人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

傷ついた記憶

2015-11-22 10:58:57 | 仕事と研究
むかし、塾講をやっていたときに、古典の問題で、何か説話だったと思うのですが、「母親の子に対する愛情ほど大きいものはない」というような評言で締めくくられる課題文がありました。その説話はそれはそれとして、何かその教材から、母親は子供を愛するものだ、というメッセージ性を感じ、非常に不愉快になったことがあります。不愉快というか、頭に血が上るほどイライラし、何で自分がこんなものを教えないといけないのかと、傷つきました。

私が研究している『源氏物語』の女三の宮は、妊娠、出産を嫌悪し、出産後には「ついで」に死にたいとまで思い、薬湯なども口にしなくなります。出家後に回復しますが、子供への愛情らしきものは描かれません。そのことが研究史上では子供っぽいとか、何か足りない人のようにも言われます。私はそれが母親は子供に愛情を抱くものである、という偏見に満ちた問題のあるものであることを指摘し、物語の中での女三の宮の出産嫌悪の意味と機能を考察したこともあります(「『源氏物語』の生殖嫌悪―女三宮の出産嫌悪を中心に」『古代文学研究 第二次』第16号、2007年10月)。
私自身も、当時は子供相手の仕事だったのであまり大きな声では言えなかったのですが、子供嫌いで、絶対に子供は作りたくなく、また生むこともおぞましいものだと常々感じています。

母親が子供に愛情を抱くことは素晴らしいことだとは思うのですが、教壇の上からそれがふつうである、当然そういうものである、ということは問題でしょう。そうじゃないこともありますから。そして血のつながった親子の関係というのは、なかなか厄介なものでもあります。

…というような問題はそれはそれとして、なぜ自分は自分自身の価値観や研究を否定するようなことをわざわざ生徒に教えなければいけないんだろう、と深く傷つきました。

私は今薬局で事務をしていますが、仮に患者さんが例えば結婚して子供産むのが女の子の幸せ、とか、早く結婚して子供産まないと日本は少子化する、とか言ったとしても、にこにこ笑って聞き流しておけば済むことです。そういう仕事ですから。
ですが、教壇の上から生徒にそういう価値観を(暗に)教える、となると話は全く別です。

私はその時どうすればよかったのでしょうか。
この説話はこういう評言で締めくくられているけれども、必ずしもそうじゃない人もいるし、それは悪いことではないんだ、と一言付け加えればよかったのでしょうか。
あるいは、説話文学は最後の評言にまとめられるような、単純なものではないんだ、ということを解説すればよかったのでしょうか。
今でもどうすればいいのか分かりませんし、不意にそういった価値観に出会ってしまったときに、どう対処すればいいのか、自信がありません。

おまけ…夢ちゃん。

平成27年度中古文学会秋季大会感想(覚えているところだけ)

2015-11-03 12:22:01 | 学会レポ
こんにちは、最近どうも疲れが残りやすく、何時間寝てもすっきりしません。
少し前の話になりますが、10月24日と25日、中古文学会に行ってきたので、覚えているところだけメモ的に感想を書いておきたいと思います。
…とはいえ、どうもちょっと疲れやすい体調のときで、たいへんよく寝てしまい、記憶が断片的です…💦
場所が比較的近いといえば近かったので、行って帰ってくるだけのぎりぎりのスケジュールで行ったのもあったんですけどね。
もともと私はよく寝るのですが、それにしてもちょっと寝すぎでした。

今年の中古文学会、会場は県立広島大学。
行くときは広島駅からタクシーを使いました、私方向音痴で、迷う自信があったので。
タクシーだと駅から15分くらいかな。

この日はベージュのジャケットとカーキ系のスカート、少し暑かったです。
前からでは分かりませんが、ジャケットの後ろ部分にタックが、スカートの後ろにはフリルが入ってます。
足首部分に猫の模様の入ったストッキングをはいていたのに、誰も気づいてくれませんでした。

1日目は中古文学会賞の授賞式と、シンポジウム。
受賞者の桜井宏典徳さんの、将来への不安から一時期研究をやめていた時期があった(でも再開して書いた論文で査読に通り、さらに賞をいただいて…)、という挨拶が切なかったです。
シンポは室町・戦国期の『源氏物語』の伝本に関するもの。中古でのシンポも何度目かになって、少し慣れてきたというか、まとまりがよくなってきた感じです(←なぜか上から目線)。
質問用紙が複写式になっていて、あ、便利、と思いました。複写式にすると少し高いんでしょうけれど。

懇親会のお食事が大変おいしく、そしてあまっておりました。
懇親会であんなに食べたのは久しぶり、すっかりお腹がぱんぱんになってしまいました。
若い男の子とか少ないので、ボリュームのある食べ物は減らないのよね。院生、減ってるんでしょうね…。
県立広島大には院生がいないので、会場の中の案内やマイク係は学部生がやって、あとは広島大の院生が手伝いに来てるんだ、と言ってました。

2日目は間に1度ずつ休憩をはさんで、午前中4本の発表と、午後は5本の発表。
午後の発表の途中でトイレに行きたくなってしまい、しかも中のほうの席に座っていたためよけてもらわないと出られず、たいへん恥ずかしい思いをしました。
何だか妙にトイレが近くなることがあるのよね、まだそういう年齢ではないはずだと思うんだけど…、さすがに。

午前中4本のうち3本が『源氏物語』に関するもの。1本がいくつかの資料における記述が「物語合」なのか、「歌合」なのか、あるいは別々に行われてその順序はどうだったのか、というもの。
印象に残っていたのが、浮舟の手習歌に関する発表で、浮舟が母に会いたい、と思っているのを、「共感者」を求めている、と解釈していたところ。会いたい、にはいろんな理由があると思うし、理由がなくてもただ会いたい、ということもあると思うのだけどなあ。分かってくれるor分かってほしいから会いたい、と解釈できるような場面があるのならともかく、入水しようと思った場面でも出家後も会いたいのは母親だけ、だから母親のことは理解者だと認識している、というのは全然別の事柄だと思うのだけど。
あと、前半では浮舟の手習歌を、共感者を求めて詠まれるものと位置付けていて、後半ではそうありたい自己を演出して周囲に訴えるために詠まれるもの、と位置付けていたので、そのふたつの関係がどうなっているのかも気になりました。
午後はいろいろな作品を対象とした発表。歌集や歌物語に関する発表が多かったかな。
『平中物語』において女から詠みかける歌についてのもの、『夜の寝覚』で女主人公がそんなには「気高く」ない、と表現されることの機能について、『有明の別れ』についてのもの、『発心和歌集』の編者が大齋院選子であるのかどうかというもの、『伊勢物語』における万葉類歌(万葉集風の歌)の機能についてのもの。

全部終わったら5時前くらいにはなっていて、そこからバスで広島駅に行き、途中の岡山駅で少し買い物をして、結局家に着いたのは8時過ぎてました。近いような遠いような広島。
新幹線の中で何度か母から電話がかかっていたので何かと思ったら、のすけちゃんが庭に出たときに、ずぅっと私が帰ってくるのを待っていてなかなか家の中に帰らなかったからなんだそう。あの子もちっとも私の言うこと聞かないくせに、いじらしいというかなんというか…、可愛い子です。

――――――おまけ――――――
10月12日に保護したちゃめちゃん、11月1日に譲渡会に行ってきて、写真撮りました。
 
里親募集中→ペットのおうち
     →いつでも里親探し
→2016年2月14日に貰われていきました。