人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

描写と説明について

2013-03-24 20:52:35 | 国語教育と文学
 小学校や中学校の頃、作文や読書感想文において、「思ったことを思ったまま書きなさい」と指導された記憶はありませんか? 
 私はこれ、どうしても理解できなくて、だって、素直に思ったことを思ったままに書いたら、どう考えても求められているものと違うものになるのに、でも、だからと言ってどう書けばよいのか分からなかったので。
 これ、今思うと、「説明するな描写しろ」ってことだったんですね。私たちは無意識のうちに、「私小説の書き方」を指導されていたわけです。

 さて、今日は研究テーマの3つ目。描写と説明について、国語教育と新人賞メディアとの関係を考えます。
 たぶん、綴り方(作文)教育における「思ったことを思ったままに書きなさい」的なものと、昭和前半辺りの文芸との関係は既に考察されていると思うのですが、私が対象としたいのは、もっと最近の話。「小説の書き方」「新人賞のとり方」的な本がたくさん出版される時代のこと、そして、受験産業が発展し出した頃の話です。
 小説の書き方本で、必ず言われるのが、「説明するな描写しろ」ということ。「…と書かずに…と感じさせるように書きなさい」という、あれです。
 一方で、国語の受験問題で必ず出題されるのが、「傍線部の登場人物の心情について、説明しなさい」というもの。このふたつをよぅーく眺めて見てください。何か、関連があると思いませんか。
 つまり、規範的な小説においては、登場人物の心情は説明されず、描写されるのです。一方で、その「描写」を「説明」させるのが、国語教育。だから、この2つには共犯関係があると言えます。
 「思ったことを思ったままに書く」→「…と書かずに…と感じさせるように書く」への変化は、書くことの視点が書き手から読み手へとシフトしていて、その原因を考察してゆけば何か出てくると思うのですが。

 と、だいたいこんな感じですが、この研究、ちょっと面倒なんですよね。「小説の書き方」本+国語の受験参考書を、たくさん集めて目を通さなければいけないので。

 あと、ピンポイントで細かいところでは、『無名抄』の国語教育における扱われ方を考察したいと思っています。
 『無明抄』には俊恵が藤原俊成に、自分(俊成)の歌の中でどれが一番良いと思うか尋ねる。すると俊成は「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」という歌が第一の歌だと言い、世間の人が「面影に花の姿を先立てゝ幾重越え来ぬ峰の白雲」を優れているものとする理由が分からないと言う。その後俊恵は私(=鴨長明)にこっそりと言ったのだった。

 「彼の歌は、「身にしみて」と云ふ腰の句のいみじう無念に覚ゆるなり。これ程になりぬる歌は、景気をいひ流して、たゞ空に身にしみけんかしと思はせたるこそ、心にくくも優にも侍れ。いみじういひもて行きて、歌の詮とすべきふしをさはといひ現したれば、むげにこと浅くなりぬる」

 という部分があるんですよね。これ、いくつかの高校の国語教科書にも採られているらしいのですが、「説明するな描写しろ」ってことですよね。要するに。「身にしみて」と言わずに読み手にああ、身にしみたんだなあ、と思わせるのがいい。歌の要となる部分を、はっきりと言い表したから、浅い感じがする…、というのだから。
 国語教科書にも採られているものなので、教科書ガイド的なものを参照することで、扱われ方を探ることができると思うのですが。今そういうものを簡単に目にすることの出来る環境にないので、まだ手をつけてません。

補遺6『日蝕』

2013-03-23 21:41:06 | 書評(病の金貨)
 「病の金貨」補遺の6つ目は『日蝕』です。これで最後。
 佐藤亜紀『鏡の影』との関連や、錬金術関係で『黒の過程』ともプロット的な共通性はあるので拾ったのですが。『日蝕』はプロット的に効率のよい展開をしていて、表現と表現が連鎖して意味を生み出すような動的な展開はしていません。だから、本シリーズの目的とはそぐわないかな、と今では思っています。
 今考えると、考察に入れたいのは、乙一の「石ノ目」。乙一はわりと作品の出来にばらつきがあって信用出来ないのですが、「石ノ目」は良かった。泉鏡花的な作品世界の作り方は、山尾悠子とも比較したいところですし、「石」のもつ象徴性は、本シリーズで一貫して追いかけてきたところです。気が向いたらなにか書くかもしれません。


白紙の過程(平野啓一郎『日蝕』1998年)

