人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

「対岸」に渡るために:温又柔『真ん中の子どもたち』に対する宮本輝評の問題点

2018-08-17 12:10:15 | 書評の試み
少し前の出来事ですが、ちょっと考えを纏める機会がありましたので、あげておきます。

1.事の発端
■温又柔『真ん中の子どもたち
・集英社、2017年。初出:『すばる』2017年4月号
・第157回芥川賞候補作。

 台湾人の母親、日本人の父親をもち、東京で育った主人公の「私」が、上海に語学留学したときの経験を回想形式で語る。
 「母国語」とは何か、国家とは何かという疑問と葛藤から、自分たちは複数の国家の間で自らの言葉を模索する「真ん中の子ども」であるという思いに辿り着く。

この作品について、芥川賞選考委員の一人である宮本輝が、以下のような選評を述べました。
■宮本輝「カモフラージュ」
当事者たちには深刻なアイデンティティと向き合うテーマかもしれないが、日本人の読み手にとっては対岸の火事であって、同調しにくい。なるほど、そういう問題も起こるのであろうという程度で、他人事を延々と読まされて退屈だった。
(芥川賞選評、『文芸春秋』2017年9月特別号、383頁)

これについて温又柔さんご本人がTwitter で、
■温又柔 Twitter
@WenYuju
どんなに厳しい批評でも耳を傾ける覚悟はあるつもりだ。でも第157回芥川賞某選考委員の「日本人の読み手にとっては対岸の火事」「当時者にとっては深刻だろうが退屈だった」にはさすがに怒りが湧いた。こんなの、日本も日本語も、自分=日本人たちだけのものと信じて疑わないからこその反応だよね。
10:16 - 2017年8月11日
と書いて、ちょっとした騒ぎになりました。

2.問題点
この宮本輝さんのコメントが、非常に差別的である、ポリティカルコレクトネス的に問題であるということはおそらくかなり分かりやすいことかと思いますが、西原は、以下の二つの点が、より問題であると考えます。

まず一点目は、
①「日本文学」の歴史を無視している。
ということ。
宮本輝評は、漢文学・西欧文学との葛藤の中で、自らの言葉を作りあげてきた日本古典文学・近代文学の歴史を無視するものです。
国籍によるアイデンティティの問題に限定せず、「ことば」に対する意識、「母語」とは何かという葛藤に注目するならば、
そもそも文字・漢字は、海の向こう(対岸)から渡ってきたものですし、『竹取物語』にしても『源氏物語』にしても、漢文学からの影響や葛藤があります。また、近代以降は西洋文学からの影響も強く、その葛藤の中から日本文学は形成されてきました。森鴎外にしても、夏目漱石にしても、芥川にしてもそうでしょう。

いみじくも選考委員の一人である奥泉光が、
■奥泉光「言語の歴史性」(選評、前掲)
これ(=日本語の中に中国語が入り交ざった『真ん中の子どもたち』の文章、引用者注)がテクストとして成立できているのはもちろん、日本語と中国語の表記が漢字を共有する事実に依拠しているわけだが、そのこと自体が言語の歴史性を示すものであり(382頁)

と指摘するように、『真ん中の子どもたち』は、近代以降の日本・台湾・中国の歴史のみならず、漢字が日本に渡ってきて以来の日本語・日本文学の歴史も想起させるだけの射程を持ちます。
宮本輝評は、そういう、異なる言語や文学との葛藤の中で日本文学が作られてきた歴史を無視していると思えるのです。

二つ目の問題は、
②同調・共感可能なもののみを認める姿勢
です。
・あらかじめ「同調」できるものを読み、同調して満足するのであれば、ただあらかじめ知っているものを確認しているだけであって、何かを読むことの意味がどこにあるのか分かりません。
・海面/水面はしばしば「言葉」を象徴します。
あらかじめ同調や共感のできるものではなく、共感できない異物である他者、分からないもの、自分とは違うものである、「対岸」に渡るために、言葉が必要です。
その海面/水面の向こうの「同調」できない他者を、「対岸の火事」として追いやることは、言葉を媒介としたコミュニケーションそのものを否定する態度であると言えます。
そのような態度を、文学に関わるものがとることは、二重三重に問題でしょう。

ある愛の行為―マルグリット・ユルスナール〈世界の迷路〉三部作

2015-09-26 15:03:39 | 書評の試み
そんなミシェルが、ようやくにして、ひとつの文学的な仕事を最後まで推し進めることをおのれに課しているのだ。単語を操り、その重さを量り、意味を探ることが一種の愛の行為であることを、彼ははじめて理解する。(154頁)

