土佐っぽ

四国は土佐国のもんが、日々の中で思いゆう事や、得手勝手な考えを書きよります。どうぞよろしく。

<社会意識調査>「悪い方向に」教育がトップ 内閣府発表

2007年03月31日 23時23分04秒 | Weblog
これが、どういうふうに活用され、
もしかして、大事になりはしないかと、、危惧する。

そもそも、、教育が悪い方向に向かう、、
それはどういう方向だろうか?

この国の教育の理想や理念が明確になってもいない現状で、
いや、、
それは、過去の60年間はあった。
間違いなくあった。

改正前の、教育基本法。

ここには、明確な理想と理念が明記されていた。
ただ、
その理想を無視し、
その理念を踏みにじり、、
正反対の教育を一生懸命したたかにしてきた。

だから、
イジメ、履修、自死、授業崩壊、
学力、受験、、などなど、、
そんな「今」がある。

もしも、その現象だけを取り上げて、
ある種の感情的な部分だけで、、
だから、、
悪い方向、、?
なんだとすれば、
本当に、この国の民は、
教育を真剣に考えていないという証拠になる。

なぜ、いじめが、、
なぜ、履修が、
なぜ、自死が、、
そのそれぞれの課題の根元を考えずに、、
短絡的発想や、だれかの情報だけで、
そうだ、そうだ、、悪いんだ、、と、
するのなら、、
どんなに、何を変えようとも、
さらに加速度的に「悪い方向」に転がるだけだろう。。

それとも、

教育基本法の改正、
学校教育への過大な期待、
教師批判、
徳育の新設、
自由と平等から掛け離れている、、教育実態、、

だから、、
悪い方向???

だとするならば、、
今度の選挙で、、
明確に、その意志を政府に突き付ける必要があるだろう。

その悪いの内容で、
今の政府のしていることが、、

大正解か、、
大きな間違いか、、

ほんとうに、、この国の将来をどういう方向に向かせるか、、
その土壇場じゃあないかと、、思う。
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雑誌「世界」への投稿・・・・  3

2007年03月31日 17時35分48秒 | Weblog
格差社会が顕著になり深刻化している。

受験指導と部活動で学校教育が格差を生み出し拡大してきた要素はかなりある。「偉い存在」として生徒の上位に常にいたい教師(監督)が
「勝つ」事を常に求めてきたからだ。
総合で教師自身の無力さや無知が暴露されるから総合を拒否し、
「褒美と罰」による教育を強行する。

人権尊重を基調とした民主主義の実現をめざし、
日本国憲法の理想や理念を実現させる望ましい公民を育てる
という事を学校教育の目的としたとき、
問題を見いだしそれの解決策を模索し実行できる人間の育成こそが
教育に求められるはずである。

その実現は、
人権意識が高く平和を求め憲法に即した教育観をもつ教員、
それをめざす教育者にのみ可能なのであって、
試合に勝つための監督では実現できないのである。
だから、居座れるうちは居座ろうと思っている。


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雑誌「世界」への投稿・・・・  2

2007年03月31日 17時34分17秒 | Weblog
問題解決力や「考える力」の不足が問われ、
主体的学びを確実にしようと総合的な学習を核にした
「ゆとり教育」が実施されてきた。

それが、今「低学力だから」と疑問視され
授業時数の増加や「ゆとり」の見直しが論議されている。
教師攻撃も盛大だ。

何をもって「学力」とし、
「学力」とは何かを十分に論議しないで、
テストの数字に躍らされてはいないか。
「騙されないため、受験に勝つため」に学校を塾・予備校化する事は学校教育の崩壊だと思う。

学校のすべての取り組や活動には意味があり理由がある。
年度当初、学級担任は「学級開き」で、
こんな学級にしたいという方針や自己紹介等で学級経営の色を生徒に示す。
教科担任は最初の授業で教科の目的・目標と自己紹介等をする。
その際、教科の目的や学習目標を明確にわかりやすく説明できなければ、
教科を指導する資格が問われるであろう。
どんな教育的効果ばありなぜ学ぶのかを自分なりの目標を持ち説明できることが、教育力であり教師力であろうと思うからだ。

