佐倉市にある曹洞宗の長谷山宗徳寺にて故松村三生、戒名省三耕作信士の四十九日の法要を行った、宗徳寺は応永10年(1403)に小弓城主 原胤高により下総国小弓郷柏崎に創建され、元亀元年(1570)に原胤栄が臼井城主となって長谷津に移転され、この地にあった長谷山龍雲寺を合併したという関東ではかなりの古刹だ、室町時代にこの地を治めていた臼井氏を継いで領主となった原氏の菩提寺であり、ご住職は三生の葬儀の際に導師をお願いした。実際に宗徳寺にお伺いしてみると故郷の小さな菩提寺と較べて伽藍の大きさは比較にならない位立派なお寺だった。法要を終えたところ遺骨は宗徳寺のご住職が預かっておこうと仰って戴いたのでご好意に甘える事にした。じつは故郷の菩提寺である山口県光市室積にあるお寺から「他の寺で戒名を授けられた仏を供養する訳にはいかない」と体よく法要と納骨を断られたからである。宗徳寺のご住職や葬儀社の担当の方からは「よくある話」と仰られていたがまさか江戸時代からご縁があるお寺さんからこの様な言葉を戴くとは思ってもいなかった。亡き母の話では祖父や父はおりにつけて相当額の寄付をして本堂の修復等に貢献していると聞いたが金の切れ目が縁の切れ目か?そういえば私個人は何もしていない。後はお墓をどうするか?又ひとつ課題が増えた。松村家の素性は明確ではないが宗旨が西日本では極めて少数派の曹洞宗という意味合いから室町時代末期に関東から安芸国(広島県)に大挙して移住した野伏の一団であったらしい、かの地の過去帳から推察すると水先案内や船による戦闘を生業とし戦国時代の先祖は五軒屋五人集と言われる海賊グループの親玉で海岸を通行する船から金品を巻き上げたり、一攫千金を夢見て江戸時代初期には蝦夷地の探検などもやっている。先祖の悪行が祟ってか松村家はみな短命で古稀を迎えたのは私が最初だ。