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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

6月30日・スーザン・ヘイワードの脱皮

2024-06-30 | 思想
6月30日は、プロボクサー、マイク・タイソンが生まれた日(1966年)だが、ハリウッド女優、スーザン・ヘイワードの誕生日である。

スーザン・ヘイワードは、1917年、米国のニューヨーク市ブルックリンで生まれた。本名はイーディス・マーレナー。父親はアイルランド系の運送会社員で、母親はスウェーデン系の速記者だった。上に姉と兄がいる、3人きょうだいの末っ子だった。
父親の血筋から赤い髪を受け継ぎ、母親の血筋から透き通る白い肌を受け継いだイーディスは、女子高校時代から学内の劇で活躍していた。高校を卒業後、しばらくモデルをした後、20歳のときに、西海岸のハリウッドへ引っ越し、女優を目指した。
大作「風と共に去りぬ」のスカーレット役のオーディションを受け、フィルムテストまで受けたが、落選。いくつかの映画のちょい役を務めた後、22歳のとき、映画「ボー・ジェスト」でゲイリー・クーパーの相手役を演じて本格的に映画デビューした。
27歳のとき、俳優のジェス・バーガーと結婚し、双子を出産。この結婚生活時代に「スマッシュ・アップ」「タルサ」「キリマンジャロの雪」「真紅の女」などに出演した。結婚10年目の、彼女が37歳のとき、離婚。彼女は睡眠薬を飲んで自殺未遂をはかったが、一命はとりとめた。
回復後に出演した「明日泣く」でカンヌ国際映画祭女優賞を受賞。
40歳のとき、ジョージア州の牧場主と結婚。この結婚直後の「私は死にたくない」でアカデミー主演女優賞を受賞。彼女は映画出演を続けながら、映画人でない夫との農場暮らしを楽しんだ。その夫が、彼女が49歳のときに没した。
ふたたび独身となったヘイワードはジョージア州を離れた。以後は映画に出演することもすくなくなり、1975年3月、脳腫瘍のため、ハリウッドで没した。57歳だった。

「風と共に去りぬ」と「ジャイアンツ」を合わせたような「タルサ」や、グレゴリー・ペックと共演した「キリマンジャロの雪」もよかったけれど、個人的には、ヘイワードは「真紅の女」の女優である。
ヘイワードが36歳のときの映画「真紅の女」は、彼女のトレードマークである赤毛の髪から、そういう邦題が付けられたのだろうけれど、原題は「The President's Lady」で「大統領の淑女、ファーストレディ」といった意味である。
これは、合衆国第7代大統領アンドリュー・ジャクソン夫妻を描いた伝記映画で、不屈の魂をもった大統領ジャクソンを若きチャールトン・ヘストンが演じ、その妻レーチェルの役をスーザン・ヘイワードが演じた。
アンドリュー・ジャクソンは24歳のとき、レーチェル・ドネルソンと恋に落ち、結婚したが、まだ彼女と前の夫との離婚が成立していなかったことが後になってわかり、離婚成立を待って結婚をやり直した経緯があった。これを重婚、姦通などとして妻を侮辱する者がときどきあり、怒ったジャクソンは妻の名誉のために何度も決闘をおこなった。一度は相手を殺し、彼自身も重傷を負った。後に大統領になったジャクソンのからだには、部位が危険で取り出せない弾丸が3発、生涯入ったままだったという。この熱血漢の大統領の「運命の女」をヘイワードが演じた。米国史専攻で、たまたまこうしたジャクソン大統領の経歴を知っていたので、この映画をとても興味深く観た。
ヘイワードは離婚、結婚の節目ごとに、一皮向けて成長していた大女優で、そういう彼女の経歴とも重なって、二重に興味深く感じる。
(2024年6月30日)



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