西川攻のブログ

西川攻が日本を斬る!!

☆小説 「孤高」⑮--闘うは、われ、ひとりなり--  西川攻著

2012-09-25 13:58:14 | ☆ 小説「孤高」

「祈る、女性外科医の正体」

 

 

 

   西川攻(さいかわおさむ)の小説

        「孤高」⑮

    --闘うは、われ、ひとりなり-- 

 

西川攻(さいかわおさむ)の小説

      「孤高」⑮

 --闘うは、われ、ひとりなり--

 

 

「祈る、女性外科医の正体」

 

 

 東京で開催された滝川剛造を講師に招いての外科学会終了後、各部会毎に分かれての会合が行われていた。

 ICG問題等検討懇談会では、剛造の肝いりもあって、裕樹の肝癌摘出不可能の当否をめぐって数々の症例が討議の俎上に上がっていた。

 席上、ただ一人、摘出可能を主張する長身のいかにも聡明で美貌を絵に描いたような女医が注目を浴びていた。

 あくまでも摘出手術をすべきとの確たる論証を提示、之を強力に裏づける新デ-タ-を武器に一歩も譲らなかった。

 結局は、この女性外科医の余りにも緻密で精確な訴えに出席者全員が納得し、賛意を表明することとなった。

 こうして裕樹の肝癌摘出可能との判定が学会でも決まったのである。

 彼女こそほかならぬ30年前の、あの天使のような少女、滝川遼子の名外科医として見事に成長した今日の姿であった。

 

 かくも真剣に彼女を駆り立てた決定的理由は3週間前の夜にあった。

 その日4件の手術をやり遂げた安堵と疲労が錯綜し、遼子は一刻も早く休息を求めて帰路を猛スピ-ドで車をとばしていた。

 夜景が美しい赤坂にある8階の広々としたマンションに帰宅するや否やべットに倒れこんだ。

 そのまま3時間程寝過ごしてしまっていた。

 その間、母、雪乃が癌で亡くなる前に病床でうわごとの様に「西園寺さん、ごめんなさい、許してください。」の光景の再現を何度も夢で見つつ魘されていた。

 そして突如、閃いたものがあり、眠りから覚めた。

 「母が死の直前まで忘れることができなかった西園寺さんと、

 30年前に私が父との約束で

医師会館に行く途中で出逢った西園寺さんと、

 ひょっとしたら同一人かもしれない、絶対そうに違いないわ!」そう確信した、瞬間、

 スッ!と ベッドから起き上がり、試しにインタ-ネットで

「西園寺裕樹」をそのとき初めて披いた。

 ブログの経歴欄には紛れもなく30年前に遼子が出会った裕樹の若かりし頃の写真が載っていた。

”やはりそうだったのね”と呟いた。

 引き続き「癌との闘病記」のブログに見入っている内に次第に

何故か遼子の眼に大粒の涙が一つ、また一つとこぼれ始めた。

 おもわず階下を見下ろすと赤坂のネオンさえも涙でくもっているかに見えた。

 

 裕樹のブログを見終える刻には遼子も漸く冷静さを取り戻していた。

 「母も心配していたように苦労なさっておられたのね、

西園寺さんの命は私が救ってさしあげます!

 母の供養のためにも・・・。」と固く固く心に誓った。

 

 そして唯一鍵がかかっている引き出しの中から

大切にしまっておいた彼女にとっての宝物であるペンダントを取り出した。

 それを、しっかりと両手で握り締め、激しく胸に当て、感極まったおし殺した低い声で、「西園寺さん!がんばって!」と必死に祈った。

 

   明くる日、裕樹の主治医が偶然同じ大学の医学部の先輩であることを調査で知った。

 遼子は寝食を忘れ毎日の如く主治医と連絡をとるなど何かに取り付かれたように精力的に動き回る日々が続いた。

 わずか5日間で病状の把握と今後の最適な対症療法を完璧に会得する迄に至っていた。

 それまでは全神経を「ICGと肝機能調査と研究」のみに集中し、余念は無かった。

 更に実父でもある滝川剛造の医学会に絶大な権威を有する政治力を駆使してICG懇談会の俎上に上げ肝癌摘出へと事を運んだのも遼子がこの夜に描いたシナリオに基づくものであった。

 

 同一人と知ったあの夜以降、片時もペンダントを肌身離すことは決してなかった。

 恰も裕樹の命を救うためのお守りの如く・・・。

 

   中には30年前の例の硬貨が一枚、なぜか遼子の一番大切な宝物の如く入っていた。

 

 

       次回は 「縁と絆が救った一命」 です。                       

 

 

平成24年9月25日

  西川攻(さいかわおさむ)でした。

 

 

 

 

 


自書●「改訂 日本海時代の首都実現に燃えて」 <69> -それでも私はなぜ出馬するのか-  西川攻著     

2012-09-17 17:06:22 | ● 改訂 日本海時代の首都実現に燃えて

   強力政治家不在の今こそ、出番

 

 

 第十章 我、日本の柱とならん!  ・7・

自書●「改訂 日本海時代の首都実現に燃えて」

          <69>

 --それでも私はなぜ出馬するのか--      西川攻著

 

 

 

 

  第十章 我、日本の柱とならん!