 詩や小説を書こうとしたこともあるが、なにひとつ完成させたことのない、なにごとも成し遂げるということをしない父・ミシェルが、チェコの作家コメニウスの『世界の迷路』という小説を翻訳(英語版からフランス語への重訳)しようとするくだりである。『世界の迷路』は、ミシェルと、三巻の中で重要な位置を占めるジャンヌとエゴンの夫婦の間で読まれ、この三部作のタイトルとなる。のちにエゴンがとある音楽作品に利用したもののうまくいかず(170頁)、「いつの話になるかわからない、先の長い計画になっていた」(317頁)。

 ユルスナールの〈世界の迷路〉三部作は、「自伝的」な作品として書かれ、「私が私と呼ぶ存在は、一九〇三年六月八日月曜日の朝八時ごろ、ブリュッセルで生まれた」(10頁)とはじまるものの、第一巻『追悼の栞』の記述は主に母方の親族の歴史に費やされ、第二巻『北の古文書』では父方の親族の歴史が語られる。第三巻『なにが? 永遠が』においてようやく幼いユルスナールが登場するものの、主に語られるのは父ミシェルの後半生と、母フェルナンドの友人であり、おそらくミシェルの愛人であったジャンヌと、エゴン夫婦の物語である。ジャンヌとエゴンは、ユルスナールの最初の本格的な小説であり、死の床にあったミシェルに「これほど透徹したテクストを見たことがない」というメッセージを貰ったという『アレクシス――虚しき戦いについて』のモデルとも言われている。なお、三巻目の『なにが? 永遠が』は完成されずに、遺言において、もし完成されないまま亡くなった場合ここまで、と指示された部分までの死後出版という形で刊行されている。
 そのようなテクストに、父ミシェルが初めて訳し、ジャンヌとエゴンにとっても縁の深い『世界の迷路』がタイトルにとられ、その翻訳が「愛の行為」であると語られることは、意義深い。ユルスナールにとって「単語を操り、その重さを量り、意味を探ることが一種の愛の行為」であることが、そこでは告白されているからだ。それは父や、ジャンヌ、エゴンへと結びつく愛の行為としてあるのだろう。

 ユルスナールが、自らの家系を辿り「自伝的」とも言う小説を語る行為は、『ハドリアヌス帝の回想』を書く行為とさほど隔たってはいないと評され(小倉孝誠、2015年9月18日、東京堂におけるイベント)、実際に

このような自己同定に感じる非現実感を、部分的にであれ乗り越えるためには、やがて試みることになる歴史上の人物についてと同様、一人どころか十人もの仲介者を経て受け取った記憶の断片や、人が屑籠に投げ込むのを怠った手紙や手帳の切れ端から引き出した情報などにしがみつかなければならない。(1巻、11頁)

とも語られるのだが、『ハドリアヌス帝の回想』の罅割れのない、限りなく美しい統一した一人称語りと、〈世界の迷路〉三部作の語りはかなり異質なものに感じられる。また、翻訳者の堀江敏幸によれば、〈世界の迷路〉第一巻、第二巻と、第三巻はかなり異質な文体を持つのだと言う(2015年9月18日、東京堂におけるイベント)。

 〈世界の迷路〉第三巻『なにが? 永遠が』で重要な役割を果たす、ジャンヌとエゴン夫婦をモデルとしたユルスナールの『アレクシス』は、ゲイであることを自覚した夫が家を出たのち、妻に書いた手紙、という設定で書かれている。『なにが? 永遠が』の中では、エゴンはジャンヌの元に戻り、その後も長く夫婦生活を続ける。「いつも、とうてい許しがたいというようなことに対しても、やさしい気持ちを見せる」(318頁)ジャンヌの自由な精神は、感動的なほどに美しく描かれ、おそらくユルスナールにとっての理想なのだろう。
 自らのセクシャリティをアイデンティティとして責任をもって引き受ける『アレクシス』の在り方はとても切り詰められて美しいのだが、『なにが? 永遠が』の中のエゴンとジャンヌの関係は、性愛によって結ばれえない者同士が寄り添うような、もっと豊かなものとなっているように思われる。何よりも「自由」であるために厳しく自らを律するジャンヌの在り方は感動的である。自由であるために何事もなさず、放浪し、財産を蕩尽し、刹那に生きたミシェルと、ジャンヌの在り方はともに魅力的でありながら、対立する。
 〈世界の迷路〉においてユルスナールは、罅割れ、破壊された世界において、それでもなおかつ世界を愛する、強靭な言葉の世界をかたちづくっているように思う。

