人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

空に舞い上がる魂―『風立ちぬ』の帽子、煙、飛行機

2013-08-30 10:03:32 | その他レヴュー
わが恋はむなしき空に満ちぬらし思ひやれども行く方もなし(古今集)


 アニメ『風立ちぬ』の主人公、二郎はいつも帽子をかぶっている。白い服を着て、白い帽子を。
 風にあおられて帽子が舞い上がり、少女が手を伸ばす。帽子には二郎の夢がいっぱいに詰まっている。

 あらすじは主人公が飛行機を飛ばすまでを描く、ごく単純なもの。実在の技術者堀越二郎をモデルに、堀辰雄の小説『風立ちぬ』の物語をからめた。
 主要な登場人物は、ヒロイン菜穂子、妹かよ、夢に出てくるイタリアの飛行機設計家・カプローニ、同期の本庄に上司の黒川、服部。休暇中に出会った、謎のドイツ人カストルプ(!)も登場場面は短いながら、重要な役回りだ。
 場面は少年時代、学生時代に起こった関東大震災とその二年後、就職した後の飛行機開発とドイツ留学、テスト飛行の失敗と休暇での菜穂子との恋、結婚生活、開発した飛行機の成功に、主に分けられる。エピローグ的に、敗戦後の焼け跡とゼロ戦の残骸、カプローニの夢と、夢に出てきて別れを告げる菜穂子(と白いパラソル)が描かれる。

 休暇から戻る汽車。汽車の煙は黒々と描かれ、デッキで佇む一人の乗客から、煙草の煙が上がる。その側で、二郎は座り込み、本に夢中になっている。二郎の帽子を、風が巻き上げ、隣のデッキで身を乗り出していた少女が手を伸ばし、つかむ。帽子をつかむためにデッキから落ちそうになった少女の身体を、二郎がつかまえる。

 物語は、風に舞い上がる帽子→パラソル→紙飛行機(→再び帽子)をつかまえる動きで構成される。それが二郎と菜穂子とのあいだでやりとりされ、最後に飛行機になって飛んでゆく。菜穂子は死に、飛んでいったものは再び戻ることがない。

 帽子のお礼を言った二郎に対し、ヴァレリーの詩を引用する少女。"Le vent se lève"(風立ちぬ) 返す二郎"il faut tenter de vivre"(いざ生きめやも)。
 ほどなく地震が起こり、汽車がとまる。

 ヴァレリーの風は魂の表象なのだろうし、空や煙、雲と関わってイメージの連鎖をかたちづくる。日本古典文学においても、煙は火葬の煙を象徴し、空が魂の立ち上る先であることは共通する。息は魂魄における魂。
(ちなみに冒頭に引用した和歌は、火葬の煙は関係ありません)
 だから煙草の煙は、人の思い(思ひ/火)の象徴であり、予め行われた喪の儀式であり、空に立ち上る魂を意味する。飛行機は、こちら側からあちら側の世界へと向けて、旅立つもの。

 関東大震災の場面は、地面の轟きや火災、逃げ惑う人々などがかなりはっきりと描かれる。密集する建物と群衆の動き。燃え広がる炎と、黒々とした煙。燃え上がる講堂や舞い落ちる火の粉から本を救おうとする描写は、図書館好きとしてはかなりツボだ。
 山積みの本の間から、ひらりと舞い上がる紙切れは、どうやらカプローニからの手紙らしい。

 飛行機が飛んだあとに起こったはずの戦争も、空襲も描かれず、エピローグ的な部分の後景としてしか描かれないのに比べ、震災はかなり特権的な位置を与えられる。たぶんこれがすべての炎の始発なのだろう。

