松村知也、猫が大好きな爺さん

自身の忘備録です、日記風の記述だが政治的な意見や専門領域(電子工学・品質管理)の記述は意図的に避けています。

ブルックナーの交響曲第7番

2014年10月05日 | 日記

アントン・ブルックナーはオールトリアの作曲家ヴァーグナーを敬愛し自作の第2番と第3番交響曲の楽譜をバイロイトのヴァーグナーの居宅に持参したが身なりがあまりにもみすぼらしく妻のコジマが小銭を与えて追い返した、物乞いと間違えたらしい、ちなみにコジマはかの大作曲家リストの娘で、母親は後にダニエラ・ステルンの名前で活躍するマリー・ダグー伯爵夫人。両親は10年以上にわたり愛人関係にあり、その第二子次女としてイタリアで生まれた。リストの母親アンナ・リストにひきとられ、寄宿舎にあずけられた。再びアンナ・リストのもとに戻るが、その後ロシアから呼び寄せられたペテルシ夫人を後見人として教育を受ける。この頃9年ぶりに父親であるリストと再会している。その後、ベルリンのビューロウ夫人のもとで教育を受ける。1857年に指揮者のハンス・フォン・ビューローと結婚し、二児を産んだ。1862年にリヒャルト・ワーグナーと知り合い、次第に引かれ合うようになった。1865年にはワーグナーとの間に長女イゾルデが誕生。翌年にはスイスのトリプシェンで同棲生活をはじめている。1867年に次女エーファ、1869年には長男ジークフリートを出産した。1870年にビューローと正式に離婚し、ワーグナーと再婚したとここまではウキペディアからの引用だが、ヴァーグナーは楽譜を見て驚嘆し「なぜ追い返した」と激昂、慌ててブルックナーを探すと近くの公園に座り込んでいた作曲家を見つけて自宅に案内したという。1873年8月のことだ。ブルックナーはこの時ヴァーグナーに楽譜を献呈している。本日の主題であるホ短調の第7番は彼の交響曲中初めて初演が成功した交響曲として知られている。1884年の初演、Mickeyが最も好きな交響曲の一つである。第2楽章の執筆中は最も敬愛してきたヴァグナーが危篤で、ブルックナーは「ヴァーグナーの死を予感しながら」書き進め、1883年2月13日にヴァーグナーが死去すると、その悲しみの中でコーダを付加し、第184小節以下をワーグナーのための「葬送音楽」と名付けている。ということでこの交響曲をCDで探すと多くの大指揮者が録音していることに驚く、あまたの名演のなかでMickeyが最も感銘をうけたのはヘルベルト・フォン・カラヤンが手兵ベルリンフィルを指揮して1970年にベルリンのイエスキリスト教会で録音した演奏である。多くの日本人評論家はこの天才指揮者を誤解すること甚だしく、驚くほど訓練されたこの偉大なるオーケストラと指揮者を何の根拠もなく「薄っぺらで奥行きのない」と酷評している。この録音で驚くのは第2楽章終盤のティンパニーの連打だ、薄っぺらというならこの演奏技術をどのように評価するのだろうか?まあ色々な感想があってもいいのだが数多くの実演に接している私にしてみればむずかしさがわかると言いたいのだ。



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