 例えば『なにが? 永遠が』のなかで、大戦にあったモン・ノワールの地所について語る部分。

かつては樹齢百年をこえる大木が珍しくなかったこの地方で、小学生の一団を引率している人が畏敬の念をこめて七十五歳の古木を教えているのを見て、私はまた心を動かされている。(293頁)

 第二巻『北の古文書』では「一九一四年の無益な殺戮」(12頁)よりもはるか太古の時代から森の歴史が振り返られるのだが、『なにが? 永遠が』のこのくだりを読んだときに、破壊され、ばらばらにされたこの森の物語が、『北の古文書』で語られる太古からの記憶に接続される。

 破壊され、ばらばらにされ、汚染された土地と歴史。そしてばらばらな「私が私と呼ぶ存在」。『ハドリアヌス帝の回想』においては、ヨーロッパ的なギリシャ・ラテンの教養を完璧に身につけたものにとっての理想的な語りが展開される。しかしながらそのようなヨーロッパ的な教養は、二度の大戦を経た後には――とりわけ二度目の大戦ではヨーロッパを離れたユルスナールは――、分断されざるをえなかっただろう。〈世界の迷路〉三部作は、破壊され、ばらばらにされ、汚染された土地と歴史と、そして「私」を、言葉によって結びつける――それは彼女が築いてきた言語世界に強靭に裏打ちされている――、強くて濃密な愛情に、貫かれている。

・マルグリット・ユルスナール『世界の迷路Ⅰ 追悼の栞』岩崎力訳、白水社、2011年。
              『世界の迷路Ⅱ 北の古文書』小倉孝誠訳、白水社、2011年。
              『世界の迷路Ⅲ なにが? 永遠が』堀江敏幸訳、2015年。→白水社サイト

おまけ…夢ちゃん。

虫の語り:ナタリーア・ギンツブルグ『わたしたちのすべての昨日』

2015-04-19 11:25:13 | 書評の試み
ナタリア・ギンズブルグの『わたしたちのすべての昨日』、読みました。
この作家のものは、『ある家族の会話』、『モンテ・フェルモの丘の家』、『マンゾーニ家の人々』を読んだことがありますが、それらに比べて読後感が暗い。『ある家族の会話』と同じ時代を扱ってるんですが、『ある家族の会話』はユーモラスだったんですが…
文章は淡々としていて読みやすい。装丁もきれいです。

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1.梗概と登場人物、特徴
『わたしたちのすべての昨日』は第二次大戦前後のイタリアを舞台とし、弁護士一家の末娘アンナを中心に語られる家族の物語である。
母親はアンナを生んですぐに亡くなり、一家は反ファシズムの父、父の言いなりの長兄イッポーリト、男友達がたくさんいる姉コンチェッティーナ、次男のジュスティーノ、主な視点人物となる末娘のアンナ、家族同然の乳母のシニョーラ・マリーアによって構成される。向かいに住む石鹸工場一家――後妻マンミーナ、長女(前妻の娘)のアマーリア、長男エマヌエーレと次男のジューマ、居候のフランツ――、イッポーリトの友人ダニーロ、父の友人で旅行好きのチェンツォ・レーナが主な登場人物である。イッポーリトとエマヌエーレ、コンチェッティーナはほぼ同じ年ごろと思われ、ジュスティーノとジューマは同年、アンナはそれよりほんの少し年下であるらしい。アンナは大人しく、手がかからないため、あまり構われていない。
 一家が住むイタリア北部の町、休暇を過ごす郊外にあるらしい「さくらんぼの家」、チェンツォ・レーナの自宅のある南部の村サン・コスタンツォを主な舞台として物語は展開する。
 一家の父親も前半で亡くなり、長兄イッポーリトは向かいに住むエマヌエーレ、友人のダニーロ(当初はコンチェッティーナの求婚者として登場)とともに反ファシズムの地下活動にのめり込むものの、開戦後絶望してピストル自殺する。姉のコンチェッティーナは結婚しほどなく妊娠、アンナは隣家のジューマとつきあって妊娠してしまう。アンナの窮地を救ったのが父の友人チェンツォ・レーナであった。チェンツォ・レーナは自分と結婚して子供を生めばいいという。
 アンナはチェンツォ・レーナの自宅のあるイタリア南部のサン・コスタンツォで子供を産む。ファシズム体制の崩壊後、イタリアは連合国側と休戦協定を結ぶが、ドイツが侵攻。チェンツォ・レーナは地下室に元曹長や反ファシズムの農民ジュゼッペ、ユダヤ系のフランツ(アマーリアと結婚したがトラブルがあって逃げてきた)を匿っていたが、女中がうっかりとドイツ人兵士に口を滑らせたために、ジュゼッペがドイツ人兵士を射殺することとなる。ドイツ人兵士の遺体が発見され、チェンツォ・レーナは自分が殺害したと名乗り出て、ついてきたフランツとともに銃殺される。
 解放後、娘とともにイタリア北部の町に戻ったアンナは、生き残った人々と再会して語り合う。

