス選手はいつも相手の裏をかく意外性のあるプレイを心がけるものだが、マッケンローのプレイはそれがずぬけていた。
「ここでそれをやるか」
というプレイの連続だった。
頭がよく、想像力が豊かで、通常予想されるつぎのいくつかの選択肢とはまったくちがう新展開を創造し、それがちゃんと肉体で表現されるので、テニスコート上に彼のイマジネーションが目に見える形で展開され、観客はそれを文字通り見て、芸術作品を鑑賞するように楽しめるのである。マッケンローはよく「アーティスト」と称されたが、ひと言でいえば、そういうことなのである。
努力を重ね、想像力を思い切り羽ばたかせて、意外性のある技を、いともかんたんにやっているかのように、やってのけたい。
ジョン・マッケンローは、自分に、そんな忘れかけていた欲望を思いださせる。
(2013年2月16日)
著書
『12月生まれについて』
『新入社員マナー常識』
『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』
『ポエジー劇場 天使』
中学生のときからテニスをはじめ、当時からの愛読書『エースをねらえ!』をいまでも見返す自分にとって、マッケンローは、岡ひろみと並ぶ青春のヒーローである。
マッケンロー・ファンの自分は、『俺はマッケンロー』『勝つためのテニス マッケンロー物語』といった本や、彼の自伝『Serious』(未邦訳)も、しっかり読んできた。
1989年の全米オープンの際、自分は、ニューヨークのフラッシング・メドゥのコートサイドで、マッケンローのプレイを5メートルほどの距離から観戦した。それは、文字通り夢見心地の体験だった(その大会の男子ダブルスで彼は優勝した)。
マッケンローのテニス・プレイを見ることは、ほかのどのテニス観戦とも異なっている。それは、奇跡の連続を目撃することだからだ。
ジョン・マッケンローは、1959年、西ドイツ(当時)のヴィースバーデンで生まれた。父親は当時、米国空軍に所属していて、西ドイツの基地に赴任中だったのである。その後、父親は、家族を連れて米国ニューヨークへもどり、広告代理店に勤務しながら、法律学校に通っている。
8歳からテニスをはじめたジョンは、アマチュア時代から全仏オープンの混合ダブルスを制するなど、飛び抜けた成績をあげていた。
スタンフォード大学を中退してプロに転向。
1979年の全米オープンでは、決勝でビタス・ゲルレイティスをで破り、20歳の若さで優勝。
以後、シングルスとダブルス、両方で活躍するトップ・プレイヤーとして、ビヨン・ボルグ、ジミー・コナーズらとともに数々の名勝負を繰り広げ、テニスの黄金時代を作った。
とくに、1980年の全英オープン(ウィンブルドン)の決勝における、4時間近いボルグとの死闘は、スポーツ史上に残る伝説的名勝負となった。
全盛期の1984年には、年間に負けた試合がたった3試合のみ、年間勝率96.5パーセントという大記録を打ち立てている。
通算獲得賞金は、1250万ドル以上だが、マッケンローはまだまだ健在で、2006年にはSAPオープンの男子ダブルスで優勝しているし、2012年の全仏オープンでは、シニア男子ダブルスで優勝した。2013年現在、彼の生涯獲得賞金額はいまだ積み上げられつつあり、確定されていない。
男子テニスのトップ・プレイヤーたちの技というのは、間近で見ると、まったくすごいものである。
23歳のころのステファン・エドバーグのシングルス・ゲームをコート・サイドで見たことがあるけれど、すごかった。
相手の選手がものすごく早いボールを、コートのすみっこへ打ち込んできて、
「さすがにこれは、とれないだろう」
と思って見ていると、エドバーグは驚くべき脚力でそれに追いつき、からだを低く伸ばして、ほとんど上にバウンドしてこない、コート上をすべっているような感じのボールを、ちゃんとラケットに当てて拾い、鋭く打ち返して、相手コートのすみのすみの、これまた信じられないくらいむずかしい場所へ落として、エースをとってしまうのだった。
「プロの技とは、かくもすごいものであったか」
という話である。
が、マッケンローの技はさらにその上を行っていた。
エドバーグは、テニスの教科書通り、しっかり走って、ボールに追いつき、打つ方向に対してからだを横向きにし、ひざをちゃんと曲げ、腰を落として、ちゃんと構えてボールを打つので、そのプレイがいかに卓越してまねできないものだったとしても、理論的には頭で理解できた。
しかし、マッケンローのプレイとなると、もう理解を超えていた。
マッケンローはコートにただ突っ立って、ぶらぶら歩いている。そして、ボールがくると、いつの間にかそのそばに立っていて、手先でちょっとラケットを振りまわして、ボールをひっぱたくだけなのだった。
ところが、ボールはネットの上すれすれのところをものすごいスピードですべってゆき、相手側のコートの、相手選手のいない場所に突き刺さるのである。
頭脳の理解などもうどうでもよくなる。目の前に実現された、不可能だと思われるプレイを、ただただ見て感嘆し、その奇跡の連続を楽しむしかない、それがマッケンローのテニスなのだった。
ずっと以前、テニス仲間と飲みながら、
「天才とは何か?」
ということについて議論したことがある。そのときの議論は、こんな風だった。
テニスでいえば、やはりマッケンローは天才だろう。では、マッケンローをほかのテニス・プレイヤーと識別させる特徴とはなにか? それが天才の定義になるのではないか。
それで、出た結論は、
「意外性の頻度の高さ」
ということになった。
右へ打つと見せかけて左へ打つとか、パッシング・ショットを打つと見せかけてロブを放つとか、テニス選手はいつも相手の裏をかく意外性のあるプレイを心がけるものだが、マッケンローのプレイはそれがずぬけていた。
「ここでそれをやるか」
というプレイの連続だった。
頭がよく、想像力が豊かで、通常予想されるつぎのいくつかの選択肢とはまったくちがう新展開を創造し、それがちゃんと肉体で表現されるので、テニスコート上に彼のイマジネーションが目に見える形で展開され、観客はそれを文字通り見て、芸術作品を鑑賞するように楽しめるのである。マッケンローはよく「アーティスト」と称されたが、ひと言でいえば、そういうことなのである。
努力を重ね、想像力を思い切り羽ばたかせて、意外性のある技を、いともかんたんにやっているかのように、やってのけたい。
ジョン・マッケンローは、自分に、そんな忘れかけていた欲望を思いださせる。
(2013年2月16日)
著書
『12月生まれについて』
『新入社員マナー常識』
『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』
『ポエジー劇場 天使』