西川攻のブログ

西川攻が日本を斬る!!

自書●「日本海時代の首都実現に燃えて」<37> --それでも私はなぜ出馬するのか--    西川攻著

2012-03-31 17:50:04 | ● 改訂 日本海時代の首都実現に燃えて

獄と感じた思春期

 

 

 

   第六章 (回想記 イ )

三歳でおぼえた芸者ワルツ ・7・

 

 

自書●「改訂 日本海時代の首都実現に燃えて」

          <37>  

 --それでも私はなぜ出馬するのか--  西川攻著

 

 

 

    第六章 (回想記 イ )

      三歳でおぼえた芸者ワルツ

 

 

7・地獄と感じた思春期

 

 

 私の中2のとき、母は57歳で亡くなりました。

 その後まもなく父のところに後妻が入る事になりました。

 

 兄姉たちが一緒に住む訳ではないからまず最初に私にその話の相談があってしかるべきが筋であると思うが、

 私は終始ツンボさじきに置かれたままでした。

 

 今から考えれば、大人気ない馬鹿げた事ですが、

 私にとっては実母がなくなってすぐ私の知らない女の人が父の後妻となって一緒に生活することとなるわけです。

 

 そのこと自体が不純に感じ、如何とも為し難い、

暗い心理状態に陥ってしまった訳です。

 

 父のわがままな性格に馴染んでを面倒を見てくれる人なら、

 との考えが兄姉たちにあり、我が家にくることになったと思います。

 

 しかしそこには私への配慮などは誰も感じなかったという他ありませんでした。 

 

 そんな時、亡き母の存在がいかに大きかったかを初めて知ることになり、

 その思いが募り父や後妻にたいし、

憎悪さえ感じ、ことごとく対立姿勢を取る毎日が続きました。

 

 時には、夕食の料理が並んでいた座卓ごとひっくり返したこともありました。

 

 時には、

いたたまれなく、近所に住むMさん宅に行き、奥さんや,子供さんと共に過ごす時間が多くなり、

本来の家庭のぬくもりをそこでつかの間ではありましたが感じることが出来ました。

 

しかし、Mさん一家も転勤でまもなく引っ越すこととなり、

 再び孤独と悲惨にさいなまれる毎日が訪れることになりました。

 

 その為か次第に無口になっていくような自分の変化を感じたことも度々ありました。

 

 この時代は悪しき感受性だけが敏感になり、充実した日々とは程遠いものであったと思います。

 勢い、学校やクラブ活動でもやもやを発散する訳ですが、

それも終わり家に帰るのがとてもつらく感じました。

 

 帰路の足が、クラブ活動後で当然空腹であるにも拘らず、家に近づくに従って重くなるのがはっきりと判りました。

 

 しかし私は決して、ひねくれ者にはなるまいと子供ながらも自分の心に堅くに誓っておりました。

 

 それは既述の引っ越していったMさんの奥さんからの

良い感化を受けたことが大きく影響したことによるものであったと思います。

 

 頑張らなければならないとの気概をいつも心の中で持ち続ける原動力となって、

今の自分にもいきづいています。

 

 思春期という精神が微妙に揺れ動くときに彼女の励ましと安らぎがなかったなら生きていけなかったかもしれないし、

やくざ者に成り下がっていたに違いありません。

 

 

  如何なる迷路に立ち至っても、

意欲さえあれば、

どこかに、

いつの時代でも、

活路は必ずあります!

 

 

 私はこれを信じ、痛感しながら悪夢の当時を凌いでまいりました。

 

 出会いが如何に大切であるかを今更指摘すべきもありませんが、

極力幅広い人脈を創れるだけの行動半径の広さは常に持っていることが大切と考えます。

 

 思春期に於いて、いろいろな事情はあっても自分の殻のみの閉じこもることなく、

外に向けた多様な価値ある広がりを育む行動力は必要不可欠と言えます。

 

 

 

 平成24年3月31日

西川攻(さいかわおさむ)でした。


自書●「改訂 日本海時代の首都実現に燃えて」<36> --それでも私はなぜ出馬するのか--  西川攻著

2012-03-30 18:08:44 | ● 改訂 日本海時代の首都実現に燃えて

大洲神社での乱闘事件

 