 物語はまだ若く「虫の沈黙」のなかで生きるアンナの視点で語られるため、全体像や登場人物のイメージを掴むのは難しく、息苦しい。例えばアンナがつきあって妊娠することになる隣家のジェーマの「狐歯」、チェンツォ・レーナの「米粒のような歯」(132頁)やレインコート、「灰色の頭」などの細部が繰り返し語られ、魅力的なのかどうか、美人なのかどうかなどのイメージは掴みづらい。他の登場人物の言葉によってイッポーリトが「美しい」ことに気づかされ(50頁)、コンチェッティーナが「けっこう美人」(82頁)であることが語られ、ジュスティーノが「とても男前」(175頁)であると言われる程度である。
 アンナは誰かが分からない話をした時、ぼんやりと自分の想念の中に閉じこもる。ジューマの話を「信じるふり」をし(87頁)、一人きりになると革命を夢見る。はじめて「身体をかさねた」とき、「誰か来て、宿題もしないでと叱って、誰か、もうジューマと川岸の茂みに行ってはいけないと言って」、と思うのに「毎日ジューマと川岸の茂みに行くのだろう、毎日、巻き毛をもじゃもじゃにし、まぶたをきつく閉じたあの顔、言葉も彼女に対する思いやりもなかったあの顔を見るのだろう」(95頁)。だから、どう読んでも一貫してジューマのことを好きではないのに、「たぶんわたしたちはあまり愛し合っていなかった、家に帰るとき傷ついて不幸だったから」(125頁)と言うように、自分の感情を自分のものとして感じることができない。結婚後しばらくして、チェンツォ・レーナは「ぼくがとてもきみを愛していることが、きみがジューマでも誰でもほかの男と出てゆき、ぼくを独りにしないかといつもどこかで恐れているのがわからないのか」(189~190頁)と言うのに、アンナが彼のことを愛しているのかどうかは、ほとんど分からない。
 歯やレインコート、足を引きずるなど、物語の中にはいくつか意味ありげな符牒が現れるのだが、そのいくつかをとりあげて整理してみたい。

2.犬とピストル
 登場人物以外で重要な役割を果たすのが、イッポーリトの犬である。父の生前、自分の意思らしいものを発揮しなかったイッポーリトが唯一自らの意思で大切にし、亡くなるときにも家族に世話を頼んだ犬。イッポーリトが自殺する「夜中に庭で犬が吠えるのが聞こえ、それから門の軋る音」が聞こえ、朝には「庭で犬が吠え、地面を引っかき、門に身体をこすって吠えていた」(113頁)。
 この犬をアンナとチェンツォ・レーナは結婚後連れていき、大切に世話をする。この犬を誤ってひいてしまうのが、後にジュゼッペに射殺されることになるドイツ兵である。
 ある日アンナとフランツが台所でじゃが芋の皮を剥いているとチェンツォ・レーナが入ってきて、犬がどこにもいないと言った。アンナがすわったままだったので怒った。(226頁)。
 二人が犬を探しに行き、フランツだけになったところ不意に血だらけの犬を抱えたドイツ兵が入ってき、オートバイで犬を轢いてしまった、ブレーキをかけたが間に合わなかったと言う。戻ってきたチェンツォ・レーナは
 床の上でヒクヒク震えている犬をじっと見て、身体をかがめ、灰色の毛が血に染まった腹にそっと触れた。(227頁)
 チェンツォ・レーナは彼にドイツ語できみはぼくらにとってこの犬がどんなものかわかるまい、ぼくらの家族同然だった、長いつきあいだったと言った。(同)
 チェンツォ・レーナはアルコールはもう必要ない、犬は夜どおし震えて苦しむだろうからすぐに死なせてやったほうがいいと言って、ドイツ兵にきみのピストルで犬の耳に撃ちこんでくれと言った。ドイツ兵は犬をつれて外に出て、ピストルの音がした。そしてチェンツォ・レーナとアンナは家の前に穴を掘り、犬はその中に埋められた。(同)
 ドイツ兵も射殺された時、松林に遺体を埋めるための穴を掘るが、穴が小さすぎて入らない。チェンツォ・レーナにはそれ以上穴を掘る力がなく、急流に運んで流す(241頁)。結果、川下で発見されることになる。
 生前イッポーリトが自らの意思で飼い、遺した犬を、彼を救えなかった、意地悪くしたと後悔するチェンツォ・レーナは大事にする。イッポーリトはピストル自殺し、犬は轢かれた後に苦しみを長引かせないために銃殺され、誤って轢き、銃殺したドイツ兵も射殺される。チェンツォ・レーナはドイツ兵を射殺したと名乗り出て銃殺される。犬はイッポーリトの代わりであり、ジュゼッペがドイツ兵を殺したのは犬の復讐として機能する。だから(構造としては)チェンツォ・レーナは自分がドイツ兵を殺した、として銃殺されたのだろう。