国立系大学教育学部の学生の教育実習を担当した時、
教員よりは監督をめざしたい学生の存在が多かったのは嫌な納得があった。
教員志望の主な理由が「部活動の指導をしたいから」と言う。
中学校から大学まで部活動を通して礼儀や集団での満足を感じたからだそうだ。
実習の事前面談で、
社会で注目すべき出来事やニュースはないかと聞いたが
「あの、新聞を読んでないので」
「テレビは見ますがニュースは見ないので」との反応。
そこで「雑誌は、世界などは」と聞くと、
全員が「知りません。読んだ事はありません」と応えた。
彼らの教科は社会科である。
1980年頃に劣等学生だった私でさえも、
後に廃刊になった朝日ジャーナルをよく読んだものだ。
教育特集の記事は自分自身の進路を決定する大きな材料になったし、
社会のあらゆる出来事について考えさせられた。
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雑誌「世界」への投稿・・・・  1

2007年03月31日 17時32分06秒 | Weblog
生徒指導や集団づくりで著名な講師を招いての研修会がある学校であった。
教員を班に分けた講師は
「今更ですが、生徒に『なぜ勉強をしないといけないのか?』と聞かれたらどんな返答をしますか」と、問いかけた。
我が班で、「講師の著作を読んでおけば答えがあったのに」と同僚が言う。
私は、講師が喜ぶであろう解答を捜し出すよりは自分たちの日々の願いを出し合おうと言い意見をまとめた。

発表になり、
「将来の為」
「受験という壁を乗り越える為」
「社会の為」等がで、
我が班は
「自分自身と周りの人が幸せになるため」
と発表した。

講師は
「どれも当り前な意見です、難しく考え過ぎです。
単純な話しです。『騙されないようにするためだ』と生徒に言えばいいんです。」と笑顔で言った。
さらに「幸せとかは今の生徒には理解できないんです、詐欺などの具体例を言って、騙されるのは嫌だろう。腹も立つ。だから勉強しろと言う方が効果的なんです」と言う。
研究主任が計画した校内研であったが、私は非常に気分が悪くなった。
騙されない為に勉強するという暴力的発想で教育を語る講師にである。

旧帝大の講義で、
試験の出題内容を聞く学生が増加し、
講義中の小テストには集中するという。
講義には興味を示さない学生が一枚の紙に一心不乱に取り組む姿は、
中学校の一場面をコピーしたような状態だろう。
生徒や教師が与えられた事だけを一生懸命に取り組む事が当たり前になる教育現場。
考える授業を行う為の教材教具の研究よりも受験に効果的なプリントを市販の出版物を参考にして作成する事を優先し、そんな事に満足する生徒と教師。
一心不乱に取り組む生徒をみて、それが「いい子」なんだと認識してしまう。小テストやプリント学習を否定するつもりは無いが、それをもって生徒の自主的学習とする事には反論したいし、それが授業とは言い難いと思う。
生徒にとっても教師にとっても「思考を排除した学校」になったという不安が益々強くなる。
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鬱病の教師

2007年03月31日 17時28分16秒 | Weblog
ここ10年、自死を選ぶしかない人が増加して、
3万人を越えたのが数年以上も前。

交通事故に関しては、
政府の熱心な取り組みで、減少し、
とうとう、、1万人を切った。
これは、これですごくいいこと。

ただ教師の鬱による自死者ってのは、
明確な統計が無いので、
明確には言えないが、
しかし、、少なくはない人だろうと思う。

今、
教師を責めれば、
教育を酷評すれば、
世の中が変わるとでも感じられる、、
そんな論評が、あちこちから意図の有無を問わず、出だした。

たしかに、教師のレベルが低いのは納得できるし、
自分自身も、そうだろうと思う。

ただ、世の中の攻撃と同時に、
あらゆる教育が学校におっかぶさっているのも事実。

教師は、
教科の授業に学級の経営や公務分掌などのそれぞれの役割。
さらには、地域の行事への参加や保護者との円滑なコミュニケーション。
生徒の問題行動や心のケア、さらには、保護者のそれ。
そして、
まあ、、これをメインにした教師じゃない、監督も、、多いが、
部活動の指導。