   第六章  (回想記 イ )

 

 三歳でおぼえた芸者ワルツ ・6・

 

 

自書●「改訂 日本海時代の首都実現に燃えて」

           <36>             

--それでも私はなぜ出馬するのか--   西川攻著

 

 

   第六章 (回想記 イ )

      三歳でおぼえた芸者ワルツ

 

 

     6・大洲神社での乱闘事件

 

 

 

 喧嘩の話ばかりで恐縮ですが、今回のそれは、いま迄までとは大きく違っていました。

 従来の1対1ではなく、結果的に6対20の闘いになったのです。

 事もあろうに、なんと中2の後輩連が卒業する我々3年生に対して6対6の喧嘩戦い挑戦の申し入れをしてきたのです。

 長幼の序という礼節を,歳の上下をもわきまえられぬ生意気さに、その話を聞いた私ははらわたが煮えくり返りました。

 「許せん!之は懲らしめておかなければならない正義だ」

と確信した次第です。

 3年の同期生と共に約束である6人で大洲神社に乗り込みました。

 しかし定刻になっての神社境内の気配がどうもおかしいのです。

 余りにも相手の予定人数を遥かに超えている空気が漂っていました。

 「出てこい!」、

するとまず予定人数分の6人が出てきました。

 「まだ隠れているだろう!出てこい!」

とこちらが怒鳴ると、ぞろぞろと出てくるではありませんか。

 相手を卑怯となじるより、怒りが爆発、大格闘へと突入しました。

 こちらが殴っている間にポトリと落ちた物を発見しました。

 後輩の連中は、素手だけでなくナイフや、チエ-ンを携帯してたのです。

 しかしさすがにそれを使う度胸はなかったようです。 

 「これはなんだ!」

 「こんなもの持ってきゃがって、この野郎!」

と一層われわれの怒りが爆発し、その気迫に圧倒されたのか、相手は一部の者を除き次第にちりちりばらばらになり逃げ去りました。

 このとき、喧嘩とは肉を切らせて骨を折る覚悟があるなら絶対に負ける事は無いという誤った、変な自信を持ったものである。

 後年大学1年のとき、酒席にて激しい口論となり外に出てやり合ったが、どうしたわけか、こちらのパンチは1発も決まらず、滅茶苦茶に殴られぱなしのさんざんな目にあった例がありました。

 相手がかつてボクシングチャンピオンだったことを知ったが、後の祭りでした。

 

 殴り合いの喧嘩等はもともと頭の悪いやつがやるものと相場が決まっているものであります。

 ちゃんとした人間が敢えてやるべき意味や価値があることではない無益なことなのです。

 

 話を元に戻しましょう。

 大洲神社での乱闘事件はその後、ひょんなことから高校試験に合格後も尾を引くことになりました。

 卒業してまもなく『高校に合格したら』と親との約束どうり、東京へ遊びに行くため、心踊りしながら出発の準備をしていた将に其の日に、警察から呼び出しがありました。

 事情聴取です。

 父に連れられ一緒に出頭同席しました。

 しかし私は東京行きが気がかりで、心はそちらの方でいっぱいでした。

 従って、早く出発したい一念で刑事が聞いた私のやった本当のことの全てを、話しました。

 しかし後輩連中が約束の人数をたがえた事、ナイフやチエ-ンを携帯していたことは一切一言も言わなかったものです。

 事件の翌日に担任の先生からも其のことで誰に誘われたのかを詰問されましたが、一切之も黙して語らずを押し通しました。

 蓋し、其の事が真の男としての自己の誇りと思っていたからです。

 にも拘らず後輩連の主犯格の父親が告発の手続きをとったことを知ったのは、高校入学して間もないときでした。

 それまで其のことを父は承知していて私には話さなかったわけで、家人のヒソヒソ話しで始めて聞いた次第です。

 卑怯千万というか、

 言語道断というべきか、

空いた口がふさがらないというのはこのことを言うのであろうと余りにもあきれかえって腹も立ちませんでした。

 彼は後年、言葉は悪いが妻を友人に寝取られるなどよい話は一つとしてを聞いたことがありません。

 当時の事が災いとなっているのかどうかは判らないことではありますが、

 彼は子供のころ男としての筋を大きく欠いていたことは誰も否定できない真実です。

 少なくとも私の父が仮にM君の親であった場合結果が軽くこのような子供同士の喧嘩に対しては決して告発する様なことはありえなかったであろうと思います。

 