3.燃やされた回顧録とアンナが語ることの意味
 物語の最後で、アンナは生き残った人々と再会し、亡くなった人々の最期や、今までの出来事を語り合う。物語はアンナの視点で語られる。
 物語の冒頭で父は『真実のみ』というタイトルの「分厚い回顧録」を書いていたが、死が間近になったある日「最初から書きなおさねばならん」と言って暖炉の火にくべて燃やしてしまう(17頁)。チェンツォ・レーナが回顧録なんて意味がないと言ったことが、彼と父との仲たがいの原因だったことが後に明かされる。また、物語の前半で反ファシズムの地下運動にのめり込むイッポーリトとエマヌエーレが、ダニーロの逮捕によって身の危険を感じ、地下文書をすべて暖炉で燃やす場面もある。
 けれどもアンナの語りは完成する。
 アンナはチェンツォ・レーナから、「ずっと虫の群れのなかで虫のように生きてきた」(176頁)と言われ、「結局ぼくはまだきみを一人前の人間にしてやっていないから、結局きみはまだ虫のままだから」「ぼくはきみにとって大きな葉っぱにすぎなかった」「ぼくはきみに飛ぶことも息をすることも教えてやれなかった、ぼくは一枚の葉っぱで、ほんのちょっと休ませてやっただけだ」(212頁)とも言われる。「虫のよう」でない生き方をするためにはどうすれは良いかというアンナの質問に彼は答えないが、彼が「攻撃的で自由な気分」だったという、結婚を決めた日、アンナも「少し寒気がする」と言い、床屋でいっしょに鏡を見たときにはいっしょに笑い、その前日に子供のことを話したときにも、アンナは「言葉を探す必要がなかった」(124頁)。
 物語の最後まで、アンナが「虫」の生き方ではなく人間になれたのか、飛ぶことや息をすることが覚えられたのかは明示されない。それでも物語がアンナのものとして語られ、
 そして自分たち三人がいっしょにいて、死んだすべての人たちを、長かった戦争と苦しみと喧騒を、そしていま自分たちの目の前にあり、自分たちがどうすべきなのかわからないすべてのことで満ちている長く困難な生のことを思っているのがうれしかった。(259頁)
と語り終えられることは、アンナが虫のようではなく人間として、自分の言葉で生きてゆこうとすることを意味するだろう。

******
現在里親探し中のわんこたちです。うめちゃんもこちゃん、どんどん育っています(今は写真とだいぶ違います…)。

空ちゃん
→2016年6月にもらわれていきました。


もこちゃん(左)→里親さん見つかりました
うめちゃん(右)→募集を終了しています。


夢ちゃん→6月からいったん募集を終了しています。


さちちゃん→6月からいったん募集を終了しています。

子供の頃の感覚について:森茉莉「幼い日々」

2014-08-24 11:47:28 | 書評の試み
子供の頃の感覚を言葉にするのは難しい。
子供の頃は、言語によって世界を分節化する能力が未熟だったし、けれども今とは何か違う感覚世界を生きていたから。

うちの中できょうだいでいろいろな物語を作り、遊んでいた幸福な時間と、よく分からないルールで動いている学校の、不条理な時間。

死んだらどうなるのかな、とか、時間って何なのかな、とか。
今はもう全部終わっていて、ただそれを思い出しているだけなんじゃないのかな…とか、今よりずっと抽象的なことを考えていたように思う。