 次に風で飛ばされる何かをつかまえる動きが描写されるのは、軽井沢での休暇中の場面だ。この場面で、震災時に出会った少女、菜穂子と再会する。
 丘の上で絵を描いていた菜穂子のパラソルが風に舞い上がり、下の道を通っていた二郎の目の前に飛んでくる。二郎は必死でそれをつかまえる。このパラソルは再会の場面、急に降りだした雨を凌ぐために使われる。
 作品中で雨が描かれるのもここだけであり、雨の後に出た虹も、唯一の描写だ。「虹のことなんか、忘れていたな」と二郎は言うが、虹は二度と思い出されることがない。再会の場面で、菜穂子は泉に満願のお礼を言い、涙ぐむ。だから雨は、菜穂子の涙を象徴するのだろう。
 水の描写は、これ以外では、関東大震災中に、菜穂子と、骨折したお絹(菜穂子に同行していた大人の女性。当初、二郎はお絹のほうに惹かれていたようにみえる)を背負って菜穂子の家に向かう途次、どこかの境内で休む主人公が、シャツに井戸水を含ませてお絹、菜穂子に与えた場面くらいしかない。これも同じく震災の場面で、井戸水の順番を待ち、顔を洗う二郎と(+水上タイプの飛行機の湖面or海面。夢に出てくるカプローニの飛行機は、水上タイプが多かったような)。燃え上がる炎を消す水は、あまりにも少ない。

 体調を悪化させた菜穂子の病室に向かって、二郎は紙飛行機を飛ばす。屋根に引っかかった紙飛行機を必死で取ろうとする二郎。二郎が足を滑らせ、菜穂子が窓を開け、気づいたとき、風が起こり、紙飛行機は飛ぶ。菜穂子は紙飛行機をつかむ。
 二人の間でやりとりされる紙飛行機。菜穂子の帽子が風に飛ばされ、二郎がつかまえる。ようやく、菜穂子の夢を受け止めた二郎。

 ここから、菜穂子との婚約と、結婚、結核の悪化によって立ち去る場面、飛行機が飛ぶ場面まではほとんど一足飛びの印象だ。 テスト飛行の場面、飛び立つ飛行機を眺める二郎は、喜びもなく、何か放心している。それがついに二郎のものではなくなったこと、向こうの世界に飛び立ってしまったことを知っているからだろう。冒頭の落下の夢に暗示されるように、二郎は飛ぶことができない。地を這うことしかできない。だから飛び立つ飛行機を自分のものにすることはできないし、菜穂子がついにあちら側に行ってしまったら、手に入れることができない。

 二郎は「美しい飛行機」をつくりたいという。けれども飛行機である以上、飛ばなければならない。飛んでいってしまうものは手に入れられない。だから本当は、飛ばない飛行機をつくらなければならなかったのだろう。

 物語の終わり、カプローニの登場する夢は、やや蛇足的な印象だ。空襲の煙とゼロ戦の残骸を背景にエンドロールでも良かったと思うのだが、一切無駄のないこの映画、カプローニの夢にも一応意味がある。冒頭で少年時代の二郎が、カプローニについて書かれた一冊の本を手渡されるから。一冊の本は夢になり、手紙となり、関東大震災の炎から救い出され、風にのって舞い上がる。その意味で『風立ちぬ』は、一冊の書物によって枠どられた物語でもある。

おまけ。私の子どもののすけちゃん。

 
 
 
 

『風立ちぬ』雑感

2013-08-25 03:46:28 | その他レヴュー
 『風立ちぬ』見てきました。

 まとまったレヴューは後から書くつもりですが、まとまらないことでもたくさん書きたいことがあるので、いくつか感想めいたことを。

 思っていたのとは結構違いましたね。
 煙草、確かに要所要所では出てくるんですが、そこまで多くない。煙や炎、あるいは寒いなか吐く息の白さなどと関わって表象の網の目を形づくっているとは思うのですが、メインは風に飛ばされた帽子(→パラソル→紙飛行機)をつかまえる動き、だと思いました。それが最後に飛行機になって飛んでゆく。これについては後からまとめるつもりなのでこれ以上は書きません。

 関東大震災の描き方がすごかった! 炎の描写もしっかりあって、東大燃えてるし、本を救い出すシーンなんかもあって、かなり萌えます。関東大震災はこの物語のなかで特権的な位置を与えられているんだろうと思います。これもたぶん、後からまとめるレヴューで触れる。