 これは、錬金術を探求する修道士のレポートという体で書かれた小説である。この糞真面目な修道士は、女と関わることもないが、探求の過程において、ヘルマフロディートや巨人という、錬金術的定番キャラクターを発見する。ヘルマフロディートが火刑に処された跡から、修道士は一塊の金を発見するのであるが、肝心の場面は数ページに渡る空白で満たされている。
 この巨大な空白を火刑の炎が取り巻き、それはほの暗い洞窟の奥につながっている。その洞窟は村を二分する川を底辺とする直角三角形の頂点である森の奥深くにある。この空白は日蝕中に広場で燃やされて黄金となったことが示される。そして番の巨人の登場。旅のきっかけになった『ヘルメス選集』の探求。物語はまっすぐに、要領よく、テーマの中心に突き進んでゆく。心置きなく長雨の晴れ間に燃やしてしまう。が、女も人形も登場しない。それはヘルマフロディートにとって、むしろ廻りくどいものだから。何も結合することはない、巨人はオプションに過ぎない、解答はあらかじめ用意されている。
 その解答が白紙である以上、私にはもう語ることはない。

本文引用について:平野啓一郎『日蝕』新潮社、1998年。

 例の「盗作疑惑」についてちょっと触れておきます。たぶん本人にしか分からない事情がおありでしょうから、私が推測で適当なことをいうのは失礼にあたると思います。ひとつ言えるのは、確かに現在の出版状況は、ひとつの本が事実上の絶版状態(在庫品切れ、再販未定)になるのが早すぎる。どのような本が売れるかということも、今や誰にも予測がつかないことですから、恣意的な判断基準にならざるをえない。そういう恣意的な判断基準が権力を持つ状況なのかな、ということです。


 「病の金貨」には、長い長いあとがきがあります。若いときに思ったことを思ったままに書いたものなので、若干気恥ずかしく、そのままを載せることはしませんが、要約すれば次のようなこと。
1.小説の世界は言葉でできている。
2.表現と表現が連鎖して、意味を持つ。
3.ジャンルにとらわれるのではなく、小説の表現同士の動的な関わりを見出すことが重要。

1と2に関しては、さんざん書いてきたことだと思うので、もう書きません。
3に関しては、「ジャンル」の定義をどうするか、掲載誌・レーベルなどの外的情報を判断基準にするのか、それとも読みによってしか判断できないような抽象的な定義づけを行うのかということが、ひとつクリティカルポイントになると思います。だから、こういうことを言うためには前段階の準備が必要。複数の作品間での表現の動的なつながりは、インターテクスチュアリティというタームで言えるかもしれないです。

こうやって、約10年前に書いた文章を、ほぼ修正なしでアップしてきたわけですが、全部あげてみて思ったのが、意外と悪くないな…、ということ。いや、説明不足で全然わけ分からない部分も多かったですが。『球形の季節』の部分とか、あらすじなど説明して少し手を加えれば商品として流通してもおかしくない、と思った。


 

わんこちゃんのこと。

2013-03-23 20:56:01 | 犬・猫関連

 
 今日は子犬ちゃんがいないので、うちのなかが火が消えたように静か。
 今回は訓練に出しただけで(訓練に出すのははじめてですが)いずれ帰ってくるのが分かってるけど、子犬ちゃんが里親さんに貰われていったときはいつも、寂しい思いをするものです。心のなかにぽっかり穴が開いたような、という比喩がそのまま。うちに残ってしまうと困るし、縁があって、良い里親さんが見つかったら、それ以上嬉しいことはないはずなんですが。それまで大事に育てていたものが突然いなくなるというのは、すごく寂しい。こんなことずっと続けてたら、私病気になるな、と思う。

 いま、うちには10匹の犬がいます私の家族。里親探しなどしていて、残ってしまった犬がほとんど。自分で捕獲して、自分で里親探しをする場合は、できるだけ里親さんを探しやすいように早い段階で捕獲するのですが、他の人が捕獲したのがうちに連れて来られた場合などは、捕獲する人に焦りがないからか、あるいは何も考えていないのか、ぎりぎりもう明日保健所に連れて行かれるような段階になってようやく捕獲するような場合も多い。そういう場合、大きくなってるし、人にいじめられた経験を重ねてしまうので、里親さんに貰ってもらうのは難しい。
 ボランティアでやっているというと、時間的にも金銭的にも余裕がある人がやっているんだと思われがちですが、正直うちはいっぱいいっぱいです。なにしろ、人間二人に犬10匹なんで、どう考えても厳しい。大きな組織に属しているわけでもないし、費用は持ち出しですが、お金以上に心労が大きい。私も、フルタイムのお仕事はとてもじゃないけど入れられないし、今のパートタイムのお仕事でも充分無理だと思ってます…。こんな状況でなかったら、たぶん名古屋かどこかで仕事をしている(ひょっとしたら韓国とか中国で日本語教師してるかもしれないし)と思いますし。