 

 

  7・強力政治家不在の今こそ、出番

 

 

 勝負師の迫力とは異なるにしても、ひとつに賭ける意気込みと緊張感を瞬時に集中させる殺気立つ雰囲気が政治家には時として必要です。

 然るに解決すべきを先送りし場当たりで調整的なことのみに終始する場面が多すぎます。

 汲々として御身を大切にする風潮と相俟って、ここ一番斬った、張ったの局面でさえも使命を貫く大胆な行動力と勇気を今の代議士は欠いているのです。 

 魂を奮い立たせるだけの毅然としたものを遥か彼方に忘れ去っているのです。

 これがまさしく今の永田町の実態です。

 国難が凄まじい速さで忍び寄よってる時だけに「極めて由々しい」の一語に尽きます。

 

 問題解決に向けての気迫もなんとしても果たすとの使命感も既成の政党・政治家から窺い知る事はとてもできません。

 

 目先のことやその場しのぎの言を弄して切り抜けることが彼らにとっては精一杯なのです。

 

 こんな輩が明日の日本を切り拓くビジョンや信念も況や哲学などは持ちあわせている訳がありません。

 

 例えその原因が民度の低さとマスコミの誤った煽動の結果の所産であったとしても、本来の政治家としての使命を全うする基礎資格を欠落した卑怯者集団に堕してしまっている事はまぎれもない事実です。

 見識層の大半はかれらに絶望してしまっていると思われます。

 2009年のマニフエスト合戦に終始した総選挙の結果はマスコミやそれに煽動された選挙民の余りにも表層的な選択眼を反映したお粗末な顔ぶれが顕著な結果になってしまいました。

 

 政権交代の選挙だったとは申せ、その実は、4年間の不作為責任の責めを負うことなく、今後4年間で実現のできるか否かも判らないもので争うなど核心から逃げてしまいました。

 不況にあえぐ国民の血税を浪費して政治ごっこをしてるに過ぎません。

 既得権に胡坐をかいた一蓮托生の卑怯者どうしが姑息な手段を弄したものでしかありませんでした。

 その結果、今日の国民不在の政治が闊歩し決められない政治が定着しつつあります。

 廃頽堕落の永田町の温床はまさに茲にあるのです。

 このように政党に異常な有利な特典を与えた形になっている現行選挙法の弊害はあらゆる局面で国益を損ねる結果を招来する元凶となっています。

 既成議員・政党は、真っ向勝負を恐れ、自己保全の目的のために社会の多様化の時代の流れに逆らい、更に支持政党なし層の増大化を黙殺できればとの狙いを持っております。

 之を裏付けるかのごとく政党中心の選挙の大義、名目を楯に、之を政治改革と称し強引に改ざんし続けております。

 今の政局一辺倒の一連の動きは本質的な問題にメスを入れられないわが国一般国民の選挙に対する民度の低さに由来しています。

 

 先ず解決すべきは、公明且つ公正な選挙を実践するに必要な選良を国政の舞台に押し上げるシステムを軸に法整備考えた改正を急ぐことが肝要と言えます。

 しかる後に、漸く、強力政治家の出番の到来となるわけです。

 

 率直に申し上げて、今、国会を構成しているメンバ-は、もともとその手続き上、国内外の政治を切り開く能力の有無の判断内容も選択肢も有権者に正しく与えずして議席を確保したに過ぎません。

 この視点に立脚する限り、実質的には無効と言っても差し支えありません。

 

 一票の格差の問題よりも根本である本問は、選挙の根源的なものであり、この過ちをこれ以上放置することは、確実に日本丸沈没の危機を早める事になると気付かなければなりません。

 にも拘らず、次期総選挙が切迫していても依然として従来の不毛の選挙の愚を繰り返す様相が濃厚で改革の兆しは一向に見えてきておりません。

 

 反面、日本は国難の今こそ、自主自立の逞しい国へと飛躍する時としなければなりません。

 

 見識ある人々が決起、結集し日本国民の底力を掘り起こし地殻変動を起し潜在している人材を発掘し、国政に進出させることが必要です。

 

 新しいリ-ダ-のもとでこの国を変えなければ、解決能力ゼロ評価の無能政治家・政党に席巻され、国民不在の政治を未来永劫に断ち切る事はできなくなってしまいます。

 

  あいも変わらず居座っている世襲、官僚、タレント、パフォ-マンス各議員は

 政治家としてのどうしても果たさなければとの使命感と信念を貫く気迫の面で無理があるとの認識が必要です。

 

