人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

謹賀新年

2021-01-01 10:47:04 | 日記
 明けましておめでとうございます。
 本年もどうぞよろしくお願い致します。

 旧年は本当に何が何やらよく分からないままに過ぎて、いろいろな意味でしんどい年でしたが、本年が少しでも良い年になるように祈っています。

 旧年中に発表したものとしては、査読のない論文が1本、依頼原稿1本、口頭発表1本で、少し寂しい1年になりました(最後に、『ユリイカ』の依頼原稿を書けたのは良かったですが)。
 なかなかまともに自分の文章や研究に向き合うことのできない状態が続き、これではだめだな、と身に沁みましたので、本年はきちんと自分の文章に向き合える年にしたいです。
 自分で食べていかないといけないと思うと、どうしてもしんどいことになるのですけど、そういう生活を続けていては、結局先がないので。

 非常勤先で担当している、日本文学と、ポップカルチャー論の授業は、本にしたいと思っています。
 ずっと言っていることなのですが、博士論文をもとにした専門書も出したいのですが、それはもう少し金銭的にも時間的にも余裕がないと難しいかな、と思っています。

 とりあえず、ちょっと幸せになりたい(もっとわんもふと長く一緒にいたい)です。


(うちの今年の年賀状です、弟作成)。

『ストーリー・オブ・マイライフ 私の『若草物語』』感想

2020-12-30 10:51:23 | その他レヴュー
 少し前になりますが、『ストーリー・オブ・マイライフ 私の『若草物語』』見たので感想書いておきます。

 私はもともと『若草物語』の中では三女のベスが一番好きで、父の帰還を待つ最初の話では猩紅熱から回復するけれど、姉妹たちがそれぞれ結婚したり、自分の世界を切り拓いたりする続編では、自分の小さな世界を守ったまま死んでいくところがとても好きでした。

 子供のころはジョーが好きだったんですけど、ジョーの生き方は、戦っているように見えて、お金を稼ごうと思うと編集者の求めるものを書かないといけなかったり、妥協して、(資本主義)社会の中で求められる枠組みの中で生きていくしかないんですよね。

 それに比べてベスは、内気すぎて学校にも行けない、ピアノが好きなのも誰かに聞かせたいわけではなくて、
自分のために弾いている(聞かせたいのは、せいぜい家族とお隣のローレンスおじさまくらい)。
 社会で戦うことはしないけど、その分自分の小さな世界を守っていくことができる(おうちの中から姉妹が出ていってしまうと、死ぬしかないですけど)。
 そういうところがいいなあ、と思っていました。というか、自分はジョーではなくベスだな、と。

 今回の映画『ストーリー・オブ・マイライフ 私の『若草物語』』は、姉妹たちの時間が失われた時点から始まって、姉妹たちの時間が振り返られ、重ねられるかたちで作られています。

 例えば、ベスが猩紅熱から回復する朝と、亡くなってしまった朝。
 マーチおば様のところに預けられているエイミーが帰ってくるのと、マーチおば様といっしょにヨーロッパに滞在していたエイミーが帰ってくるのと。
 ジョーが自分の髪を売ってお金を得たところと、原稿(ペンネームで書いた刺激的な内容のもの)を売ってお金を得たところと。

 猩紅熱をまだやっていなかったエイミーが、マーチおば様のところに隔離されたときには、ローリーがいろいろ連れ出してあげるよ、と言って結構相手してるんですよね。
 続編のほうではそのローリーと結婚して帰ってくるわけで、そのあたりも重ねて展開してるんだな、という構造に、映画を見て気づきました。

 エイミーは本当によかった!
 演技が上手で、「私が支えるから世界一の女優になってよ」というジョーに対して、「私は普通の幸せが欲しいの」と言ってブルック先生と結婚するメグ、
 社会と戦って小説家になるジョー、
 ピアノが好きで、自分の小さな世界のなかだけで生きていて、姉妹たちが大人になるころに死んでしまうベス、
 絵が上手だけど、「私は中くらいなのよ」と言って画家になることはあきらめ、ローリーと結婚するエイミー。

 『若草物語』の中では、姉妹のそれぞれが、才能を持ちながらも、当時の社会の構造とどう向き合うかが描かれているのだと思いますが、今回の映画では特に、エイミーとジョーとのライバルでもあり、理解者でもある関係が際立って描かれていたと思います。

