人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

『心臓抜き』その2

2013-03-13 20:46:45 | 書評(病の金貨)
前の文章

 2,閉ざされた門

 ラ・グロイール号に乗るものは、前の男よりも「恥を抱く者」であり、彼が恥を引き受けるために村の人間は「けっして後悔はしません」(54頁)という。アンジェルとクレマンチーヌの喧嘩場面では、彼は「ほんとうのところ、おれは後悔なんかしちゃいない」「もっと強くなぐってやらなかったことを後悔している」(116頁)と言い、子供が彼の足に刺した釘は「金色の」と形容される(同)。金が恥や後悔の対価であることを考えると、この釘は後悔を意味しよう。
 『心臓抜き』においては、閉じ込められた、囲われた空間に穴と扉(門)が配置される。アンジェルが乗った船には穴があき、クレマンチーヌに似せた自動人形相手に性行為する蹄鉄工をジャックモールは鍵穴からのぞき見る。
 小説最後では、黄金の格子門が閉じられるが、その格子門からは風が吹き抜ける。ジャックモールは黄金の恥と後悔で内部を満たし、「空。満たすべし」という空洞の身分証明書と名前を失って「ラ・グロイール」と呼ばれるようになる。「最初は空ろだったおれは重すぎるハンディキャップをしょっていた。恥とは畢竟もっともありふれたものだ」(247~248頁)。クレマンチーヌは空を飛べる子供たちを「母性愛」から安全な鳥篭に閉じ込める。
 語りは突然鍛冶屋の小僧の視点に切り替わり、小僧は鳥篭の中のブロンドの子供たちを羨ましく思う。子供たちの一人から名前を尋ねられても彼が名乗れぬまま、そして子供たちの「名前」を聞けぬままに、内部から押し出され黄金の格子門は閉じられる。小僧の視点は決して内部には入れぬものの視点なのだ。

 きっぱり外に押し出されたからである。(中略)そして大きな金の格子の門に達したとき、もう一度最後に振り返った。背後で、たぶん空気の流れに押されたのだろう、格子の門が重い音をたててしまった。風が格子のあいだを吹き抜けていた。(259頁)

 かくして読者は小説世界から追い出される。読み手と小説世界のあいだには、風がわずかに吹きぬけるだけであった。それにしても、「心臓抜き」とは一体何であろうか。「心臓」は閉ざされた空間と関わり、その喩として機能している。ジャックモールが蹄鉄工をのぞき見たとき、「心臓は停止」し(142頁)、クレマンチーヌは同時に自動人形の分身のようにそれを感じる。彼女はその後「自分の内部を見は」り、子供たちのおやつを準備出来なかったことで「恥ずかしい後悔の念」にとらわれる(148頁)。それゆえ、彼がのぞき見た自動人形はクレマンチーヌが見はった自分の内部であり、心臓の停止は「恥ずかしい後悔の念」と等価だろう。恥と後悔は、空だったジャックモールを満たすものである。
 心臓とは空洞であり、恥と後悔は空洞を満たし、黄金ずくめの空間に変える。しかしながら、満たされてしまうと、空洞を失ってしまう。したがって、「心臓抜き」とは、恥と後悔であり、それは黄金、使うことの出来ない、それゆえに「真の価値」のある黄金である。

引用文について:前の文章参照。

つづく

『心臓抜き』その1

2013-03-13 20:34:03 | 書評(病の金貨)
前の文章

2.閉ざされた扉(ボリス・ヴィアン『心臓抜き』1953年)

 1,梗概と問題点
『心臓抜き』は、「空。満たすべし」とあらかじめ書き込まれた身分証明書を持ち、外部からやってきた過去も欲望も持たない空っぽの精神科医ジャックモールが人々の恥で内部を満たすまでの物語である。
 主な舞台である崖の上の白い家には、村に面しているほうに「金色の格子門」がある。その下の村は田舎的野蛮さが誇張された世界。村に流れる赤い小川に垂れ流される人々の「恥」を歯で拾い上げる人の乗る「ラ・グロイール号」という小舟があり、『ハジ』を拾い上げる人は名前を失いラ・グロイールと呼ばれることになる。恥の対価として黄金を支払われるが、黄金は何も買うことができない、何の役にも立たないものである。
 ジャックモールが小説冒頭で出会うクレマンチーヌは、三つ子を産むが、妊娠させられた恨みから夫アンジェルを部屋に閉じ込めてしまう。が、やがて徐々に彼女の「母性愛」が暴走し始めたため、アンジェルはやがて手製の船で海に出てゆき、船出場面では炎の煙が空を飛ぶ。「二人プラス一人」の子供たちは知らぬ間に空を飛ぶことができるようになっていたが、最後に「母性愛」から鳥籠に閉じ込められる。ジャックモールは死んだラ・グロイールの後を継ぎ、新たなラ・グロイールとなる。
 世界が言葉でできていることを言葉で示す、メタフィクション的な仕掛けが随所で仕掛けられる。例えば司祭の「わかった。雨は降る」という言葉によって雨が降る(66頁)。また、この司祭の「有用ですと!・・・・・・宗教は贅沢です。」(58頁)「ここは教会じゃ、じょうろではない!」(64頁)という主張は、小説の定義とも読めるだろう。すなわち、小説は贅沢品であって、空虚な内面を埋めるためであったり、泣いたり気持ちよくなったり必要なファンタジーを与えてもらうために読むものではない。さらにこの司祭は、聖具室係が悪魔として火を吐く「豪華な見せ物」(172頁)を演出する。ジャックモールも恥の代価としての黄金について「彼は金をもらうだろう。金はそれでなにも買えないのだからむだだ。したがって唯一の有効なものだ。値段がない」(161頁)と考える。
 この小説においては「閉じ込められる」ことと旅立ち、「欲望」と「自由」が対立しあい、そのような拮抗と恥/後悔の対価である黄金が関わる。これらの拮抗を読み解くことで、「心臓抜き」とは何か、明らかにすることができるだろう。

本文引用について:滝田文彦訳『ボリス・ヴィアン全集6 心臓抜き』(早川書房、1979年)による。

つづく