 確かに泣けました。クライマックスを作って盛り上がって泣く、というのではなく、ぜんぶの部分で穏やかに、ゆるやかに泣ける感じで。そういうリズムを作り出しているんだろうな、と。
 主人公が、(構造的に)絶対手に入らないものを求めているというのも、泣ける感じを作り出す要因かもしれません。美しい飛行機を作りたい…って言うけれど、飛行機だから飛ばなきゃいけないわけで、でも、飛んでいってしまったら手に入らないんですよ。落ちる飛行機じゃないと手に入らない。でも、飛ばなきゃいけない。

 たぶん、煙草の場面で批判されてるのは、ヒロイン菜穂子が高原病院から一時的に抜け出して、主人公と結婚し、いっしょに暮らす日々のなか。夜遅くに、主人公は菜穂子の片手に触れながら持ち帰った仕事をする。で、ちょっと離していい?タバコ吸いたい、って言うんですね。それに対して、菜穂子はダメ、ここで吸って、って言う。そして主人公が煙草吸う。この場面だと思うのだけれど。
 ここ、機能的にはベッドシーンだと思うのですよ。描けないですからね。この場面の菜穂子、すごく色っぽい。
 主人公との関係においては、一貫して菜穂子のほうから誘ってるんですよね。単に病弱なんじゃなくて、すごく積極的な人として描かれてる。それは主人公が飛行機以外のことに対して薄らぼんやりした人である、ということもあると思うのですが、菜穂子ってもう、最初の出会いから主人公の気をひこうと必死。汽車のデッキから身を乗り出したりして。
 だからこの部分(束の間の結婚生活)の菜穂子は、待ち望んでいたものをやっと手に入れた喜びに満ち溢れている。夢のなかにいるみたい、という科白もありましたが、これは菜穂子の夢なんですよね。だからこの後主人公の飛行機が飛ぶのも必然だし、菜穂子が死んでしまうのも、構造的に必然。
 菜穂子が主人公にとって都合のいい女だ、みたいなこと言う人もいますが、都合のいい女なんていくらでもいるわけなんですよ。同期の本庄が洋行前に結婚するんで、仕事に専念するために所帯を持つ、変な話だ、という科白がありましたが。二郎はめちゃくちゃエリートなんで、いくらでも都合のいい女と結婚できるわけです。その辺、いまのモテない男の尺度で測ったら、絶対おかしい。

 妹のかよも良かったです。彼女はもうずっと、お兄ちゃんの気をひこうと必死なんですが、一貫して失敗する。一貫してお兄ちゃんに約束をすっぽかされ、待たされる。子供時代の描写で、頬をすりむいたお兄ちゃんを手当しようとする場面がありましたが、あれはお医者さんになることの伏線なのね。で、お兄ちゃんでダメだったから、(束の間の夫婦生活を営んでいるお兄ちゃんのところに)「休暇をとって医者として来ます、菜穂子さんを治療します」っていうんですけど、可哀想に、かよさんが来るタイミングで、菜穂子も高原病院に帰っちゃうんですよね。菜穂子を治療しながら、他愛もないお喋りをして、いっしょにお兄ちゃんを待つ、甘い生活を夢見ていただろうに…、可哀想に。絶対にほしいものを手に入れられない妹。

