人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

補遺1、『砂男』

2013-03-17 20:44:04 | 書評(病の金貨)
 ゲデちゃんのショート、やっと見ました。そこまで酷くないじゃん…、と思った。確かにジャンプの調子は悪そうで、すべてのジャンプの着氷が乱れてたけど、転倒まではいってないし、ルッツが2回転になっても、3トーループつけてたし(回転不足だったけど)。レイバックスピンの入りで転倒してしまって、スピンがカウントされなかったのが、痛かったのかなあ…。何とか頑張ったとは言え、全部のジャンプで減点されてしまうと、点数出ないですよね…。
 何だか滑りにくそうにしてましたよね。滑りにくそう、と言えば良いのか、滑りやすそうといえばいいのかよく分からないけれど。すぐにつるんと転んでしまいそうな氷。ただ、キスアンドクライの映像を見てると、コーチとの関係は良さそうなので、安心しました。来シーズンは、故障なく、うまくいきますように!


 さて、『病の金貨』シリーズ、とりあえずは全部アップしたわけですが、21歳頃に書いた原型を、使わなかった部分がありますので、それも拾って上げていきたいと思います。

1,好意ある読者よ!(E.T.A.ホフマン「砂男」、1816年)

 好意ある読者よ、この小説の登場人物が機械仕掛けの人形みたいだなんて言ってはいけない。「きみってのは、生命のない呪わしい人造人間だ!」ナターナエルに小説世界から追い出されても知らないから。けれども彼はその木偶人形を生命の世界から放り出せずに、結局自分から飛び降りてしまった。一瞬たりとも真面目に読むことを許さない循環する「妄想めいたメールヒエン」、このテーマパークのような世界は高速回転で、投げ出されたお客さま、大丈夫、外で正気に戻るから。正気に戻った私たちが見つけるのは「砂男」という看板で、この世界に入場するきっかけとなったひとつの疑問、「砂男」とは何だろう。
 ここでは狂気と正気、炎と水、人形と人間等が回転させられ、最後に放り出されるそれらの中心は主人公の目であった。あまりにも有名なこの物語における「のぞき見」「眼だま」の意味をくだくだしく述べるのはやめておこう。押さえておきたいのは、この眼だまは、内面の情火=炎を映し出すが、この炎はコッペーリウスによって投げ入れられたものだということだ、それを奪うために(「コッペーリウスは炎のなかからまっ赤に焼けた火の粉を、あの例の拳でつかむと、それをぼくの眼のなかにばらまこうとするのであった」)。コッペーリウスが「歩みよっていく」と「音をたててたちのぼ」る炎、コッポラの望遠鏡で見ると(「じっとすわって死んでいるもののようにみえた」ものが)「しっとり濡れた月の光のような輝きがあふれ」「視力が燃えあがってきたかのようで、しだいにまなざしが生きいきと焔をあげて燃えたって」くるオリンピアの眼。しかし涙としての水はこれらを消すことができない。「湖ににている」といわれるクラーラの瞳にしても、「コーヒーが火のなかにふきこぼれ」ることを恐れて彼を見つめようとはしないように。あまつさえ「妄想めいたメールヒェンなんて火にでもくべてしまってちょうだい」との言葉によって、すんでのところでナターナエル(直前までその瞳からは涙があふれ出ていたのに)とロータルとの決闘(「燃えたぎる眼」との表現に注意)を引き起こすところだった。「ああ、あのひとはわたしのことなどちっとも愛してくれてはいなかったのだ、わたしの言ってることがわかってくれないのだもの」愛することと分かることが等価なこの世界では、ナターナエルにとって現実的な人間のクラーラよりも自分の眼だまをはめた自動人形のオリンピアのほうが人間らしい。けれどもオリンピアは眼だまをはずされ生命を失うのだ。対照的に「この世で生きる欲求の強い」クラーラは、彼が語った「妄想めいたメールヒエン」(彼の最期はこれに相似する)を理解せず、必死に生にしがみつき、ロータルに助け出される。彼が「死」を見たのは彼自身の瞳の中だったし、まっすぐにそれに向かって飛び降りてしまった。
 さて、「砂男」とは何か。母親が口にし、主人公がそう思ったことが物語の入り口となるひとつの疑問。婆やの言葉では、砂を子どもの眼の中に入れて眼だまを取り出し、半月に持ち帰って自分の子どもたちの餌にする、という男だった。が、すでに見てきたように、砂男と目されるコッペーリウス(コッポラ)が主人公の眼の中に投げ入れたのは炎だったし、物語に砂が登場すること自体ない。石ならばあるのだ、父親が死ぬ日、コッペーリウスが最後に訪ねてきたときの「重たく冷たい石のなかにとじこめられたような気」、彼が頭蓋を粉砕してその上に伸びてしまった敷石。が、石でも、炎でも、灰でもなく、砂。ここで注意したいのが、幼時の覗き見の場面で主人公がコッペーリウスを見た途端、砂男とは婆やが話したお伽ばなしのような「お化け」ではなく、「どこへでもその男が足を踏みこむところ、悲しみと――苦しみと――一時的にしろ、永久的にしろ破滅をもたらす、醜くも幽霊のようにぞっとする怪物」となったとの表現である。すなわち、この物語はお伽ばなしではなくて主人公が破滅する小説なのだ。「砂男」がこのような「怪物(幽霊)」である限り、つまり砂男が砂男ではない間、この小説は継続する(なお、オリンピアの瞳の「月の光のような輝き」は、砂男の子どもたちが半月に棲んでいることに対応する)。であるならば、最後に「分裂した」ナターナエル、頭蓋を粉砕して伸びてしまった敷石は、閉じ込められた「重たく冷たい石」が割れ、砂となったことを表すのではなかろうか。瞳の中に「死」を見ても、分裂した彼は重たく冷たい石の下で眠ることはできない。ただ砂のように頭蓋をこなごなにして、その上に伸びているだけだ。そう、「砂男」とは、粉砕された石、すなわち分裂し破滅した主人公のことなのだ。
ナターナエルはクラーラの営む「落ち着いた家庭の幸福」、「立派な別荘の門前」の中には決して入ることができないだろう。