『甘い蜜の部屋』については以前このブログでも触れたことがあるし、論文も二本ほど書いたことがあるので、ここでその内容について詳しく述べることはしないが、いつ終わるともしれない幼い日々の、幸福な時間を言語化しえている点でも森茉莉の文学作品は稀有だと思われる。

その特徴が最も顕著に表れている作品の一つに、「幼い日々」があるだろう。

まっすぐに続く時間ではなく、何か水あめとか蜂蜜のようなものでできた時間の中を生きる感覚。
すべてのものが薄いくもり硝子のようなものを通して入ってくる。

 小さい時の思ひ出を書かうとすると何から書いていいか分らなくて、ただ一時に或る一つの世界が心の底に、拡がつて、くる。(8頁)

と書きながら森茉莉は、「帰るだらう父を待ち、母を恋して暮した」、「長い長い、幸福な日々」(41頁)をみごとに特権化しえている。

それがやがて終わることを知っている私たちは、ほんのりとした切なさを感じる。

私の幼い日々は、いつ終わってしまったのだろう。
いつかこんな風に、それを言語化することができるだろうか。

*引用は『森茉莉全集1』(筑摩書房、1993年)による。



銀林みのる『鉄塔武蔵野線』をいま、書き換える

2014-03-11 14:32:30 | 書評の試み
 少し古い話題となりますが、2013年12月に、25回続いた日本ファンタジーノベル大賞の休止が発表されました。
 第1回の酒見賢一『後宮小説』(1989年)、第3回佐藤亜紀『バルタザールの遍歴』(1991年)、最近では第15回の森見登美彦『太陽の塔』(2003年)など、ファンタジーの概念を拡張するような硬質な、あるいは実験的な作品を世に出してきました。また、賞のレヴェルが高く、小野不由美『東亰異聞』、恩田陸『球形の季節』『六番目の小夜子』など、最終選考に残った作品が刊行されることもありました。

 銀林みのる『鉄塔 武蔵野線』も大賞受賞作のひとつ(第6回、1994年)。とりわけ異彩を放つ作品です。あらすじは極めて単純。
 「199☓年の夏」、郊外に引っ越すことになっていた小学5年生の「わたし」は、

〈この鉄塔を最後の最後まで行くと、秘密の原子力発電所があって、そこから鉄塔は電気を貰ってるんだ〉(27頁)

と思い、仲良しの「アキラ」と鉄塔をたどる旅に出る。瓶の王冠で作ったメダルを、鉄塔の「結界」に埋めるという儀式を行いながら。途中で自転車がパンクしたアキラが引き返し、「わたし」も二日目の夕方、4号鉄塔まで辿ったところで保護される(捜索願が出ていた)。
 ところが後日、「日向丘変電所」の所長が二人を招待し、すばらしい風景を見せてくれる。
 大量の鉄塔の写真が添えられていることも、特徴です。

 地方と都会の、エネルギーをめぐるつながりが、鉄塔の美しさや鉄塔への郷愁とともに、鉄塔を汗みずくになって辿るという、「わたし」の身体感覚によって描かれます。そしてまる二日間、汗みずくになって自転車を漕いでも、「原子力発電所」どころか、1号鉄塔の変電所にすらたどり着けない。

 設定は個性的ながら、ノスタルジアを感じさせる上質なファンタジー。
 であることは変わらないのですが、福島第二原子力発電所の事故があった今や、この小説がかつてとは違った、異様な意味を持ちはじめていることに気づきます。

 なぜ、「水力発電所」ではなく「きっと原子力発電所だ」ということ、「秘密の原子力発電所」であることが、「衝撃的な発見」(27頁)であり、鉄塔を辿る旅に導くようなファンタジーとなりうるのでしょうか。そこには、「原子力発電所」が、なにか異様なものであるというイマジネーションがあるように思われます。

 鉄塔を辿っていった先、「秘密の原子力発電所」がどうなったのか、今では誰もが知っている。事故処理の作業員以外「秘密の原子力発電所」に近づくことなんかできないことを、今では誰もが知っている。そこから電気を貰っているのではなく、いまだに放射性物質が拡散され続けているのだということを、誰もが知っている。

 いま、鉄塔を辿りなおすとしたら、いったいどんなファンタジーが可能なのか。結界には何を埋めなければならないのか。
 残念ながらファンタジーノベル大賞は休止してしまいましたが、『鉄塔 武蔵野線』の続きが、書かれなければならないように思います。

*銀林みのる『鉄塔 武蔵野線』新潮社、1994年。