 たぶん、一度失われてしまった命は決して戻ってこない、というのが大きいんでしょうね。だから、縁があって自分のところに持ってこられた犬はほうっておくことが出来ない。自分が無視したから死んだんだって思うのは、耐えられないですから。

 しつけ教室の先生には、縁があって自分の犬になったのだから、大変だと思っているとそれが通じる、今いる犬とより良く暮らす方法を考えなさいと言われましたが、そりゃあそうだけどいっぱいいっぱいなのは事実。そりゃあ、いくら10匹犬がいようと、亡くなったときにはありがとう、と言って見送りましたよ(あ、でもゆきちゃんが亡くなったときは、もうちょっと頑張って!って引き止めちゃったけど、私。だってその時母が不在だったから。ちょうど1日前に出産した姉のところに行っていて)。自分がつくったわけでもないのに縁があって自分の家族になった犬だから、神様から預かった命。でも、それとこれとは別の問題。

 私が今住んでいる自治体は、避妊手術の助成金も出ないし、避妊・去勢手術を飼い主さんに勧めることもしていません。保健所での殺処分頭数でもワーストを争ってましたし。ボランティアの活動などがあって、多少は改善されたと言っても、結局一部の人達に負担がかかっているだけなのではないかという気がします。私たち一家がここに住んでいなければ、こんなに犬が増えることもなかっただろう、どこか遠い街の、可哀想なお話で済んでしまったかも、という気がします。もちろん都会には都会の、例えば悪質な業者さんがいるとか、問題があるとは思うのですが。
 うどん県も瀬戸内国際芸術祭もいいけど、外からの視線を気にするんだったら、動物行政に関しても、せめて全国並みになってほしいなあ、と思います。

 人間の場合でも、むかしむかしは間引きや子捨てが横行していました。それが今のように、少しだけ子どもをつくって、大事に大事に育てるような文化に変わってきた。だから、犬や猫の場合でも、ちょっとずつ、いつかは変わらないでもないとは思います。ただその前に、うちが保たない。母はともかく、私は自分の人生も、どうにかできていないのだから。大事な子どもののすけちゃんをかかえて、どうにか人生を切り開いていけるのか、大変不安です。

くびわ問題、訓練所

2013-03-22 19:52:13 | 犬・猫関連
 子犬ちゃんが最初のワクチン接種をした時につけてもらった首輪が、首を触ると嫌がって噛みそうにするのでゆるめられないでいるうちに、きつきつになってどうしようもなくなってしまったので、今日、獣医さん(最初にワクチン接種をしたのとは別の所)に行ってのけてもらったそうです。私は仕事だったので、手伝えなかったのですが。
 ひっくりかえって甘えたりはしてたので、ちょっと触ったり引っ張ったりする程度なら出来るんですが、穴に金具を通すタイプの首輪だったので、なかなか抜けない。馴れない犬の場合、はずれてしまうのが怖くてパチンと留めるタイプの首輪を避けてしまいがちですが、…こういう場合もあるんですね。

 鎮静剤を打って、大人しくしてから首輪を切ってもらった。体重が13.5㎏になっていたらしい。まだ、5ヶ月ぐらいなんだけど(歯がまだ全部は大人の歯になってないから)。

 子犬ちゃんは、かなり甘えたれにはなっていて、私や母が出て行くとピョンピョン飛び跳ねながらひっついてくるのですが、いざ、捕まえようとすると全然ダメ。捕獲したときに追いかけ倒したのと、1回目のワクチン接種をしたときに無理やり追いかけ倒して口を縛って診察台に載せられて怖い思いをしたのが、かなりトラウマになっているらしく。

