人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

論文の価値について。

2014-03-28 21:11:04 | 仕事と研究
 たぶん、小保方さんの博論コピペ問題からの流れだと思うんですが、
卒論代行業者というものがあるらしく、話題になりました。

・「学生の代わりに業者が書く「卒論代行サービス」 利用したら「法律違反」になる?」(弁護士ドットコム 3月24日)

 検索すればいくつか代行業者のサイトもヒットします。
 法的にどうとか、倫理的な問題がどうとかはここでは取り上げません(まあ、ふつうに考えれば倫理的にはアウトでしょう)。
 ここで考えたいのが、論文の金銭的な価値について、です。

 一文字10円、2万字程度の卒論であれば20万円。これ、決して安い金額じゃないと思います。
 そのなかからどれほどの金額が代筆したライターに渡るのかは分かりませんが、少なくとも依頼した学生にとっては、20万円の価値があった、ということです。
 
 一方で研究者は、よほど特殊な有名人でもない限り、論文で原稿料を貰うことはありません。
 それどころか、学会誌の場合は会費を払って会員になっている場合のみ投稿の資格がありますし、博士論文を単行本として刊行する場合など、100万円程度を持ち出して出版します。
 その分野のなかで一流の学会誌でも、ちいさな大学の紀要でも、依頼原稿でも投稿原稿でも、基本的には変わりません。
 学会の運営にも出版にも費用がかかりますし、自分の業績にもなることですから、当然です。

 ですが、何か変じゃないですか?
 一流クラスの学会誌に載った論文や研究書は0円なのに、それよりはるかにレヴェルの低い卒業論文を代筆すれば、それなりの対価が得られるわけです。

 論文の価値ってなんなんでしょう?
 論文の価値は値段ではかられるものではないとは思いますが、われわれも霞を食って生きているわけではありません。

 売れるものにのみ価値があるという資本の論理を信奉する人たちにとっては、一流クラスの論文や研究書よりも、代筆された卒業論文のほうが価値があるんでしょうか?

調べ物のやり方について。

2014-03-25 20:47:24 | 教育・研究・日本語表現と方法
数日前にツイッターのTLで回ってきた記事に、次のようなものがあります。

STAP細胞をめぐる一連の大騒動」(『西日本新聞』2014年3月23日)。

この記事、ほんとひどくて、
本来、研究は人、社会に役立つべきものと思うが、ネット上の論文には個人的な知的遊戯に浸っている物が少なからず散見される
という部分に関して、真面目に反論されていた方も多かったのですが…
どうもそれ以前の問題が多すぎる。
これからレポートや卒論を書く学生さんが注意すべき点も多いと思いますので、ここで取り上げることにします。

まず、文章の構成について。
第一段落は、小保方さんをめぐる一連の騒動の話なのですが、第二段落で論文の話になります。
大学教員などの公募サイトをのぞくと、論文提出を求めるケースが大半だ」の部分、ここまでならまだ何とか、大学就職のために業績を焦った結果博論のコピペやSTAP論文の不備or捏造が起こったのかと推測した、
という文脈かなと解釈できます。
ただし、そういう説明ないけどね。
でも、続く「脳みそが軽いわが身には」云々のくだりは、どう読んでも第一段落からの脈絡が見出だせません。
STAP細胞はどこへ行った…!

これだけ短い文章のなかで、話題が二転三転するというのは、ふつうありえません。
(1)論点を絞ること
(2)前の部分を受けて続く部分を展開すること
(3)結論は明確に、
       序論(立てられた問い)と対応するように
(4)タイトルは内容を的確に表すように
気をつけるようにしましょう。

そして第二段落の、
ネット上に公開された大学などの論文にある「解釈的文脈」「モダリティ辞」「ディアスポラ」「語用論」って何?
という部分。
彼がなぜ論文なんぞ閲覧したのかは分かりません。
ただ、ひとつはっきり言えるのは、いきなりネットで論文検索すんなよ、ということ。
ネット上で閲覧できる論文って、紀要など小さな雑誌が多い。
査読なし、評価もよくわからないものが多い。
もちろん中には重要なものがないわけではないですが、それは自分で読んで判断しないと分からない。
内容はおろか用語がわからないという人がいきなり読むようなものじゃないのですよ。

