人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

お知らせ(着任・研究業績・KUNILABO)

2022-10-01 16:37:45 | 日記
2022年10月1日付で、東北大学文学部・大学院文学研究科日本学専攻現代日本学研究室に、特任助教として着任いたしました。
これまでより研究に集中できる環境に身を置けますので、たくさん論文や本を出したいと思っております。
どうぞよろしくお願い致します。

それに伴って、仙台に転居しました。
お引越しは本当に大変でした。
引っ越し準備では、いくら段ボール箱に本を詰めても終わらないと感じ、引っ越し後の片づけでは、いくら段ボール箱から本を出しても終わらないと感じました。
文系研究者のお引越しは地獄です。
ようやく本棚に並べ終って、本棚が足りないことが判明したので、1、2台また買わないといけません(自作はできません!)。
今は段ボールを縛る作業をしていたのですが、いくら頑張って持ち運びしやすいようにきちんと縛ろうと努力しても、絶対ゆるむので嫌になってこれを書いています。
基本的に体を使ってやる作業は全部苦手です。

新居は初めて自動で湯はりできるタイプのお風呂で、早速いろいろやらかしました。
1日目…お湯が多すぎて、湯船につかったらざばーんっと大量のお湯があふれる(ガス屋さんに少しずつ調整して設定してください…とは言われていたのですが、そもそも全く見当がつかず)。
2日目…「お風呂が入りました♪」と言われて入ろうとすると全然お湯がない。お風呂の栓をするのを忘れていた。いくら自動でも、栓は手動でしないといけない。
今日は洗面器を買いに行きます(旧居で使っていたのは湯垢でたいへん汚れていたので捨てた)。

既にスタートしていますが、KUNILABOの『源氏物語』ゼミは、今年度9月期も継続です。
非常勤先も、前橋国際大学(対面)と相模女子大学(オンライン)、東洋学園大学(オンライン)は継続です。
物語研究会の事務局代表も継続。意外といろいろ忙しいかもしれません。

最新の研究業績についてもアナウンスしておきます。
『文学・語学』235号に、拙稿「自然/人工と生殖:『源氏物語』における動物と人形」が掲載されました。
2021年度夏季大会のシンポジウム「動物・自然・環境:「文学」研究との接点をめぐって」における口頭発表をもとにした論考です。
『源氏物語』を中心に、生殖と結びつくものとしての動物表象、ジェンダー規範と結びつくものとしての人形表象および、喩えられる登場人物とのずれや葛藤を考察した論考です。
どうぞよろしくお願いいたします。

   
転居して、ようやくお人形さんのための空間を作ることができました。お人形は中川多理さんのもの。山尾悠子さんの小説『夢の棲む街』に登場する、「薔薇色の脚」という登場人物(?)をモチーフとした作品です。下段にいるのはフェリシモの猫ポーチたち+柴犬ポーチ。写真はのすけちゃん。


自分のセクシュアリティはよくわからないけれど…

2022-06-26 00:08:05 | 日記
完全なアセクシュアルやアロマンティックではないのだと思います。
何か薄膜を隔てた先にある感じで、すべてがぼんやりしていますが。
モフモフたちをモフモフするときの感覚はすごくはっきりしているのですが、
そういう感覚も、性愛関係の原初的なものだという見方もありますので、
完全なアセクシュアルではないんだろうなとは思います。

一つだけはっきりしているのは、私は「産む性」ではない、ということだけです。
そこの自認だけははっきりしています(「セクシュアリティ」ではないと思いますが)。
遠い昔、つらいつらい中学時代に、生理が始まって以来、ずっと違和感しかなかったですが、
もうあと何年か我慢すれば、そこからも解放されます。
(体外受精などするのであれば別ですが)産む可能性からは解放されます。
もちろん?ここ何年もそんな心配のない生活を続けていますが、
もし何かあったとしても妊娠することのない身体に戻れるというのは、本当にうれしい。

『恋せぬふたり』へのモヤモヤと、ルッキズムへの複雑な感情

2022-06-17 22:55:36 | 仕事と研究
少し前のことになりますが、また、就活に失敗しました。
詳細は省きますが、今の状況の中でキャリアを次につなげることの困難を改めて感じました。

非常勤講師の仕事だけで生活することは難しく、かといって非常勤のすきま時間の中でうまくやりくりできる仕事を見つけるのは難しい。
現在私の非常勤は前期5コマ、後期9コマですが、5コマで生活することは不可能で、9コマでもギリギリかちょっと足りないくらいです。
でも正直、授業準備のペースからいえば、5コマくらいでちょうどよいです。
新しい授業が一つあるので、教科書も固定だし、補助教材などは常勤の先生方が作ってくださっている授業ではありますが、
それでも準備に1日くらいはかかりますので(これが完全オリジナルの講義であれば、その何倍も時間がかかります)。
現在の非常勤講師のコマ給は、それで生きていけるようには設計されていないのだなあ、と改めて思います。