彼らの役割は、既に過去のものであると考えるべきです。

   

 これから歩むべき自主自立の逞しい日本を創るには、地方の活力と底力を奮い立たせることが不可欠です。

 地方は今まで東京を始めとする都市中心の頭脳の手足としての役割しか担えず、その持てる強靭な潜在能力を永い間、封じ込められてきました。

 地方の人材が蜂起し日本を変える為あふれる解決能力発揮の時が到来したと見るべきです。所謂、出番がきたのです。

 

 同時に、報道機関には従来の如く、単なる興味度や勢いに押されて浮ついて誤った部分にのみスポットをあてるやりかたをこの機会に換えるとの猛省が求められます。

 更に、有権者に対し自立心を育み確固たる信念に基づき然るべき政治参画を切望しないわけには参りません。

 

 

  西川攻は、

政治社会に蔓延してるガン、

己自身を蝕んでいる癌、

 この二つがんの成敗・克服に全力投球。

 最期直前にいたるまで

残り少ない余命を

この国の未来に捧げる覚悟です!

 

 

 

 

 

 

 

平成24年9月23日

  西川攻(さいかわおさむ)でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


小説☆「孤高」 ⑭ ―闘うは、われ、ひとりなり- 西川攻著  

2012-09-07 10:09:08 | ☆ 小説「孤高」

 

       「死なせてはならぬ」

 

 

 

 

西川攻(さいかわおさむ)の小説        

       「孤高」⑭

  --闘うは、われ、ひとりなり--

 

 

    「 死なせてはならぬ」

 

 

 滝川剛造は居合わせた外科学会幹部の前で、今は亡き大谷医師会会長が生前よく口にしていた裕樹に対する将来大いなる期待を抱いていたことを話の種にしていた。

「先見性、決断力、ものごとを遠望できる抜群の能力、決して怯むことなき政治信念の持ち主」であること。

 更に「彼のような人物が総理になれる逞しく賢い日本の風土を創ることこそが自分のこの国に対する最後のご奉公であり、使命であると考えている」等を披瀝していた。

 大谷からの言葉を述懐する披瀝は続く

「以前、当時の総理が私に言ったことだが”大政治家や総理になれるか否かは、畜生道をもいかに平然とやっていけるか否かだ"と言った事がある。しかし、西園寺君には恐らくそんな立ち回りは出来まい。」

 「信念を貫く自尊心が強いだけに世間との乖離が拡大し、余計砂をかむような、血を吐くような凄まじい難行苦行の長くて辛い苦難の道を歩むことになるだろう。」

 「たとえいかなる時も、いかなる人間に対しても決して媚を売ることが生来的にできない、しないタイプだからね」

 「心身がぼろぼろになり、ひとりになって、命が枯れ果てるまで彼は変ずることなく一途に闘うと思う、それが心配でならない」

 「そこで滝川君にお願いしたい、私の亡き後、彼がまだ政治活動に意欲を以って挑まんとしていたならば、助けてやってくれたまえ。

 察するにそのときは、ストレスが蔓延し全身癌など蝕まれ、救うことは無理かもしれないが・・・。先のことだが私にはそんな気がしてならないんだ。」

 彼の存命中は、時代や国が彼の本質やビジョンを理解できるまでにはいたらないだろう・・・。彼の評価は棺を覆ってからでなければ世間は判らないかも知れない。

「それまでにこの国はどうなっているかわからないが、西園寺裕樹が生きている限り彼の力が絶対必要な時が日本にやってくるはずです。」 

「西園寺裕樹を死なせてはならない!頼んだよ、滝川君」

 滝川は大谷と同様、今の日本の政治を根底から立て直し、自立自尊の逞しい日本へと刷新することの必要性は痛いほど認識していた。

 加えて、世界的な名医でありながら政治臭の強い異質で稀有な存在であった。

 今回の滝川帰国の真相も「西園寺裕樹の命は私が助けなければ」との想いが高まり急遽日本にやってきたのである。

 それが主目的で外科学会の講演はそのついでに開催されたものであった。

 その裕樹の肝臓癌は、肝機能が著しく弱っており摘出手術が無理であるとの3回に亘る検査結果が出ており延命治療を余儀なくせざるを得ない状況下にあった。

 この時点以降、彼の病状やカルテは勿論、全ての詳細は注釈を添えて逐次東京の大学病院のある女性外科医を経由して滝川剛造の下に届いていたのである。

 突如予定を転換して肝癌摘出に踏み切った裏には滝川を筆頭とする著名な肝臓癌の名医の「やれる!」との明確な裏づけに基づいていたのであった。

 裕樹の「何かの力が及んでいるのではないか!?」との予感自体は正しく的中していたのである。

 

 

    次回は、「祈る、女性外科医の正体」です。

 

 

 

平成24年9月7日

  西川攻(さいかわおさむ)でした。