 今考えてみると、なぜ告発に踏み切ったのか、なぜか他の力があったのではないかとの疑念さえ浮かんだものです。

 

 

 

 

平成24年3月30日

西川攻(さいかわおさむ)でした。

 

 


自書●「改訂 日本海時代の首都実現に燃えて」<35> --それでも私はなぜ出馬するのか--   西川攻著

2012-03-29 20:10:45 | ● 改訂 日本海時代の首都実現に燃えて

明日は明日の風が吹く

 

 

 

   第六章 (回想記 イ )

 

 三歳でおぼえた芸者ワルツ ・5・

自書●「改訂 日本海時代の首都実現に燃えて」

               <35>

--それでも私はなぜ出馬するのか--   西川攻著

 

 

      第六章 (回想記 イ )

        三歳でおぼえた芸者ワルツ

 

 

      5・明日は明日の風が吹く

 

 

 柏崎市立第三中学校は私の入学する数年前までは、生徒同士の暴力事件等が起きていました。

 おそらく市内中学の中ではガラがあまりよいとはいえない状況であり、今の三中とは異質の面がありました。

 しかし近年のような陰湿なそれとは異なり元気が余り過ぎる結果、抑えきれずに・・・といった傾向が強かったように思えます。

 私は卓球部に一年生のときから入部し、三年の卒業時には功労賞をもらったことは忘れられません。

 思い起こせばあの試合の時は緊張したし、決して負けられないと必死でした。

 2対2で自分の番となり私が勝てば上越大会の出場権を得られ、負ければその芽は絶たれるという場面でした。

 自然と応援のボルテ-ジも高まり、手に汗しセットは1対1となり、最後のセットで勝ったときの私に対しての激励と賞賛にはひどく感激したものです。

 そして卓球部に入ってよかったと実感したものです。

 しかし運動部とは大体そんなものかも知りませんが、先輩後輩のけじめみたいなものがありました。

 1年の時卓球部3年のキャップテンが1年生全員を2階に上がらせ、目を瞑らせておいて2,3年生全員にたいし、

 「1年で生意気な奴がいたら殴ってこい!」

と命令したことがありました。

 私の他に2,3殴られたものがいたようですが、私は2人に殴られました。

 その中の1人は、私の前にず-と、立ってはいるが殴るのに間があり、不振に思い私が薄めで見たらガタガタ震えていました。

 彼は震えながら殴ったが全然痛くもなにもなかったです。

 それ位の事なら殴る意味も必要もないのに・・・、と思ったものです。

 しかしそれが当時の運動部のせめても先輩・後輩間の掟みたいなものとしてあったのかもしれません。

 だが、余りにも幼稚すぎていてキャップテンであるU さんの頭を疑ったものです。

 少なくともその後卒業するまでは、そんな事を命令したり提案するものはいませんでした。

 しかし喧嘩の事で悔しくて悔しくて一睡も出来ない日がありました。

 それは、同級生のM君との闘いでした。

 原因はよくおぼえていませんが相手を軽く見てすぐ握り潰すことが出来ると思いやったわけです。

 しかし之がなかなかしぶとく勝負がつかないのです。

 そのうちに授業開始のベルが鳴り、引き分けで終わってしまった次第です。

 実に他愛のない事ではあります。 

 しかし当時は

 「あんな奴と引き分けになるなんてどういうことだ」

と悩み夜、フトンのなかに入っても眠れません。

 今考えればM君は漁師の息子で毎日よく家業を手伝い、力仕事で鍛えに鍛えたあげられてようです。

 理屈から考えれば簡単に勝負がつく相手ではなかったのかもしれません。

 それにしても当時の悔しい思いは大変なものであり、実にくだらない事に汲々としていたものです。

 しかし、やっと気を取り戻して眠る事が出来ました。

 それは当時、人気の的であった石原裕次郎の「明日は明日の風が吹く」という歌を口ずさみ唄いながら納得できたからです。

 もし咄嗟にその唄の存在を思い浮かべる事が出来なかったならば、

 翌日以降は随分不眠で悩まされたに違いありません。

 子供のころとは申せ、実に他愛もない事に頭を使ったものだと今さらながら痛感し反省し恥ずかしい事であったとつくづく思います。

 