何かで記事を書く必要があって、その下調べのためだった、と仮定してみましょう。
その場合は、
(1)辞書類などレファレンス
(図書館に行けば必ずレファレンスコーナーというのがあります。分からなければ司書さんに聞いてみましょう)

(2)その分野のなかでガイド的な叢書や雑誌

(3)論文
の順で調べてゆくのがふつうです。

論文を探すときも、(2)で言及されている論文→芋づる式に誰かが注にあげている論文を拾ってゆくのが効率的ですが、
検索するのもいきなりネットで検索するのではなく、図書館などのデータベースを利用した方がいい。

たいてい、どこの大学図書館でも論文検索のデータベースを入れてると思います。
Ciniiとか、MagazinePlusとか。
大学図書館でないと利用できないのがつらいですが…
→すみません、Ciniiはネット環境があればどこでも利用できます。
私は専門が日本文学なので、国文学研資料館の論文目録データベースをよく利用しますね。
ここは登録すれば無料で利用できます。

調べ物の仕方、図書館の使い方については、これがおすすめ。
井上真琴『図書館に訊け!』(ちくま新書、2004年)
面白いです。

ちなみに、「解釈的文脈」は特に何かの用語というわけではないかな。
解釈も文脈もふつうにつかう言葉ですので、ちゃんと推測してね。

「モダリティ辞」と「語用論」は言語学などで用いられる用語。
モダリティ:話し手がある事柄についてもつ判断の内容。事柄が真実である可能性の程度や、命令・義務・許可など。日本語では「きっと」「たぶん」などの副詞、「ようだ」「らしい」などの助動詞のほか、「はずだ」「かもしれない」などさまざまの語句で表す。法性。(『広辞苑』第6版、2008年)
語用論:記号論の一分野。言語を含む記号の通信者が、記号をどう使用するか、また記号の受信者が、どう理解するかといった、通信者、受信者間の言語記号の用法についての理論。言語実用論。(『精選版 日本国語大辞典』2006年)

「ディアスポラ」はユダヤの民や、移民などに関して使われる用語。故郷が失われた民、みたいな文脈。思想系で使われることが多いかな?
ディアスポラ:「離散」の意で、主としてヘレニズム時代以後、ユダヤ人がパレスチナ以外の世界に広く移住したことをさす。このディアスポラのユダヤ人を有力な母体として原始キリスト教が伝播した。(『山川 世界史小辞典』2004年)
(↑引用は手元にある電子辞書に入っているものからなので、適当ですが。もっと適切なものがあると思う)

最後にもう一度いいます、いきなりネットで論文検索とかしないでください
それじゃ分からなくて当然です。
そんな調べ方じゃ、私だって分からない!




エレーネ・ゲデバニシビリ選手のソチ・オリンピック

2014-03-20 21:48:40 | フィギュアスケート
先日、久々にゲデバニシビリ選手の公式ホームページを見てみたら、
バンクーバー以来、かな、で更新されてまして、ウクライナについて書かれてました。

ウクライナ情勢はクリミア半島がロシア連邦に編入される、とかますます泥沼。
中・東欧の国々は、ロシア寄りの政策を取るか、西側寄りの政策を取るかいつも難しいんだろうなあ…

世間ではもう世界選手権になっているようですが、
ゲデバニシビリ選手はそもそもエントリーしてないんですよね、つまんないの。

私、オリンピックではゲデバニシビリ選手の演技を見逃すという一生の不覚がありまして…
昨日やっと演技を見ることが出来ました。

ショートプログラムはタンゴ。
3ルッツ+2トーループ、3サルコウ、2アクセル。
ジャンプは全部きれいに入りました。
良かったです。点数出ませんでしたが。
ジャンプ高いし、迫力あって、素敵。
スピンでレヴェルとれてなかったのもあるみたいですが、やっぱり点数渋めなのかな~と思ってしまうところ。

フリーはドン・キホーテ。
2つ目で回転不足&転倒してしまいましたが、2回3ルッツが入る構成。
後半のジャンプはかなり回転不足をとられていて、技術点が伸びませんでした。
昨シーズン使用したプログラムで、ヨーロッパ選手権後に戻してきました。
ちょっとお疲れの印象で、だいぶ脚にきてるのかなあ…
ジャンプにもいつもの高さがなかったように思います。
でも、最後まで頑張って、全体的な印象は悪くない。

