高校教科書、脱「ゆとり」でページ数11%増(読売新聞) - goo ニュース
「脱ゆとり」だとか、「学力テスト」など、
どうにも、この国の教育社会には、
『みんなと同じ』という、集団・集合主義という
ある特定の「枠」の中で、勝敗を追求しようとする
『競争原理』が真髄まで及んでいるようだ。
しかし、それじゃあ、
PISAやTIMSSなどなどの、
国際的な「学テ」には、
絶対に勝利は望めない。
なぜなら、
『枠』を超えた想像力や、工夫、発想性が、
これらの国際的なテストに求められているから。
自由で、いろいろな思考でないと、
今、国際社会で認められにくくなっている。
というよりも、
PISAや、TIMSSなどの点数に右往左往される。
それも、
いわば、点的な、極めつけの一部の評価でしかなく、
人間の多様性なんかが、それで評価できるはずもない。
これは、欧米などでは、確定された当たり前の話し。
何より、
「ゆとり教育」を理解できない教師。
「ゆとり」を感じれない、持てない教師。
「ゆとり」を遊びと、大間違いした教師。
同時に、保護者と教育委員会。
さらには、豊かな想像性に欠くメディアの報道。
これによって、本当の「ゆとり教育」を間違いきってしまった。
アメリカの教員が、「なんと愚かか」と、つぶやいた事があった。
当時の文部省の調査官などは、
「ゆとり」によって、
自分の課題を追求できる。
自分のテーマを探して、それに没頭できる。
インドアになった子どもがアトドアで自由闊達に遊べる。活動できる。
学校の教師が、自分自身の研究を進める事ができる。
だからこそ、
週休2日であり、
学校での教科内容を最低限として、
それ以上は、個々の学校での活動の自由度を大きくすると。
教科の内容を少なくし、基礎基本を最大重視し、
「総合的な学習」の導入。
ただ、あまりにも不幸だったのが、
どの学校の教師も、
教科書と指導書が無いと授業ができない。
という、、あまりにもお粗末な現実があった。
だから、マニュアルが存在しないと、
どうしようもできない。
そんな学校現場になってしまっている。
それは、簡単に言えば、
進化も、進歩も棄てた学校の教師ということになる。
主権者として、
この国の国民が、何を未来に求めるのか
そこにこそ、重大なポイントがあるが、
『マニュアル』信仰に没頭しきったこの国の国民が、
結局、変化するのも、
最終的には、「教育の力」でしかないのだが。