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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

6月29日・黒田清輝の雅

2024-06-29 | 美術
6月29日は、『星の王子さま』を書いたサン=テグジュペリが生まれた日(1900年)だが、画家、黒田清輝(くろだせいき)の誕生日でもある。

黒田清輝(本名の読みは「きよてる」)は、慶応2年6月29日(西暦1866年8月9日)、現在の鹿児島県鹿児島市で生まれた。父親は薩摩藩の武士で、清輝は同じく薩摩藩士だった伯父の養子になり、6歳になる年に上京し、東京で育った。
伯父は鳥羽伏見の戦いに参加し、維新後、官僚、議員、子爵になった人物である。
二松學舍大学の前身の学校に進学し、学業と並行して鉛筆画や水彩画を学んでいた清輝は、英語、仏語を学び、東京外国語学校を経て、18歳になる年にフランス・パリへ法律学の学生として留学した。
養父ら家族からは、とうぜん官僚・政治家になるよう期待されていたろうけれど、パリで日本人画家と交わるうちに進路を変更、清輝は画家として立つ決意を固め、古典的な写実と印象派の画風を備えた「外光派」のラファエル・コランの弟子になった。
25歳のとき、窓辺で椅子にすわって本を読んでいるフランス女性を描いた「読書」で、フランスのサロンに入選。
27歳になる年に帰朝し、洋画研究所天心道場を開き、洋画団体「白馬会」を結成。
また、東京美術学校で西洋画科が開設されると、その教員となり、箱根の芦ノ湖湖畔で浴衣の女性(後の黒田清輝夫人)が団扇をつかっている構図の「湖畔」を発表。
32歳で東京美術学校の教授になり、33歳で日本女性裸婦像が3枚セットになった作品「智・感・情」をパリ万博へ出品し銀賞受賞。
続いて、西洋婦人をモデルにした「裸体婦人像」を白馬会展に発表すると、これがわいせつだと官憲の批判を受け、絵の裸婦の腰から下部分が布におおわれて展示され、「腰巻事件」として話題を呼んだ。
以後も黒田清輝は、白馬会や東京美術学校を通じて後進の育成に努めながら、京都の鴨川が見える窓辺に着物姿の娘が腰かけた構図の「舞妓」、草原に裸婦が寝そべる「野辺」、病床の窓から見える樫木を描いた「梅林」などを発表し、貴族院議員、帝国美術院長などの役職を歴任した後、1924年7月、尿毒症のため、東京で没した。57歳だった。

明るい外光派、黒田清輝こそは「日本近代西洋画の父」である。後代の日本人油彩画家は、多かれ少なかれ、先人・黒田清輝の恩恵をこうむっている。
ただ、現代から見ると、さすがに黒田清輝の絵画はやや堅い。おそらく、西洋の技術を輸入し、日本絵画界に寄与するのだという気負いからくるのだろう、傑作「湖畔」にしても、女性の表情がややぎこちない。黒田の画風に比べれば、後輩のパリ留学組、藤田嗣治、梅原龍三郎、岡本太郎らは、ずっと自由だし、個性的である(それも、黒田清輝ら先人の達成があった上での成果である)。
ただし、こうは言えるだろう。藤田、梅原、岡本ら後輩画家たちは自由だけれど、優雅さという点において、後輩たちは、黒田清輝に及ばない、と。「読書」「湖畔」といった絵に漂う典雅は独特のものである。たぶんこれは技術云々とは別の次元のことがらだろう。
黒田清輝の優雅さは、尾崎紅葉の小説にある典雅に通じる。明治の人というのは、後の昭和生まれなどにはない、あるみやびをもっていたようだ。
すると、それは、もはや日本人が失ってしまった性質なのかもしれない。
(2024年6月29日)



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