 

 

平成24年3月29日

西川攻(さいかわおさむ)でした。

 

 

 

 

 


自書●「改訂 日本海時代の首都実現に燃えて」<34> -―それでも私はなぜ出馬するのか-―   西川攻著

2012-03-28 20:46:57 | ● 改訂 日本海時代の首都実現に燃えて

父親の素晴らしさを知ったある出来事

 

  第六章 (回想記 イ )

     三歳で覚えたた芸者ワルツ   

          ・4・

(当時の子供は身も心も健康体そのものであったような気がします。-大洲小グランドの下道にて-)

 

自書●「改訂 日本海時代の首都実現に燃えて」

           <34> 

--それでも私はなぜ出馬するのか--   西川攻著

 

 

第六章 (回想記 イ )

  三歳でおぼえた芸者ワルツ

 

 

4・父親の素晴らしさを知ったある出来事

 

 私の家に深夜泥棒が入ったことがありました。

 そのとき父が取り押さえましたが、私と同じくらいの子供であったとのことでした。

 深夜店先にある茶の間の部屋から父とその子がぼそぼそと話しているのに気付き目がさめ

「何だね、何かあったのかね」

と聞いた途端

「攻!なんでもね、でてくるな!」

 の烈火のごとく父の言葉が跳ね返ってきました。

 私はあまりにも激しい父の口調に怯み,その件について以後も父に問い合わせることが出来ませんでした。

 父が私に対してあんなに怒鳴ったことは一度もなかった故にいまだに印象深く残っています。

 

 わが子と同世代の子供が貧乏から文具用品を買えないが故の犯行であったことで父は不憫との思いが募ったのでしょう。

 父が子供を諭し彼を連れて家まで送っていったことことは覚えています。

 彼の将来を考えて、誰にも内緒にせんとする父の人情家としての真骨頂を遺憾なく見せ付けられた事件でした。

 

 人の不幸を見て黙って折れない父の性分は、時には節度なく家庭を不幸にする場合もあったようです。

 兄姉は、母の味方をしても決して父の味方をする事はなかったように思えます。

 自分の家庭を犠牲にしてまで人のために奔走するあまりにもお人好しの父に対しおそらく嫌悪さえ感じていたようです。

 しかし私は父は立派な人間であったと今でも確信しております。

 自分の子供や家庭だけを考え他のものには一切関知しないだけでなく、

 むしろ他者の飛躍の邪魔をするためにいかがわしい策を弄する例も私は身近に経験しております。

 

 見識の乏しい彼らには真の充実感を持って生きることは難しいでしょう。

 

 人情家が不幸になるのが当たり前の時世となったとは申せ、栄枯盛衰は世の習いと言われております。

 

 混迷が加速し、先の見ない不確定の時代です。

 勝負はこれからです。

 まだまだ私は正義心の強かった父のためにもがんばり抜き勝負を賭けなければなりません。

 

 金儲けの極めて下手な父、

 損得抜きで人の面倒を見たがる父、

 酒の好きな父、

 ユーモアに長けていた父、

 亡き父のひとつ一つが自らの哲学に基づくものであることを知ったのはつい最近になってからの事です。

 

 人の本質的評価は時が経過しなければできるものではありません。

 

 父の果たせなかった無念の十字架を背負いながら一日一生の意気に燃え、しかるべく人生に勝利を確保するため、更に精進したいと念じている今日この頃です。

 

 利害打算を超えた生き方をまっとう出来た父の偉大な生涯を胸に抱きつつ自らの人生を切り拓ければならないと考えております。

 