 菜穂子との最初の出会いの場面でいっしょに出てきたお絹の形象も気になりました。汽車のなかで地震にあって、逃げようとしたときにお絹は足を骨折する。だから主人公は計算尺を添え木にしてお絹の足を縛って、彼女を背負って逃げますが、途中でおろし、家の者を呼んでくる、という菜穂子を送る。で、その後菜穂子の家の使用人といっしょにお絹のもとに戻ります。
 二年後(だったっけ?)にその計算尺が手紙とともに主人公のもとに届きますが、そのままお絹は去ってしまう。
 むしろお絹のほうが主人公にとって初恋な感じでしたよね。
 お絹は菜穂子のことを「お嬢様」と呼んでいるので、最初、侍女かなと思ったんですが、どうもただの使用人ではない。他の使用人からも大事にされている感じだし、菜穂子から見た心理的な距離も近い。お絹を迎えに行った使用人が、「いい青年じゃないか、お絹さん」と言っていることから、どうも彼女の結婚が、このお家にとってわりと大事な問題であることが分かる。再会した場面で菜穂子が言う、「あなたの居場所がわかったのは、(お絹が)結婚する三日前だったの」からすると、どうもこのお家からお嫁に出している感じがします。
 たぶん、親を亡くしたなどの事情で、このお家に引き取られている親戚の子供か何か、なんでしょうね。養女と使用人との中間くらいのポジション。帝大出のエリートと結婚しても不釣り合いじゃないけれど、見合いで結婚するには条件を下げないといけないような事情のある、だから彼女が自分の持っているもの(美人である、とか)を生かして、できるだけ条件を下げないで結婚することが期待されている存在なんだと思います。そう考えると、使用人たちが慌ててお絹を迎えに行く理由も分かります。震災後の混乱のなかに、適齢期の娘をほっとくわけにいかないので。
 菜穂子の母親が結核で亡くなったのが再会の二年前だとすると、お絹が結婚する前くらいで発症していたのかもしれません。だから、「私とお絹さんの白馬の王子様」(菜穂子)を悠長に探している余裕なんかなくなって、片付くものはできるだけ早くに片づけなくちゃいけなくなった→で、結婚なのかな、と。
 お絹は結局別の人と結婚して子ども三人も生んでいるようですが、夢を見ることができない、現実を選ばざるをえない存在として描かれてるのかな、と思います。
 

お盆も過ぎて・・・

2013-08-19 14:12:40 | 犬・猫関連

てりちゃん(前)とごんちゃん(後)。

毎日、暑いですね。
うちは昨日弟が職場のある静岡県のほうに戻り、ちょっと寂しくなりました。
姉と甥っ子たちは水曜日までうちにいますが(旦那さんは昨日戻った)、むしろたいへん(笑)。

今年は新しい仕事(個別指導)のために薬局事務の方の仕事を減らしているので
(個別指導はお盆の週はおやすみ。薬局は15日しかお休みじゃない)、少しゆっくり出来ました。
わんこたちを獣医さんに連れて行ったり、お墓参りしたりしたよ。

わんこたちを獣医さんに連れて行った日、
15歳のおじいちゃん犬が、血液検査とエコーを見てもらったのですが、
なぜかすっかり弱ってしまって、その日1日足が立たなくなってしまったので、心配しました。
いまも歩けてはいるのですが、なんだかぼんやりして大人しくなり、椅子の周りをぐるぐるぐるぐる回ったり…
もともと、ちょっとぼけてきてるかな、という感じだったんですが、
明るいぼけ方で、むしろうるさく、食欲過剰になっていたのですが…。
今度は大人しくなってしまったので、ちょっと心配です。

のすけちゃんは、3歳の男の子だって言ったら、
知らない人が、「じゃあまだぴちぴちのハンサムボーイだ」って言ってくれました。

昨日は父のお墓参りに行きました。
お盆はもう過ぎているのですが、昨日が父がずっと大事にしてた、ゆきちゃん(犬)の命日だというのもあって。
ゆきちゃんは2年前に亡くなったのですが、15日に危ない状態になったものの、
その時まだ名古屋にいた私が帰ってきてなかったので、ちょっと待って!と言っていたらなんとか持ち直し、
結局18日に亡くなったのでした。
で、お盆だから、お父さんが迎えに来たんだなあ、と。
お父さんはいつもゆきちゃんを待っててくれてたから、ちょっと待ってくれたんだなあ…と。
車でちょっと行ったところにある河原にお散歩に行くときでも、
他の人も犬も先に車に帰ってきてても、ゆきちゃんはすごくゆっくり、のんびり帰ってきてたんですよね。

