1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

2/4・立たない勇気、ローザ・パークス

2013-02-04 | 歴史と人生

2月4日は、米国の人権運動家、ローザ・パークスの誕生日。
ローザ・・パークス。この黒人女性の起こした歴史的事件のことは、自分は十代のころからよく知っていたが、彼女の名前にはあまり注意をはらっていず、記憶していなかった。
彼女の名を覚えるようになったのは、この10年以内のことである。
有色人種がほとんどの日本では、「人種差別」が日常生活のなかで露骨に示されることがすくないから、一般の人は差別意識もあいまいだし、認識もぼんやりしていて、差別の情報についても無知な人が多い。
一方、差別についてつねに意識せざるを得ない国、米国では彼女の名を冠した博物館があるくらいパークスは有名な人物である。
日本でも、21世紀になった現在では、英語の教科書にその名がでてくるようになり、彼女の名前はかなり「常識」となってきているようではある。
彼女がなぜそんな歴史に名を残す偉人となったかというと、バスに乗って席につき、立たずに、すわったままでいたから、という単純な理由なのだから、すばらしい。
できれば、以下の文章は、読んでいるあなたが、生まれながらに黒人女性だった、として、読んでいただけたら、と思う。

ローザ「リー」ルイーズ・マコーリー・パークスは、1913年2月4日、米国アラバマ州タスキーギで生まれた。大工だった父親の名がジェイムズ・マコーリーだから、生まれたときは、ローザ・ルイーズ・マコーリーだったわけである。
生まれて、気がついてみれば、彼女は黒人の女性だった。
彼女は11歳のとき、州都モンゴメリーの学校に入り、そこで就職し、19歳のとき、黒人理容師、レイモンド・パークスと結婚した。
それで名前に「パークス」が付いた。「リー」は愛称である。

1943年、30歳のとき、モンゴメリーの百貨店に勤めていたパークスは、勤めの帰りにバスに乗った。
料金を払って、席にすわっていると、白人のバス運転手がやってきて、彼女にいった。
「規則通り、後ろのドアから乗り直してくれ」
すこし説明が必要かもしれない。
当時の南部では、公共施設において、白人と黒人の居場所が厳格に分けられていた。
いわゆるジム・クロウ法というやつで、モンゴメリーでも、市の条例によって、バスの座席は、有色人種と白人とでは、席が区分けされていた。
バスの後ろのほうが黒人の席で、前のほうが白人の席。ここから後ろが「カラード(有色人種)」という札で、境界が示されていて、その札は、運転手がこみ具合によって、動かしていいことになっていた。
白人と黒人が同じ横の列に並んではいけないのがルールだった。
さらに、黒人の乗客は、バスの前の乗車口から乗って、運転手に料金を払った後に、いったんバスを降りて、後ろの乗車口からバスに乗り直さなくてはいけない、という決まりがあった。黒人は白人の乗客の横を通るな、というわけである。
「後ろのドアから乗り直してくれ」
そのとき、バスの運転手がそういったのは、そういう意味だった。
ローザ・パークスはいったんバスを降りた。すると、バスはドアを閉めて、彼女をおいて、走り去ってしまった。
雨が降っていた。彼女は雨のなかを長い時間歩いて家に帰った。
このとき、彼女は、雨に打たれながら、なにごとかを思いつつ歩いたのだろう。
その姿が、南アフリカで列車の乗車拒否にあい、ひと晩考え、人生を決断した、あのマハトマ・ガンジーに重なるのを、自分は感じる。
ただし、彼女は、ガンジーのように、すぐには決起しなかった。熟成の期間が必要だった。

それから12年後。
1955年12月、42歳になったローザ・パークスは、百貨店の仕事帰り、またいつものようにバスに乗った。
バスの黒人の席のいちばん前の列にすわっていた。
バスが走るうち、しだいに車内が混雑してきた。
白人用の席がいっぱいになり、何人かの白人がさらに乗ってきた。すると、運転手がやってきて、「有色人種」の札をひとつ後ろの列に移し、黒人席の最前列にすわっていた彼女ら4人の客に、立って席を移るようにいった。
この運転手が、12年前、彼女を雨のなかに置き去りにしていったあの運転手と同一人物だったという。
ただし、ローザ・パークスは、同じ運転手だとは、気がつかなかったらしい。
さて、ほかの3人の黒人は席を立ったが、ローザ・パークスは立たなかった。彼女はただ、横の窓ぎわの席へずれた。
「なぜ、席を立たないのだ?」
運転手が問うと、彼女は答えた。
「立つべきだと思わないから」
「それなら、警察を呼んで逮捕してもらうぞ」
「どうぞ、そうしてください」
それで、運転手はその通りにし、ローザ・パークスは逮捕された。
彼女は留置場にいれられ、簡易裁判を受けて、罰金刑が下り、すぐに釈放された。

このニュースが走ると、現地の黒人たちが立ち上がった。
当時モンゴメリーの教会の牧師だった、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、地域の黒人に、バスに乗車しないようバス・ボイコット運動を呼びかけた。
ここから、公民権運動の大きなうねりがはじまり、運動のうねりは全米へ波及し、1961年の「フリーダム・ライダー」運動(差別撤廃を求め、あえて白人座席に乗りこむ運動)につながり、1963年のワシントン大行進となり、初の黒人大統領誕生(バラク・オバマ)へともつながっていくのである。

ローザ・パークスはキング牧師らの公民権運動に参加し、後、ミシガン州デトロイトへ移った。
彼女は自己開発教育センターを創設して青少年の人権教育に尽力し、連法議会から議会金メダルを授与された後、2005年10月、デトロイトにて没。92歳だった。
デトロイトにはローザ・パークス記念館があり、モンゴメリーにはローザ博物館が設立された。
彼女が席を立つことを拒否したバスは、ミシガン州ディアボーンにあるヘンリー・フォード博物館に展示されている。

そのとき、席を立ったほかの3人と同じようにしていたら、彼女はローザ・パークスになれなかったわけである。
しかし、そのまますわっていた、という、その勇気はすごいと思う。
そのために、彼女はリンチにあったり、殺されたり、家に火をつけられたり、家族を皆殺しにされたり、といった事態さえ、容易に想像できたわけだから。
歴史をいまからふり返るから、勇気をもって立たずにいたえらい人、とかんたんにいえるけれど、その行動の結果がどうでるかなど、その時点ではわかったものではなかった。

現在、世界中で、そして日本のいたるところで、人間に対する差別や理不尽な扱いが横行している。
女として生まれたから、若いから、あるいは貧乏だから、というだけで、ひどい扱いを受けている人がさくさんいる。
立って、黙って席をゆずっていく人がおおぜいいる。
そんな現代社会の状況を思うと、いたたまれない気持ちになる。
後年、ローザ・パークスは、なぜ席を立たなかったのかと問われて、こう答えたそうだ。
「今回ばかりは、人間として権利、市民としての権利を守らなくてはいけいなと感じたため」
(2013年2月4日)



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