 エイミーは『若草物語』の最初の話ではまだ半分子供で、ある程度自由に動くことができるのですが、
 映画の現在時点でローリーとのやり取りが描かれるあたりでは、大きなフープの入ったスカートをはいて、本当に不自由そうで(動きが抑圧されていて)、自由にひょいひょいと動く(美しい)ローリーとの対比が際立ちます。

 一方でジョーは大人になった後も、大きなフープ入りスカートをはいたりしないので、自由に走ることができます(でもそれって社会と戦っているからで、着るものから全部社会と戦うのは本当にしんどいことなんですよね)。

 エイミーはローリーに「私はジョーの代わりじゃない」と言いますが、実はエイミーにとってのローリーは、「ジョーの代わり」だったところもあるんじゃないかと思います。

 最初の話(映画では過去の回想)の中で、一緒に連れて行ってもらえなかったエイミーが恨んで、ジョーの原稿を焼いて、ジョーが激怒するというエピソードがありますが、エイミーはジョーの原稿がどうでもいいと思っていたわけではなくて、他のものではジョーにショックを与えられないと思って、原稿を焼いてしまうんですよね。
 ちゃんと理解してる。

 一方で映画の現在時点では、ジョーは病気が悪くなったベスに、「私たちの物語を書いて」と言われていて、ベスが亡くなった後、屋根裏でベスの人形を見つけて、「私たちの物語」を書き始めます。
 ベスが亡くなってしまっても、ジョーが書くことによって、小さな世界は再構成され、永遠になります。

 でもジョー自身は「大事なことを書いているわけではない」「家族の小さな物語」だと言っているんですよね。
 それに対してエイミーが「書かれることによって大事なことになるんじゃないかしら?」と言い、ジョーは「結構いいこと言うじゃない」と言う。さらにエイミーは、前から結構いいこと言ってるのよ、いったい私の何を見ているの、と返すわけですが…。
 そこがすごく良かったです。
 外見は普通のエレガントな当時の女性らしい恰好をしていて、ローリーと結婚しても、心はジョーと共にある、一緒に戦っているんだ、と主張しているように見えました。

 編集者に言われて、結末をジョーが結婚する話に書き換えた部分では、ジョーの結婚相手としてつくられた「ベア先生」が、ベスのピアノを弾くのも、良かったです。出版してもらうための「妥協」ではあるのですが、その、妥協であるフィクションによって、ベスのピアノを鳴らす、というのが。


 





 

『ユリイカ』2021年1月号に「祈りのウサギ:『MIU404』第4話の編みぐるみ」を寄稿しました。

2020-12-26 23:12:08 | 研究・発表・イベント等情報
こんばんは。

なんだかよく分からないままに過ぎていった1年でしたが、
今年ももう残り一週間を切ってしまいました。

本日発売日の『ユリイカ 特集=ぬいぐるみの世界』に、
論考を寄稿しましたので、告知いたします。

今夏放送された『MIU404』(脚本野木亜紀子、TBSテレビ金曜ドラマ)第4話で重要なモチーフとなっているウサギの編みぐるみに関する考察で、
こちらで考えたことを、手芸とジェンダー、編み物と文芸行為などの観点から発展させたものです。

それから、『逃げるは恥だが役に立つ』に出てくるAI(ロボホン、ペッパー君)と、クマのぬいぐるみの話も少ししています。

本当に祈るような気持ちで書いた論考なので、
読んでいただけると嬉しいです。
どうぞよろしくお願い致します。

パラボリカビス「山尾悠子『飛ぶ孔雀』文庫化記念展示/「薔薇色の脚」中川多理」行ってきました。

2020-12-14 14:04:04 | 人形論(研究の話)
少し前のことになりますけども、パラボリカビスの最終展示、
山尾悠子『飛ぶ孔雀』文庫化記念展示/「薔薇色の脚」中川多理
に行ってきましたので、その報告を書いておきます。
本当は記憶が薄れないうちに、すぐに書くつもりでいたのですけれども、ずいぶん時間が経ってしまいました。

 

11月23日(月)、最終日の夕方16時頃に行きました。
この季節のことで、訪れたときにはあたりはほとんど薄闇で、帰りは真っ暗でした。
方向音痴の私が、地図をプリントアウトしないでもちゃんと迷わずにたどり着けるくらい、ああ何回も通ったんだなあ…と感慨深かったです。