弟は朝一番に行ったので、
私は姉一家と一緒に合わせて行こうと思っていたら、なぜだか昼間の一番暑い時間帯に行くはめに。
暑かったです!
お墓参りは、朝早く行くのがよいと思います。


おまけ:ぴちぴちのハンサムボーイ

迷いこんできた蛾の物語―W.G.ゼーバルト『アウステルリッツ』

2013-08-06 11:59:35 | 書評の試み
 こんにちは。今日は原爆の日ですね。
 ちょっと前までは、原爆の日というともっと大々的に報道されていたような気がするのですが、震災以降なんだか控えめな気が…。私がテレビをまったく見ない(というか、地デジ化以降うちでは見れなくなった)せいで、そう感じるだけかもしれませんが。

 今日は久々に、小説の話。結構前に読んだ本なのですが、一度きちんと書評を書きたいと思っていました。作者のW.G.ゼーバルトは、1944年生まれ。ドイツ出身のドイツ語作家で、やがてイギリスに移住。ドイツ近現代文学をイギリスの大学で講じていたこともあって、小説ともエッセイとも批評ともつかない、魅力的な散文作品を沢山残しています。将来のノーベル文学賞候補と目されながら、2001年に自動車事故で死去。
 『アウステルリッツ』はゼーバルト作品のなかでは最も小説らしい小説で、また評価も高い、代表作です。


   *   *   *

 物語は1960年台の後半、イギリスからベルギーへの旅を繰り返していた語り手の、その旅の1つ、アントワープの駅舎から語り始められる。そこで出会い、以後幾度も再会を繰り返すジャック・アウステルリッツという人物が主人公。博学で、何かについての研究をしているらしい彼は、二次大戦中に救われ、イギリスに移住させられたユダヤ人の子どもの一人であることがやがて明かされる。増殖する批評的言説、間接話法を多用した文体のなかで、断続的に語られるアウステルリッツの物語を辿ってゆくと、彼は彼を愛してくれた女性のもとからも、50歳を過ぎてから自らの物語を辿り直し、辿り着いた両親を知る女性の元も逃げ出し、ついには語り手の前からも姿を消す。

 建築、めまい、視覚、鉄道、要塞と収容所、図書館、動物園と植物園…。作品中で増殖する批評的言説は、アウステルリッツの物語と密接に関わりながら、近代という陰鬱な、抜け出すことのできない、間違った場所に連れて来られた…、物語を形づくる。
 思えば、冒頭に語られる語り手の悪寒…、夜行獣館と駅舎の待合室の人々に対する感慨も、アウステルリッツの物語を象徴する。

 今くっきりと脳裏に灼きついているのは、一匹の洗い熊の姿だけだ。(中略)真剣な面持ちで小さな川のほとりに蹲り、くり返しくり返し一切れの林檎を洗う。そうやって常軌を逸して一心に洗いつづけることで、いわばおのれの意志とは無関係に引きずり込まれた、このまやかしの間違った(ファルシュ=ルビ)世界から逃げ出せるとも思っているかのようだった。(4頁)

とある洗い熊の描写は、「故郷を追われるか滅亡するかした民族の、数少ない生き残り」「自分たちしか生き残らなかったがゆえに、動物園の動物と同じ苦渋に満ちた表情を浮かべている」(6~7頁)かのような旅行客のなかで、「ただひとり漠然と宙に視線を漂わせていない」「メモやスケッチを熱心に取っていた」(7頁)アウステルリッツの様子に重なってくる。

 あるいは、駅舎の天蓋のなかで、「最も高い位置に鎮座」する、「針と文字盤で表される時間」(12頁)。これは絶滅収容所のなかで途切れた線路、彼らを効率的に輸送するシステムが、時間の管理=時刻表によって可能になったとの指摘を想起させずにはおかない。翻訳者の鈴木仁子が(ナポレオンの三帝会戦だけではなく)「AusterlitzがAuschwitzを連想させる」(訳者あとがき、294頁)ことを示唆するゼーバルトのインタビューを紹介するが、私にはドイツ語の語感は分からないものの、途切れた線路のその先を、この物語が「消失点」として持っていることは確かだろう。
 けれども彼ら、東方へ、東方へと移送された彼らと異なり、救われて別の列車に乗ったアウステルリッツの物語は、ついに彼らを取り戻すことができない。