終わった後にほっとした表情で、あのスーパーモデルのような女性にもたれかかっていたのが印象的でした。
グルジアとロシアの関係だけでなく、何か他にも、オリンピック出られるかどうか分からない不安要素があったのかも。
昨シーズンはずっと肩にテーピングしてましたし、
今シーズンもスピンの様子など見てると何か少し固そうで、どこかに故障があったのかもしれません。

お疲れ様でした、でもいつかまた、ベストな状態での演技がみたいな~

今回のオリンピックは、若手が台頭してきて、
エレーナ・グレボワ選手なんかフリーに進めなかったし、ショック。

ゲデバニシビリ選手やキーラ・コルピ選手、グレボワ選手などは、
それより少し上の、安藤選手やコストナー選手ほど
新採点と体形変化時期が重なって苦労した世代ではないと思っていたのですが。
やっぱり最初から新採点でやってきた今の若手に比べると割りを食ってるなあ、という感じはしますね。
エッジエラーや回転不足の厳格化などもありましたしね。
もうちょっと、見てたいんですけどね…

銀林みのる『鉄塔武蔵野線』をいま、書き換える

2014-03-11 14:32:30 | 書評の試み
 少し古い話題となりますが、2013年12月に、25回続いた日本ファンタジーノベル大賞の休止が発表されました。
 第1回の酒見賢一『後宮小説』(1989年)、第3回佐藤亜紀『バルタザールの遍歴』(1991年)、最近では第15回の森見登美彦『太陽の塔』(2003年)など、ファンタジーの概念を拡張するような硬質な、あるいは実験的な作品を世に出してきました。また、賞のレヴェルが高く、小野不由美『東亰異聞』、恩田陸『球形の季節』『六番目の小夜子』など、最終選考に残った作品が刊行されることもありました。

 銀林みのる『鉄塔 武蔵野線』も大賞受賞作のひとつ(第6回、1994年)。とりわけ異彩を放つ作品です。あらすじは極めて単純。
 「199☓年の夏」、郊外に引っ越すことになっていた小学5年生の「わたし」は、

〈この鉄塔を最後の最後まで行くと、秘密の原子力発電所があって、そこから鉄塔は電気を貰ってるんだ〉(27頁)

と思い、仲良しの「アキラ」と鉄塔をたどる旅に出る。瓶の王冠で作ったメダルを、鉄塔の「結界」に埋めるという儀式を行いながら。途中で自転車がパンクしたアキラが引き返し、「わたし」も二日目の夕方、4号鉄塔まで辿ったところで保護される(捜索願が出ていた)。
 ところが後日、「日向丘変電所」の所長が二人を招待し、すばらしい風景を見せてくれる。
 大量の鉄塔の写真が添えられていることも、特徴です。

 地方と都会の、エネルギーをめぐるつながりが、鉄塔の美しさや鉄塔への郷愁とともに、鉄塔を汗みずくになって辿るという、「わたし」の身体感覚によって描かれます。そしてまる二日間、汗みずくになって自転車を漕いでも、「原子力発電所」どころか、1号鉄塔の変電所にすらたどり着けない。

 設定は個性的ながら、ノスタルジアを感じさせる上質なファンタジー。
 であることは変わらないのですが、福島第二原子力発電所の事故があった今や、この小説がかつてとは違った、異様な意味を持ちはじめていることに気づきます。

 なぜ、「水力発電所」ではなく「きっと原子力発電所だ」ということ、「秘密の原子力発電所」であることが、「衝撃的な発見」(27頁)であり、鉄塔を辿る旅に導くようなファンタジーとなりうるのでしょうか。そこには、「原子力発電所」が、なにか異様なものであるというイマジネーションがあるように思われます。

 鉄塔を辿っていった先、「秘密の原子力発電所」がどうなったのか、今では誰もが知っている。事故処理の作業員以外「秘密の原子力発電所」に近づくことなんかできないことを、今では誰もが知っている。そこから電気を貰っているのではなく、いまだに放射性物質が拡散され続けているのだということを、誰もが知っている。

 いま、鉄塔を辿りなおすとしたら、いったいどんなファンタジーが可能なのか。結界には何を埋めなければならないのか。
 残念ながらファンタジーノベル大賞は休止してしまいましたが、『鉄塔 武蔵野線』の続きが、書かれなければならないように思います。

*銀林みのる『鉄塔 武蔵野線』新潮社、1994年。