地域も、保護者も、、そして生徒も、
点数を多く取ることが素晴らしいと認識している。

人間的なよさや素敵な面ではなく、、。

試合の点数と、
試験の点数、、

これだけが、最上だという、、。

それは、もちろん、学校がそうしてきた歴史があるが、、

そうさせられてきた、、という歴史もある。

誰がわるいとか、どうとかではなく、、

学校という場が、勝ち負けのみで語られてしまう、
そんな場所になったのは、間違いないだろう。

その責任は、やはり、教師にある。

その中で、
強烈で、強硬で、、
分限や、職命などで強制する行政や管理職に
おどされる、、教師が、自死を選ぶのは、、
必然とも言えようか、、。

給料や賞与などで、、大きな差を付け、
体調不良でも休めず、無理をするしかない、、毎日。

週に28~30時間の総授業時数の中で、
多くは、20時間の授業をおこなっている。

通常、1時間の授業を行うには、その3倍の授業研究が必要というが、
そうであれば、最低でも60時間。
物理的に、充実した授業を行う事は厳しいし、
それに、生徒の問題行動や心のケアなど、
さらには、日々の事務的処理などを含めれば、
週40時間なんて、、ほとんど厳しいであろう。

その中で、世の中から攻撃されつつも、、
目の前の児童・生徒によかれと、
最上のものを模索しつつ取り組む。

鬱状態の教員が、他の業種に比較して多いのは、、
これも、当然であろうし、
自死を選ばざるをえない、、人、、も、、。

既に、この国の教育は、崩壊している。

そろそろ、誰かが、問題意識を持って、
何とかしようと、、行動に移してもいいのではないか、、。
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鬱病教師のための「復帰サポートシステム」

2007年03月27日 21時04分56秒 | Weblog
多分、ほとんどの都道府県に、名称の差さえあれ、
鬱病、鬱症状、うつ、、など、
精神疾患による病気で休職した教員の職場復帰に関する強制的な取り組みがあるだろう。
文科省による基本システムを、都道府県の教育委員会が、それなりに独自性?をだしてつくりあげたシステム。

高知県では、、、

「復帰サポートシステム」という。

県教委作成のパンフには、

長い療養期間から、いきなり通常の職務をするには、不安が大きい場合があると思います。そのことが原因となって、症状が重い場合は再発してしまうこともあります。
 職場復帰サポートシステムは、心や体の働きを学校生活に徐々に慣らす期間を取り、職場や職務への適応能力の復元を図り、職場復帰前に復帰への不安を少なくしスムーズな職場復帰をおこなうための制度です。

と、書いている。
さて、その実態はどうだろうか。

結局は、
委員会(雇用者)による、「復帰審査システム」である事は間違いない。

その教員の病的症状は、精神科なりの専門医による診断で判断する。
職場を離れるのがいいのなら、、自宅療養や入院などの診断書がでる。

そして、一定期間以上休んだ場合、このシステムが強制的に行われるが、
その内容は、
休職中(基本は無給、保障無し)に、2週間実施される。

最初の1週間:半日程度学校に行き、職場の雰囲気に熟れる。
次の1週間:終日職場にいて、授業などに参加する。
必要に応じて、校長などとの面談をする。

そして、終了後、校長の日誌と意見書が県に提出される。
県教委は、認定した、
心の健康対策委員会(学識者と専門医で構成)
によりその教員が復職可能かどうかを判断させ、最終的には復職となる。

ただ、問題は、
その判断が、主治医ではなく、県教委指定の医師と、学識者(校長など)が短時間(20分)の面接で判断すると言うことだ。
校長の意見書や日誌も参考にはするだろう。
もちろん、そこに、不要だと書けば、、当然復職は無理。