 とりわけ印象的なのが、アウステルリッツの自宅に彷徨い込んできた蛾の描写だろう。

 あたたかい季節には、我が一匹、二匹、私の家の狭い裏庭から家の中に迷いこむことがあります。朝早く起きて見ると、蛾が壁にとまったまま、じっとしている。彼らはおのれが行く先を誤ったことを承知しているのだと私は思うのです、とアウステルリッツは語った。なぜならそっと外へ逃してやらないかぎり、命の灯の消えるまで、ひとつところをじっと動かないのですから。それどころか断末魔の苦悶にこわばった小さな爪を突き立てたまま、命がつきたのちもなお、おのれに破滅をもたらした場所にひたと取り付いたままでいる――いずれ風が引き剥がして、彼らを埃っぽい片隅に吹き去るときまで。(91頁)

 この蛾たちは、裏手にある東欧ユダヤ人たちの墓から迷い込んできたことが後に明かされる。

 私の家の窓からはまったく見えないのですが、あの壁の後ろには、菩提樹の木立やライラックの茂みに囲まれて、十八世紀このかた、彼の地の東欧ユダヤ人社会に生きた人々が埋葬されてきた墓地がある。(中略)いま思うと蛾たちはあそこから私の家に飛んできていたのでしょうが、私が墓地に気づいたのは、ロンドンを離れる数日前のことでした。(277~278頁)

 間違って彷徨ってきた魂…。
 重要なのが、これが、青年時代の幸福な思い出…、憂鬱なことも多かった思い出の中で唯一幸福な思い出のなかに挟まれた描写であることだろう。寄宿学校で友情を結んだジェラルドの実家「アンドロメダ荘」に招かれた日々の思い出であり、そこは蝶や貝、甲虫などの博物標本の溢れる魅力的な別荘だった。世界中のものを集め、分類し、標本箱のなかにピンでとめる欲望。ただし、蝶、あるいは蛾は、単に分類され、ピンでとめられるものであるだけではなく、生きた、自由な、開放のイメージも併せ持つ。

 夜のとばりが降りてまもなく、私たちはアンドロメダ荘からかなり登ったところにある山の端に腰を下ろしていました。背後は急勾配の山腹、眼前は漆黒の闇に包まれた渺茫たる海。エリカの茂みに囲まれた浅い窪地にアルフォンソがガス灯を置き、灯をつけたと思うまもなく、登り道ではひとつも出会わなかった蛾が、忽然と、まるで虚空から湧き出たかのように、あるものは弓なりに、あるものは螺旋をえがき、あるものは輪をかいて無数に群がってきたのです。(88頁)

 初期の短編を集めた『移民たち』においては、蝶、あるいは蛾は開放される魂を象徴し、関わって描かれるナボコフらしき人物は、主人公を自死から救う存在として描かれる。それでもその多くは自死や過酷な電気治療の結果としての死を迎えることとなるのだが、それでも蝶・蛾が一抹の救いのイメージとともに描かれることは注目に値する。

 対して、『アウステルリッツ』では、墓地から彷徨い込んできた蛾は、命が尽きた後まで、間違った場所に取り付いたままでいる。「まやかしの間違った世界」から逃げ出す方途がないように。
 アウステルリッツ、語り手とともに、私たちは「まやかしの間違った世界」のなかに閉じ込められたままだ。それでもほんの少し、開放の可能性があるとしたら、「そっと外へ逃してやらないかぎり」という留保がついていることだろうか。

*本文引用は鈴木仁子訳『ゼーバルト・コレクション [改訳]アウステルリッツ』(白水社、2012年)による。
 
   *   *   *


おまけ:テリちゃん。前髪で目が見えない。