今回の「薔薇色の脚」は2階のメインのスペースで、
1階の入って右側のスペースに、以前の「最終展示」で展示されていた高岳親王のお人形、
2階のもうひとつのお部屋でガレージセールが開催されていました。

会場は予約制で、ゆったりとした時間を過ごすことができました。
すごく鬱々とした気分で、何も自分の人生が拓けてこないような気持ちでいたときに展示を見に行ったのですが、
見上げるとお人形と目が合う位置に席をいただいて、
他のお客様もいたのですが、しばらくお人形と一対一で過ごしたような気分に浸れて、
ずいぶん癒されました。
最終日で余っているというので、ワイン1杯100円だというのを注文したのですが、
手違いで2杯出てきてしまい、
美味しいしもったいないと思ったけれど、さすがにあそこの手すりのない階段から転げ落ちたらいけないので、
2杯目は無理でした。

小説の『夢の棲む町』のなかで薔薇色の脚は、脚だけ肥大して上半身はほとんどないという、
グロテスクなイメージだったのですが、
そこはやはりお人形なので、
メインの脚は筋肉のつき方やタイツ、トゥシューズの擦り切れ方までひたすら魅力的であることはそのままに、
上半身は小さ目ながらも美しい顔をしていました。
スタッフさんが時々角度を変えてくださっていたのですが、
ほんのちょっとした動きで、崇高にも、あどけなくも見えてしまうのが不思議。
関節の動きもすごくなめらかそうでした。

演出家たちに脚に言葉を吹き込まれて脚だけ成長した薔薇色の脚たち、
その脚たちが「言葉」を抜き取られた後、
演出家たちの遺体を踏みつけながら劇場の中で踊り狂う「言葉を越えて美し」い場面、
それが言葉によって表現される、『夢の棲む町』の世界
(とは言え視点生物の夢くい虫のバクは眠りこけているのだけど)。
その世界を、言葉ではない人形という手法で表現した中川多理さんの展示。

ここ何年か、中川多理さんと山尾悠子さんの新作コラボレーションがあって、
でもパラボリカビスの本当に最後の展示が、山尾悠子さんの比較的初期の作品である『夢の棲む町』がモチーフの、
「薔薇色の脚」というのが、
『夢の棲む町』が円環モチーフの小説だということもあって、
なんだかくるっとひとまわりしたような感じで面白かったです。

思えば、私が山尾悠子さんの小説に出会ったのは、1999年の『山尾悠子作品集成』(国書刊行会)でした。
まだ学部生でした。
かつての『夜想』の休刊を知ったのと、同じころ。
その後トレヴィルの出版活動はエディション・トレヴィルが引き継いで、
『夜想』の第二期(?)が刊行されるようになり、
展示室「パラボリカ・ビス」が開館して、通うようになりました。
大学院生のころだったかなあ…、それからでももう15年くらい経ちますね。

私は大学院を修了して、父が亡くなって、就職したり転職したり、
犬のいない生活に耐えられなくて実家に帰ったり、
隠居生活のような毎日に耐えられなくて東京に出てきたりしながら、
いつか、ちゃんと安定した収入を得られるようになって、
お人形を買えるようになりたいな、と思いながら通っていましたけれども、
結局そうならないまま、パラボリカビスは閉館になりました。

いつかまた、今度こそちゃんと私にきちんとした収入のある時に、
別のかたちで出会えたらいいなと思っています。

 
帰りにはあたりはすっかり真っ暗でした(それにしても私の写真の下手なこと…)。

『大和物語』141段の二人の妻

2020-11-13 12:01:39 | 日本文学
『大和物語』141段が、数年前からずっと気になっています。

 大和の掾といっていた男に、本妻(もとの妻(め))と新しい妻(筑紫から連れてきたので「筑紫の妻(め)」)がいたんだけど、男はよその国(ここでいう国は、筑紫の国とか大和の国とか武蔵の国とかのこと)に行ってばかりであんまりいない。だから本妻と筑紫の妻は二人仲良く暮らしていた。筑紫の妻はときどき浮気なんかして、それを正直に本妻に打ち明けたりして、その正直な様子がまた可愛くて、二人仲良くしてたんだけど、そのうち男の愛情が薄れてきて筑紫の妻をあんまり大事にしてくれなくなった。だから筑紫の妻は親きょうだいのいる筑紫に帰ることになり、男も愛情が薄れていたのでとめなかった。で、筑紫の妻が船に乗るところまで、本妻と男はお見送りに行くんだけど、本妻はもともと仲が良かったからすごく悲しむし、男もいよいよお別れとなると悲しくて、筑紫の妻の顔がずっと小さくなるまでこちらのほうを見ているのを、悲しい気持ちで見送っていた、というお話。