 このまま家においていても進展がないというので、しばらく訓練所に預けるようにしたそうです。(私は見てないけど)犬舎がコンクリで寒そうだったのがネックだったのですが、もうだいぶ暖かくなったし、家から持ってった座布団も使ってもらえるそう。でも、鎮静剤が効いてぼんやりしてたときに置いてきたそうなので、気づいたら知らないところにいたんじゃ、ちょっと可哀想です。今日、首輪を切ってくれた獣医さんのスタッフさんは、訓練所に行って賢くなって帰ってきたら、貰い手も見つかるかもしれない、と言ってくれたそう。賢くならなくても、ふつうにどこかに連れて行ける程度になれてくれたらいいんですけどね。

 子犬ちゃんは大変だけど、そのぶん存在感もあるので、いなくなると寂しいです。
 
 まあねえ…、うちの犬も人も人嫌いで、引きこもり気味だから、うちに置いといてもなかなか社交的な犬にはならないかもしれないけど。

補遺5『鉄鼠の檻』

2013-03-22 19:44:14 | 書評(病の金貨)
 補遺の5つ目は、京極夏彦の『鉄鼠の檻』。文庫版解説でも触れられていたし、『鉄鼠』が京極版『薔薇の名前』であるのは、もはや定説なんだと思うのですが、本シリーズ的に重要なのは、「石」のイメージかな。

畳の上の石(京極夏彦『鉄鼠の檻』1996年)
 
   火災が完全に鎮火するには丸二日かかった。
   知らせを聞いた消防団はあの手この手で消火活動を試みたが、水源に乏しい上に火元近くまで自動車が上がれなかったため、結局類焼を防ぐことに手一杯で、明慧寺は全焼した。
     (中略) 
   つまり結界の中だけが綺麗に焼けた訳である。


 禅の真理は空であるといわれている。だから囲い込まれた檻にいくら石を投げ込んでみたところで、別の結界に吸い込まれるだけだ。表情のない、心のない、成長の止まった、けれども過去の火事の記憶を瞳に持った「人形のよう」な鈴子、彼女と近親相姦の関係にあった、「人形のよう」に端正な態度しか示さないその兄松宮と、兄妹の記憶を閉じ込めた飯窪。「中身なき伽蘭堂」「結界自体」である美僧・慈行と、「囲いのない男」である榎木津。結界に真言的な世界をつくった小坂了念、己の結界の中のみが世界である、仁秀老人。そして言葉で世界を開いてゆく、京極堂、繰り返される炎。
 当然ながらこの小説では「檻」に閉じ込める、及び扉を開く、という言葉が頻出し、それは言葉や文字(手紙、書物)によってなされる。例えば飯窪は、鈴子が兄に宛てた手紙(恋文)を読んだ(開いた)ことによって記憶を閉じ込め、「私は手紙を読みました」という言葉によってそれを開く「記憶の扉が開いて、大事なものが解き放たれる。/それは解き放たれた途端に言葉と云う野暮なものに身をやつし、完膚なきまでに解体されてあっという間に霞となり塵となって消えて行くのだ。/思い出すということは思い出を殺すことなのだ」。また、「石」が結界に関わるものとして登場する。シリーズレギュラーが逗留する宿の名は「仙石楼」で、泰然老師の師匠が明慧寺を発見したのも(庭を造るため)そこから近くの石切り場に石を捜しに行くときであったし、京極堂の言葉にも「石ひとつ置いてあるだけで『入るべからず』の契約が成立した」との表現がある。それらの中で印象的なのが、冒頭近く、今川と久遠寺が囲碁をする場面であろう(碁に定石があり、黒と白しかなく、「囲んでやろう」と思って石を置くものであると書かれていることにも注意)。

  「しかし三百六十一の目こそが碁の世界の凡てではないですか。それを越すことは掟破りという以前に碁の否定に繋がりませんか」
  「そうよな。儂もずっとそう思っとった。今でもそう思う。ただ、儂はこの碁盤の上で人生ずっと生きて来た。あんたの云う通りこの囲いが儂の世界の凡てだった。それでいて、儂はこんなとこに石を置かれて人生に負けた」 
   老人は畳の上にひとつ石を置いた。


 檻を解き放つためには、その外に石を置かなければならない。それを破ったのは炎ではなく、鈴子(彼女が水墨画のような世界に対して鮮やかな色=紅をもっていたことに注意)の胎内に閉じ込められていた子供は流れてしまい、文字は既に、鼠に食い破られていた。「ああ云う場所はもう――これから先はなくなってしまうのだろうな。そうした場所はこれから先個人個人が抱え込まなくちゃいけなくなるんだ」
 それは時代の、流れだった。

本文引用:京極夏彦『鉄鼠の檻』講談社文庫、2001年。