地獄と感じた思春期
第六章 (回想記 イ )
三歳でおぼえた芸者ワルツ ・7・
自書●「改訂 日本海時代の首都実現に燃えて」
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--それでも私はなぜ出馬するのか-- 西川攻著
第六章 (回想記 イ )
三歳でおぼえた芸者ワルツ
7・地獄と感じた思春期
私の中2のとき、母は57歳で亡くなりました。
その後まもなく父のところに後妻が入る事になりました。
兄姉たちが一緒に住む訳ではないからまず最初に私にその話の相談があってしかるべきが筋であると思うが、
私は終始ツンボさじきに置かれたままでした。
今から考えれば、大人気ない馬鹿げた事ですが、
私にとっては実母がなくなってすぐ私の知らない女の人が父の後妻となって一緒に生活することとなるわけです。
そのこと自体が不純に感じ、如何とも為し難い、
暗い心理状態に陥ってしまった訳です。
父のわがままな性格に馴染んでを面倒を見てくれる人なら、
との考えが兄姉たちにあり、我が家にくることになったと思います。
しかしそこには私への配慮などは誰も感じなかったという他ありませんでした。
そんな時、亡き母の存在がいかに大きかったかを初めて知ることになり、
その思いが募り父や後妻にたいし、
憎悪さえ感じ、ことごとく対立姿勢を取る毎日が続きました。
時には、夕食の料理が並んでいた座卓ごとひっくり返したこともありました。
時には、
いたたまれなく、近所に住むMさん宅に行き、奥さんや,子供さんと共に過ごす時間が多くなり、
本来の家庭のぬくもりをそこでつかの間ではありましたが感じることが出来ました。
しかし、Mさん一家も転勤でまもなく引っ越すこととなり、
再び孤独と悲惨にさいなまれる毎日が訪れることになりました。
その為か次第に無口になっていくような自分の変化を感じたことも度々ありました。
この時代は悪しき感受性だけが敏感になり、充実した日々とは程遠いものであったと思います。
勢い、学校やクラブ活動でもやもやを発散する訳ですが、
それも終わり家に帰るのがとてもつらく感じました。
帰路の足が、クラブ活動後で当然空腹であるにも拘らず、家に近づくに従って重くなるのがはっきりと判りました。
しかし私は決して、ひねくれ者にはなるまいと子供ながらも自分の心に堅くに誓っておりました。
それは既述の引っ越していったMさんの奥さんからの
良い感化を受けたことが大きく影響したことによるものであったと思います。
頑張らなければならないとの気概をいつも心の中で持ち続ける原動力となって、
今の自分にもいきづいています。
思春期という精神が微妙に揺れ動くときに彼女の励ましと安らぎがなかったなら生きていけなかったかもしれないし、
やくざ者に成り下がっていたに違いありません。
如何なる迷路に立ち至っても、
意欲さえあれば、
どこかに、
いつの時代でも、
活路は必ずあります!
私はこれを信じ、痛感しながら悪夢の当時を凌いでまいりました。
出会いが如何に大切であるかを今更指摘すべきもありませんが、
極力幅広い人脈を創れるだけの行動半径の広さは常に持っていることが大切と考えます。
思春期に於いて、いろいろな事情はあっても自分の殻のみの閉じこもることなく、
外に向けた多様な価値ある広がりを育む行動力は必要不可欠と言えます。
平成24年3月31日
西川攻(さいかわおさむ)でした。