本文引用について:E・T・A・ホフマン 深田甫訳『ホフマン全集第三巻 夜景作品集』創土社、昭和46年。

それにしても、漱石の『それから』のラスト、『砂男』だと思ったのって、私だけでしょうか。

キャリア教育について

2013-03-17 12:00:09 | 仕事と研究
 長い長い学生生活が終わり、お金をもらって仕事をするようになってから(仕事がない時期も多かったけど)考えるのが、お金をもらって仕事するとはどういうことなんだろう、ということです。

 仕事と人生は別!という考えは、既に何度か書いてきたことですが、そうじゃないと、資本の論理が全てになってしまうから。仕事は仕事として、実存と分けて考えることによって、資本の論理を離れた倫理観や価値観を持つことができる。これが私の考えです。個人が倫理観を持つことができなくなってしまったら、選挙する意味もないしね。マジョリティがマイノリティを抑圧する構造が、問題化されないままになってしまう。
 これは実存とか、意味の問題。

 ただもうひとつ、お金がないと食べていけないのも事実で、この事実がある限り、存在=お金になってしまう。これは生存の問題。白石嘉治は、この問題を解決するために、というか、我々は無償で存在している、という考え方から、ベーシックインカムを提案するわけだけれども(『不純なる教養』青土社、2010年)。

 じゃあこの、ひとつ目の問題(実存の問題)とふたつ目の問題(生存の問題)の関係はどうなっているんだろうということが、私のなかで整理がつかない。別々の問題だから、関係なくていいのかもしれないけど、でも、どちらも「キャリア」について考える場合、重要になってくること。

 最近は大学でもキャリア教育が熱心に行われていますが、キャリア教育に関して私が息苦しさを感じるのは、これは学生の問題じゃなくて、制度や社会の問題でしょ、と思うことってたくさんあるじゃないですか。でも、学生の就職率を少しでも上げないといけない…、となると、そのどうしようもなく問題のある社会(というか会社?)に順応させないといけないわけで。いまのキャリア教育に携わっている人たちは、折り合いをどうやってつけているのか。
 企業の論理に騙されるんじゃなくて、会社を騙す賢い就活生になりなさい、と教えるか、あなたがどんな人間であっても雇ってもらえるようなスキルを身に着けなさい、と教えるか…、なのかな。

