三十年の浪人生活のスタ-ト
(敬称略)
第九章 全青春を衆愚政治との対決に ・1・
自書●「改訂 日本海時代の首都実現に燃えて」
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--それでも私はなぜ出馬するのか-- 西川攻著
第九章 全青春を衆愚政治との対決に
Ⅰ・三十年の浪人生活のスタ-ト
大野代議士の
政治信念を継承して出馬するにしても、
強力なバックアップがあるわけで無し、
秘書仲間も既に
大野引退を機に
それぞれの生活を早々と確保すべく
他陣営の軍門に下り
活動している状態でありました。
大野自身も引退後、すっかり元気がなくなり、秘書を一本化するだけの力も意欲も無く、みんな豆まきの豆の如くバラバラに散ってしまいました。
しかし総力戦である選挙を勝つためにどうしても大野の後継という御旗が必要でありました。
新人の私は五反田の自宅を何度か訪ね大野と直談判し切々と訴え続けました。
秘書仲間だった大半が県議で新人のS候補陣営に入り込んだ為、大野も彼らに対する責任と遠慮があったようで決断するのに大変苦慮していたのは事実でした。
明確な言質が得られないまま次期総選挙を睨んで各陣営は活発な動きを加速しているに豪を煮やし、
”いつまで待たせるんですか、先生!”
と問い詰めると、今の政界のありようと選挙民に哀訴が尽きたなどの愚痴っぽい言葉で述懐しつつ、
「君は決意が固いようだが、
あぶく銭がなければなかなかやれるものではないよ」
といった言葉が今でも強く印象に残っております。
その忠告が如何に現実の選挙の中で通有する迫力ある言葉として、残念の事ながら当を得ていることかは、10余年経過しても旧3区体質の実体に変わりがなかったことが如実にそのことを証明していました。
”その国民のレベルに値する政治家しか持ち得ない”ならば、まず立派な選挙民をひとりでも多くつくるといった、あまりにも地道で且つ気の遠くなるような人生を余儀なくされる破目に陥った訳であります。
そんな己の気のよさに対し気負いを感じたり、時には己の愚かさに嫌悪を感じたりする瞬間が襲ったこともありました。
浪人生活前の東京での華々しい生活と異なり、一転して日々同じ繰り返しで全ての面で窮屈でとりわけ知的には不自由な生活と態度をとらないと反感を買われかねない事がしばしばありました。
そこでは、田舎特有の因習や情実が何ものにも優先するという壁が立ちはだかり、之に順応してゆかざるを得ないという現実があるわけです。
より本質なことよりも些細な日常の事柄についてのことが重視され、それを巡っていろんなそしりを受けかねない危険を孕んでいるのです。
「もう、俺の人生だ、ほっといてくれ」と大声で叫びたくなるほど、他人のことのついて種種詮索することがそこでは、日常茶飯事化しておりました。
人の人生に土足で入り込む失礼極まりないとの自覚が全くない現状がありました。
田舎の人情の豊かさからのものとは異質の執拗なそれは、少なくとも各個の主体性と自立心を蝕むことになり、地方が飛躍するための最大の阻害要因になっていることは否定できません。
そしてこの悪しき側面の風土と金権を絡めて後援会組織の拡大に拍車をかけ、金のかかる選挙が当然の如く大手を振って罷り通り、物量そのものの戦いが長年展開されてきたわけです。
物事を遠望する見識も主体性も影を潜め、利害集団の対決一色となるのです。
そしてこの手段を弄するもののみが結果として当選し、国政を牛耳っていたわけです。
将に、衆愚政治の最たるかたちであり、
経済的繁栄のみを誇りとする
旧3区の群衆
の中に私は
見識ある活力を育み、
郷土と日本の
政治意識を改造するため
徒手空拳で
代議士への道に
チャレンジする遥かな旅を
始めた次第です。
平成24年4月18日
西川攻(さいかわおさむ)でした。
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