主治医が、復職可能との診断をだしても、
委員会がダメだと判断すれば、それは、、病気が回復しておらず、まだまだ加療が必要だという、、不可思議な結論になるという。。
そこに、問題と疑問を感じる。

矛盾している。
主治医も精神科医。
県教委指定の専門医も、同じく精神科医。
その両者による食い違い。

風邪などは、治療方針に大差ないだろうが、
鬱状態の診断と治療方針や治療方法などは、
面接や面談を繰り返しつつ行うはず。

それを、一回の初対面の面接で、決定するのは、どうにも不自然でしかない。

結局は、東京などが熱心に取り組むように、
無能で病気になるような者は、教育現場には不要なんだ。。。という、
そういう発想でしかないのが、見えかくれして、、

強者の論理のみで教育を行うという、、暴力的教育観のみが、、
あるようだ。

すべての人が幸せになり、そして、平等な生活をおくる権利があるはずの、、
この国で、差別的取り組みが当たり前にまかり通る、、実態。

亡国への道を、、加速度的に、、、突き進んでいるようだ。
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鬱症状と教育(鬱病に苦しむ教師)

2007年03月27日 20時40分59秒 | Weblog
教育そのものが、鬱状態だと思うが、
実は、
多くの先生が鬱で苦しんでいる。
実数が無いので、
はっきりと言えないが、自死を選んでしまった、、
そんな先生も必ずいるだろう。

学校のすべての取り組みや活動には意味があり、
それぞれ何らかの教育的効果が期待できるのは、、
当たり前だろうと思う。

ただ、その教育的効果をしっかり見据えて、
それにどれだけの意味があるのか、、、を、
説明でき、実践する事のできる教員が、
どんどん減少しつつあるような気がする。

学校は、
暴力的支配の中に入り、、
その中で、強者であろうともがく教員が増加しだした。

教室では、絶対的力を生徒に向け、
結局は、生徒から敬遠される。

生徒と自分とを同じ平等な人間としてみれない、
そういう社会では、
どうしても、
暴力的支配に疑問を持ち、反対する人は、
攻撃の対称にされる。
そこから、、
鬱症状がではじめ、、病気休職、、
さらには、退職。
最悪、、自死。

そんな悲惨で腹立たしい実態になってしまう。

熱心で、元気で、、
そして、生徒を一生懸命思い行動してきた、、
そんな先生が、、、、ウツに、、、。

などと、聞くが、
それは実は、、往々にみられる現象ではないか。

管理職は、給料の格差を盾にとり、、イジメに近い管理をしようとする。
教師は、受験や部活で勝ち組をつくりだしたく、、奔走する。

本来の教育を目指し、憲法や旧基本法の理念を尊重しつつ、
人権尊重を基調とした公民の育成に努力する教員は、、、
ある種の淘汰を受ける。

そして、、ウツ状態になり、、、

学校そのものが、慢性的な鬱であるのに、
行政を頂点とした教育活動そのものが非常に危険な状況である。

鬱は「心の風邪」と言うが、、、
すでに、
鬱は「心の癌」になってしまった。

学校も、末期の癌状態であろう。
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責任の所在の曖昧さ(リスクシェアパートナー)

2007年03月20日 17時01分59秒 | Weblog
ボンバルディア機が車輪トラブル、手動で着陸 熊本空港(朝日新聞) - goo ニュース


高知でのボンバルの着陸では、
ケガをする人はいなかったが、
しかし、
メンタルな面でのケガは、皆無とは言えないであろう。

国や行政の政策では、、
死人がでなけりゃ、、ってのが、よくある。

危ない道路、
危ない公園、
危ない施設、
危ない・・・・・

どうも、ボンバルで死者が出て初めて、
政府は、航空各社に使用禁止命令を出すのかもしれない。。。

しかし、、
このボンバル、、

旧日商岩井の企業、、
「双日」が総代理店で輸入販売している。
グラマン・ダグラス事件、、を記憶した人も少ないだろうが、、
政権党の誰かが、、これの輸入に関係していないはずがない。
当然、許認可権を持つどこぞの人達も、、、。
さらには、
三菱重工も、
この機体の製造には大きく関係している。

