(この項敬称略)
”田中角栄と宮本顕治は
戦後政治家の東西横綱!?”
■私と出会った人物伝
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田中角栄
-功罪相半ばの天才政治家-
西川攻(さいかわおさむ)著
40分間に及んだ私との一対一、2度の会談
昭和51年12月5日投票の衆院選で旧新潟3区選出、国会の雪男の異名で知られた硬骨漢政治家大野市郎代議士は落選(翌年政界引退)しました。
長年に亘り雪害対策・農政に尽力、その手腕を遺憾なく発揮すると共に、最後まで信念を貫いた政治家として私の心に今でも金字塔の如く聳(そび)え立っています。
彼の国会詰め秘書としての在任期間7年。
地元から数々の陳情を受け付け之を実現せんと、政・官・財界・各種会合に飛び廻るなど、故郷発展の為、愛郷無限の使命感を以って東奔西走に明け暮れた日々でした。
秘書就任当初の或る日、先輩秘書から
「大野市郎は西川攻を利用する為に採用したのであって君に利用される為に雇ったのではない」
と釘をさされました。
私の真意(いつまでも秘書をやるつもりは全くなく早く自分が、自分が・・との焦りからくる野心)むき出しの挙動を見かねて放った言から推測すると、
私の本音は既に周囲から見透かれていたようです。
然し次第に大野の政治家としての、高潔さ・信念を貫く姿勢に感じ入るものがあり,暫らくはこの先生のために頑張る事を決意。
国会での活動のみならず、頼まれてもいない選挙区攻略計画書を作成し大野に提出、更に、これを実行する為には私自身の選挙区行きが必須であることを説得。
これに猛反対する先輩秘書に対し大野は「君は、なにを云ってるんだ!
西川君の創った計画書をもう一度よく見ろ!」と一喝して抑え、私の案を絶賛、激励し、大いなる期待をしてくれました。
結果、念願かなって「この度の選挙が終わり次第、国会に戻ること」を条件に選挙区行きは許可された次第です。
秘書となって始めて地元に入ることが叶いました。
この年、今太閤、総理大臣田中角栄誕生の旋風は凄まじく、「越山会(角栄の後援会)でなければ人にあらず」の如く選挙区を席巻していました。
立会演説会の際、反田中の大野が登壇・演説を始めるや否や「福田の群馬に帰れ!」「お前にはもう用は無い!」そして「帰れ!、帰れ!」などの怒号が飛びかよっておりました。
会場にいた私は、如何なる事になるかと内心「ハラ、ハラ」でした。
しかし、「ただいま大野市郎は、群馬を通ってわが故郷新潟3区に帰ってまいりました!銘柄米の格差導入、豪雪法の制定の実績を始め、これからも米・雪の難問は私にお任せください、必ず大野市郎が解決して見せます!
3区に、この大野市郎なくして、果たして・・・云々」と毅然と怯(ひる)むことなく野次を切り返し、最後まで堂々の演説で締めくくった。
結果は前回(5人定員中3位)より1万票以上減で辛うじて最下位で当選。
因(ちなみ)に
私が担当した柏崎票だけが”何故、増えたのか”をめぐって話題騒然と為ったものです。
が、3年後の選挙で冒頭した如く落選し、之を機に政界から去ることとなりました。
”遂(つい)に私の出番がやってきた!”と私は、直(ただ)ちに次期、大野唯一の後継者として出馬すべく戦略を練り始めていました。
一方、節分の豆撒(ま)きの如くばらまかれた先輩であった同秘書仲間連中は、その後の生活の糧・職を求め奔走しておりました。
同じ選挙区出馬の桜井に3名、村山に1名が夫々(それぞれ)の秘書となり、残る1名は田中後援会の幹部の下に。
そんな折、早朝7時、東京練馬の石神井に住んでいた私の電話が、けたたましくなり続けました。
でますと、「福田(赳夫)先生が、難しかった選挙区の大野君のところで頑張ってくれた西川君の手腕を同じ福田派で参院選全国区候補予定の石本茂の参謀として活かしてくれと・・、あっ、おれ、佐藤、2区の佐藤隆だよ!」
彼(旧新潟2区の代議士で大野と懇意・福田派)は早口で一気にまくしたてて手短に話し、「兎に角、急いでるんで、是非頼むよ!」といって電話を切った。
~ 石本茂選対本部参謀としての活躍の詳述は、本シリ-ズ石本茂の項で掲載予定故、茲(ここ)では割愛します ~
参院戦も後半に差迫ってきたとき、石本の実弟(石川県議)の石本啓語から
「西川さん、まことに云いづらい事なんですけど、このままでは落選かもしれません、それで・・、それで・・」の相談がありました。
「はっきり云って下さい、僕も、楽観できる状況で無いことは承知してます、なんですか!」
「実は角さんに応援をお願いしてもらいたいんです」
「エ!」私は一瞬耳を疑いました。
そもそも田中の宿敵である福田の要請で同派の石本の参謀になった私が田中に・・それは本旨にも、道義にも、悖(もと)るのではないか?
が、しかし、私に両手を合わせ拝み続ける弟啓語の姿に接し、兄弟愛・家族愛の原型を見てしまいました。
更に、女性乍(なが)ら男以上の能力・度量の広さ・誰もが認める日本看護界のドンとしての強さと優しさを備えてる石本茂の一フアンになっている私自身の自分に気づいていました。
加えて、こういう先生こそ日本の政界で活躍すべきとの思いも日々強まっていたこともあって、絶対当選させる為の一点に集中し、決断。
「わかりました、啓語さん!私が目白にいきます」
「すいません、すいません」安堵感からか啓語の目は微(かす)かに潤んでいました。
「但し、このことは私、西川攻の独断でやったことにしておいてください、
もし福田派関係者に知れたら先生や啓語さんに後々(のちのち)厄介なことになりかねません、その辺のことは判りますよネ、
必ず先生を当選させます!最後までがんばりましょう」
私から求めた握手の右手を両手でうけとめた啓語は、あらためて私の手を硬く硬く握り締め、
暫らく無言で涙を流し、私に対する感謝の意を顕(あら)わにしました。
「それにしても、あの田中角栄かぁ~ ・・・」
「さて、如何(どう)するか・・・」
と自問自答しつつ角栄攻略に向けての西川攻の行動が始動した訳です。
画して私と角さんとの一対一、40分間の第一回目の会談となった日がやってきました。
次回に続く
西川攻(さいかわおさむ)でした。
平成27年正月30日
叔母の茂(父母が養子縁組したので戸籍では義祖母となります)のことは、様々な記事が残っているため、政界でどの様な人物であったかは知り得ることが出来ます。
しかし父のことはあまり残っていないようで議事録や従兄弟のブログ位でしょうか。
父は温かな人物であったと思います。
医療福祉について語ってくれたことを思い出します。
父に触れた記事をありがとうございます。
どうかお身体を大切にされてお過ごし下さい。
これからもブログを拝見させて頂きます。
ありがとうございます。