 この話、以前勤務していた塾の教材にあって、当時私は新人講師だったので研修がてら授業見学させてもらってた、(私より若い)男の先生が、分からない、よく分からない話だ、って繰り返していたのをよく覚えています。私は、夫はほとんど帰ってこないと言ってるんだから話が合う相手としては妻同士しかいないのはよく分かるし、夫はほとんど帰ってこないで妻たちだけで仲良く暮らしてるなんて理想だ…って思ったんですけどね。でも自分が授業で教えたときも、生徒さんによく分からない、って言われたので、よく分からないと思う人のほうが多いのかもしれないです。

 最近、古典の登場人物たち(といってもすべての古典文学が分かるわけではないので、私が専門としている『源氏物語』がメインですが)はセクシャリティに悩まないよな、ということを考えています。必ずしもみんな異性愛者であるわけではなかったと思うのですが、悩まない。

 もちろんそこには、そもそもセクシャリティという概念がないことも大きいとは思います。ときどき、近代以前の寺院での稚児愛や、近世の衆道について、近代以前の日本はおおらかで性の多様性に寛容だった、というようなことを言う人がいて、それはちょっと違うと思うのが、まずは個々の文脈や歴史があるということももちろんなのですが、そもそもセクシャリティやアイデンティティという概念がなく、セクシャリティとアイデンティティが結びついていない世界だということを考えないといけない、ということです。

 もうひとつ思うのは、仮に結婚して夫なり妻なりを好きになれなかったとか、嫌で嫌で仕方がなかったとしても、今のような一対一のモノガミー社会じゃないから何とかなったんじゃないか、ということです。夫は別の妻なり愛人なりを作ってもいいし、何なら妻の女房に相手してもらってもいい。もちろん夫に新しい妻なり愛人なりができることは、自分の地位や権利が脅かされるかもしれないことであって、物語の中には、夫の妻や愛人に圧力をかける登場人物もたくさん描かれています。妻同士が気が合うかどうかもいろいろでしょう。『大和物語』141段も、筑紫の妻は夫が好きで連れてきた女性で、もともと妻同士が友人であったわけでも何でもないので、妻同士気が合ったのは、運が良かったのかもしれません。

 また、夫と妻がうまくいかなくなったら、結婚状態が解消されて、結局自分の生活あらどうしましょう、みたいなことになることだってあったでしょう。『源氏物語』の中の女三の宮や末摘花は、自身の身分がものすごく高かったからとか、源氏が何となく面倒見が良かった(あるいは末摘花に土地があった)から幸運だっただけで、末摘花なんてあのまま源氏に再発見されなければ死んでしまっていたでしょう。
 それでもやっぱり、自分のセクシャリティについて真剣に考えなくてもよい、優しい世界のように思えてしまうのです。

『大和物語』141段の本妻は、夫がほとんど帰ってこなくても浮気ひとつせず、新しい妻を可愛い可愛いと言って仲良くしていたのだから、異性愛傾向があんまり強くないのかもしれません。でもいくら本妻と筑紫の妻とが仲良くても、筑紫の妻は男の妻としてそこにいるわけなので、男との恋愛・性愛関係がうまくいかなくなれば、去ってしまうことになる。

 男の愛情が薄れて、筑紫の妻を筑紫に帰すことになったのに、いざ別れる段になると男が悲しむのは、矛盾であるとか、いや矛盾を含んだ人間の姿なんだとかいろんな注釈書で議論されていましたが、そうではなくて、そこで男が悲しんでいるのは、恋愛や性愛の相手としての愛情は薄れてしまったけれども、何年か一緒に暮らした相手としての愛情がやはりあって、分かれるのはやっぱり悲しい(別れてしまうとたぶん二度と会えないでしょう)、ということなんだと思います。

おまけ
   
母から送られてきた、スリッパをかじるのすけちゃんの写真。