人形論について―その3

2013-03-17 08:58:36 | 人形論(研究の話)
 昨日(というか今日?)は疲れて朝までこたつで寝てしまった。電池が切れたみたい。背中痛いです。
ドッグトレーナーさんと話すの、思った以上にエネルギーを使ったようです。
 フィギュアスケート男子シングルの表彰台とか見て、和気藹々としてたから癒されてます。パトリック・チャンがすっかり落ち着いて、いいお兄さんに見えた。カザフとスペインはメダル初めてなんじゃないの。日本はとりあえず3枠確保できたし、ずっと出ずっぱりでお疲れだったと思います。
 ゲデちゃんのSP動画はまだ見る勇気が出ません。

 今はやっぱり、犬と自分の将来(研究)のことを一番に考えて生活すべきなんだろうな。
そのために、できるだけ負担にならなくて、効率のよいお仕事を探さないといけない。そんなお仕事ないと思ってたけど、探し方が悪かったのかも。ハローワークとかで探したって、そりゃあ無理だよ…、っていう。


 今日はしばらくアップしないでほうっておいた、人形論の3つ目のネタです。→人形論について―その2
 現代小説を対象にした部分。たぶん、これまでも江戸川乱歩とか川端康成とか(「とか」で結ぶのは若干変ですが)、澁澤的人形愛の方向で論じたものはたくさんあったと思うのですが、私がテーマとしたいのは、人形表象による内面表現。ここで取り上げるのが、笙野頼子の「極楽」『硝子生命論』『水晶内制度』です。たぶん、『おんたこ』三部作も考察に入れないといけないことになると思いますが、まだ準備できてない。

【目的】
 絵画/彫刻/人形の対立を踏まえながら笙野頼子「極楽」『硝子生命論』『水晶内制度』を考察することで、笙野が人形によって可能にした内面描写、文体のありようを明らかにする。それによって、従来の「内面」観では捉えきれない内面を模索する。

【対象とする作品について】
 『硝子生命論』および、『硝子生命論』をプレテクストとして持つ『水晶内制度』においては、人形が重要な役割を果たす。『硝子生命論』は失踪した人形作家をめぐる書物であり、『水晶内制度』では仮想国家の起源神話において人形が重要な役割を果たす。『硝子生命論』『水晶内制度』ともにフィクションの構造やセクシャリティ、神話解釈やフェミニズムの観点など様々な読解が試みられるが、人形論の上に、作品の読解を位置づけた論考はいまだない。

【人形と内面】
 人形、殊に女性によって制作される球体関節人形は、「内面」を表現する媒体として現在特異な発展を遂げている。球体関節人形とは、関節部分に球形のジョイントがはまり、動かすことのできる人形を指す。近代リアリズム文学における「内面」は専ら絵画的遠近法との類似から語られており、一方で人形は内面のないものの象徴であった。それゆえ人形による内面表現は、従来の内面観では捉え切れないインパクトを持つ。笙野もまた、従来の「内面」観によって近代以前や現在「内面」がないことにされてしまうことに反発し、それとは異なる内面や自己、「私」を描く(1)。遡ればデビュー作「極楽」(1981年)も、近代以前の絵画ジャンルである「地獄絵」をモチーフとしていた。その点で、笙野の作品群における内面や自己像は、現在流行の球体関節人形と通底しよう(2)。「いまだと乙女系やゴス系の人たちはハマるかもしれない」(3)とあるように、人形文化と関係の深い「ゴス」(4)との親縁性も指摘される。


 そこで、現実の人形文化にも留意しつつ絵画/彫刻/人形表象の変遷を抑えることによって、「極楽」『硝子生命論』『水晶内制度』における人形表象の戦略を明らかにしたい。それによって、「内面」性の否定される現代社会における、あたらしい内面観を探求することができるだろう。

注記:(1)『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』講談社、2007年、『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』講談社、2008年等。
   (2)例えば、球体関節の手法によるポートレイトドールによって注目される人形作家、井桁裕子は「私小説」をテーマとした展覧会を開催しており(「井桁裕子作品展 私小説―肖像の人形」ギャラリー「ときの忘れもの」第一八五回企画展、2010年3月23日~4月3日)、笙野が「私小説」にこだわりながらマジックリアリズム的な作品を発表し続けたことを髣髴させる。
   (3)小谷真理、佐藤亜紀「対談による全著作レヴュー」(『文藝』2007年冬号)中の佐藤の発言。
   (4)斉藤環「人形愛と女性の謎」(『yaso夜想 特集ドール』2004年10月)、西村則昭「「ゴシック」な世界観と「乙女」のアイデンティティ」(『仁愛大学紀要』2005年3月)等。『夜想』復刊第一号(2003年12月)が採用した用語「ゴス」を使用する。