 ともすれば人間の行動の基準の裏に、駆け引きや思惑は付いて回るものです。

 

 しかし、 正々堂々と自然体で生きるだけの毅然とした勇気を持ちたいものです。

 

 

 

 

平成24年3月28日

西川攻(さいかわおさむ)でした。

 


自書●「改訂 日本海時代の首都実現に燃えて」<33>--それでも私はなぜ出馬するのか--  西川攻著 -

2012-03-27 21:57:09 | ● 改訂 日本海時代の首都実現に燃えて

小学校入学第1日目で大喧嘩

 

 

  第6章 (回想記 イ )

三歳でおぼえた芸者ワルツ ・3・

小学1年の遠足(最前列真ん中)

 

自書●「改訂 日本海時代の首都実現に燃えて]

 

           <33>

 --それでも私はなぜ出馬するのか--  西川攻著

 

 

 

   第六章 (回想記 イ )

     三歳でおぼえた芸者ワルツ

 

 

   3・小学校入学第一日目で大喧嘩

 

 

 私の実家は大洲小学校の入り口角にありました。

 学校は歩いて一分でいける距離にあったが故に、トイレも家でやり、また学校に戻るといった具合でした。

 聞くところによると、以前は校舎敷地も西川家の物だったということです。

 入学第一日目に幻灯をピカピカの一年生全員が真っ暗な部屋で見てました。

 ところが、自分のすぐ目の前にあまりにも大きい頭のやつがひとりいて障碍となっていました。

 私はその邪魔にとうとう耐え切れなくなって、「ジャマだ!」と言ってその頭をポカリと一発やってしまったのです。

 すぐさま「ナニオ-!」と言い返し、かかってきて、取っ組み合いの喧嘩になり騒ぎとなってしまいました。

 暗かったせいか、はたまたどうゆう行き違いからか相手の方が部屋から退去させられ、再び自分はみんなと一緒に幻灯を見ることが出来ました。

 しかし、いまだにその時の事の後ろめたいものがあります。

 おそらく相手はk君であったと思う。

 少なくとも彼は一年の中では、一番喧嘩が強く、特に一本けけ(けんけん)という遊び(一本足と片手でで相手を倒すもので、当時大洲小学校は休み時間は殆どそれに費やしていたように思える)、では彼の強さが目立ち右に出るものはいませんでした。 

 

 番神岬町・中浜・大久保の三町区を中心とし大洲小学区が成り立っております。 

 この地区はとりわけ日本海の荒海で育った魚師の家庭も多く、声が大きく荒っぽく、知らない人がこの地区に入ったとき、普通の会話をしていてもてっきり喧嘩してると勘違いされた例がたびたびであったと小学校で聞いたことがあります。

 それだけ厳しい風雪に耐えて戦後復興に向けて、みんな逞しく活動し生活し合っていた訳です。

 更に日本海のこの柏崎には敗戦したといえども、弱きを助け強きを挫く的な日本の道徳が残っていたような気がします。

 およそ現代のような陰湿ないじめや変質的な問題は、小学校時代にはなかったようでした。

 寧ろ逆に貧しいもの、弱いものに対し、みんなで協力し助け合っていこうとする清々しい流れがありました。

 仮に喧嘩しあったなかであっても、互いにカラッとして根に持たず、すこぶる明るい、ごく自然且つ純朴な心と行動が軸にあったようにおもえます。

 戦争に負けても心は豊かであり少なくとも友情やほほえましい光景たびたび見られたものです。

 物資は確かに不足していたものの人と人との心の絆を育んだ素晴らしい時代であったと思います。

 今日、核家族化の弊害が指摘されています。

 個人のわがままや、我利と私益だけを優先させる風潮が蔓延しているがゆえに、当時の家族制度の素晴らしい面を見直すだけのメリットは、十分あるような気がします。

 それぞれの長所を伸ばし助け、短所を補完する小組織としての大家族主義を超高齢化社会の弊害除去に向けて提唱しないわけにはいかない気がしてなりません。

 

 

 

平成24年3月27日

西川攻(さいかわおさむ)でした。