となれば、
莫大な利害が、この飛行機に関係していると、、いう事だ。

人の命よりも、、金が、、というのは、
今に始まったことじゃあないが、
しかし、

選択肢の無いボンバルしか使えない、、
高知県民にとって、、
これが、どれだけの問題か、、

結局、格差の固定化や拡大で、アグラをかく、
多くの人達にとって、、地方などは、どうでもいいという、、
そんな声がビシビシ聞こえてくる。

言いたい放題の政治家、
儲けたい放題の企業、
投票さえしない、、主権者。

もっと自分と世の中の事を真剣に考え、
責任ある行動や考えができる、、
そこが、必要だと、、思うのだが、、、、、。


今回も、、だれも責任を感じずに、、
そのまま、、、うやむやに、、なりそうだ。
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自衛隊と保育所

2007年03月19日 19時46分08秒 | Weblog
丸ノ内の高級官僚の宿舎はあっても、、
国会内に、そのような保育施設はあるだろうか?
石原独裁都政にあって、
東京都庁内に、専用保育園があるだろうか、、?
悲惨な状況にある、夕張に、、
職員専用の保育所があるだろうか、、?
もちろん、、
ここ、
高知県庁内にも、
どの市町村庁内にも、、
そんな職員専用の保育所などは無い。

国の安全をまもる。
(国体をまもるという意味ではそれこそ死に物狂いで)
国民の生命財産をまもる。。
(戦争でそれがまもられた歴史は皆無)

その重要な任務を持つ、、
軍隊にだけ、、
専用の保育施設という、、。

ま、まさか、、
保育料は、、タダじゃああるまい。

都市と地方の格差。
大企業と零細企業の格差。
あらゆる社会の中にどんどん固定化される格差がある
中で、、
こうまでして、、
軍隊を優遇する、、、
その神経が、異常としか言いようが無い。


あ、

教師のヒガミですよ。
あらゆる場所で、、
あらゆる機会で、、
攻撃され、責められる、、、
立場と、、

命をかけて、、と、
讃えられる、、
軍人と、、、
そりゃ、、

ヒガミもします。

まあ、、教師は、責められるだけの理由がありますからね。

なにせ、
この国の公務員の中で、、、
最も、主権者に近く、
主権者と日々365日。
24時間、、、
完全フル操業なんですから、、
特に、、中学校の教員ってやつは、、。

保育園に迎えに行くだけでも、、
保護者に文句を言われたりする。。
でも、
ガマン、、ガマン、、、、。

ネ。

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「正義」という凶々しさ

2007年03月18日 21時55分29秒 | Weblog
実は、この、、
正義って言葉、、
すごい、嫌いながです。

本当は、
これは、非常に大事だってのはわかってはいる、

けれども、、
しかし、、
権力を握った人間が、
いとも簡単に、
自分のエゴを通すために、
この「正義」を大上段に使いすぎる。

だから、、
だから、、

嫌いながです。

言葉に、罪は無い。
そうです、そのとおり。

けど、、

正義は、

『恐怖を予防するための道具』であるはず、、
本来、、、、
恐怖は、心の内側にしか存在しない。
だから、、
正義は過去と未来のためにしか使えないはず、、

なんか、、「正義」を振りかざして、
バッサ、、バッサ、、、切り取る人が、、
バッサ、、バッサ、、、切り取る事が、、

多すぎるような、、
切り取って、、慰めにしているだけの

人、
事、

どうも、「正義」の凶々に飲み込まれた人が、、
多すぎる。

「正義」を大上段にして振りかざすより、
側にいて、、
一緒にそこにいて、、
「友達」で、、いる。
同じ場所で、
同じ時間を、、
一緒に、、過ごす。

それが、どれだけ、
こころを平安にして、
こころを癒して、、

どれだけ、、
素敵な出来事をうみだすか、、

人を攻撃する、、

何か、
なにか、、

間違っていませんか???????

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