研究者の就活は、年度の途中から採用になるお仕事(特に任期付きなどの初期キャリアは)も多く、常に難しい判断を迫られますよね。
任期付の特任助教や准教授のポストは、任期があるとはいえ、非常勤とはお給料も全く異なりますし、各種保険もつきます。
その後の可能性も広がりますので、リスクはあってもトライしたいものではあるのですが…。
こちらがそう思っていてもなかなかかなわないものです。

研究を続けていると、自分の好きな仕事をしているのだから我慢しろ、
みたいな価値観に出会うこともありますが、
別に私は自分のやりたいことを仕事にしたいと思っていたわけではありません。

確かに院生時代に後輩たちの教育に多少なりともかかわることができたのは楽しかったですし、
結構向いているのかなと思ったりしましたが、
十分な稼ぎと余暇があり、自分の時間で研究を続けることが可能な仕事があれば、
(死ぬほどいやというわけでなければ)特に研究職を目指す必然性は自分にとってはなかったです。
研究職以外に研究を続けられる道がないと悟ったため、遅ればせながら研究職に的を絞ることになりました。
もしかしたら、ものすごく有能な人だったら何か別の選択肢があるのかもしれませんが。

で、そんな感じで生きているとやはり、現在世間で主流になっているような、
仕事にクリエイティビティや生きがいを求めるあり方がよく理解できません。
以前に、『恋せぬふたり』に関する評を、このブログでも書きましたが、
全般的にはよかったと思いつつも、主人公である咲子の仕事への向き合い方には違和感しかなかったです。

たぶん、私より若い世代の価値観なのだと思うのですが、仕事に生きがいとかやりがいとか「好きな仕事」というのを求めすぎる。
その癖して、その職場は「恋愛しろ」ということを強要するような場で、
いったいどこに生きがいだのやりがいだの好きな要素だの、というのがあるのか、まったく理解できないわけです。
資本主義社会の中で仕事をしていく以上、仕事というのは何らかのかたちで他者の欲望に当てはまったものであるはずなので、
そこに生きがいだのやりがいだのクリエイティビティだの好きだの、を感じられるというのは、
他者の欲望に自分の欲望を一致させられるという特技をお持ちなのだと思います。

その際たるものが、咲子が後輩から引き継いだ「恋する○○」シリーズの企画に、悩む場面です。
咲子は「恋」が分からないことから、自分がそんな企画を担当してよいのか、企画営業の仕事に向いてないんじゃないかと悩みます。
それは正当な悩みだと思うのですが、問題はそれに対する「カズくん」や高橋さんの対応と、それに咲子があっさり納得してしまうことです。
「カズくん」は、「企画部のおっさんたちが女子力フェアとか美容フェアとか」絶対わかっていない、ということを対比させつつ、
「恋愛」分からないでも「分かった気はいや!」「喜んでもらいたい」という咲子が「企画営業の仕事が向いていないわけない」と言い、
高橋さんも、「恋愛脳の人たちは勝手に何でも恋愛で補完」するから、「まずは咲子さんの納得できるものを…」、と言い、
咲子は何とあっさりそれに納得してしまいます。

私にとって、『恋せぬふたり』随一の、もやもやシーンでした。
咲子は企画営業の仕事として、「恋する○○」なんて仕事を担当するのであれば、
恋愛に関するイベントやフェアばかりの多い、恋愛至上主義社会に加担してるんですよ!
自分を苦しめたはずの、まさにそのものに加担してるんです。
でももちろん、人間誰しも生きていかなければいかないわけだから、仕事だと思って割り切っているならわかる。
それは仕方のないことで、自分で自分を加害しているという点において悲惨なことであるにしても、
責められるべきことではありません。

でも咲子は、「今は一番仕事が楽しい」とか、「好きな仕事」とか、「仕事も私生活もベストな状態」とか言うわけです。
私にはまったく理解できません。
恋愛しないマイノリティである咲子が、恋愛するマジョリティの欲望に奉仕することが、やりがいであり、好きな仕事であり、ベストな状態であるなんて。
恋愛しないマイノリティである「私」(咲子)が、恋愛するマジョリティである「みんなに喜んでほしい」ということを、
「やりがい」としているなら、何という奴隷根性でしょう。
どうして、恋愛するマジョリティである「みんな」ではなく、
恋愛しないマイノリティ、あるいは恋愛しないマイノリティも含むいろんなセクシュアリティの人に、喜んでもらえる商品を企画しないのでしょうか…。

この後、自分にとってルッキズムは(確かに問題あるにしても)もともとそんなに嫌いじゃなかった、
外見さえちょっと普通っぽくしてれば、自分の心を自由にしてくれるものだった
(でも今はそうじゃないね)、みたいな話を書こうと思ってたんですが、ちょっと疲れたな。
ルッキズムって、もちろんどんな人にとっても問題があるには違いないんだけど、
外見はとりあえず世を忍ぶ仮の姿!という人と、
外見やファッションにこだわりがあり、オリジナリティや自分らしさを表現しなければならないと考えている人にとって、
受け止め方が違うと思うんですよね。

私は氷河期世代の終りくらいですが、
私は学校の内申で積極性とか内面的なものが評価されつつあった時代において、
内面を評価するなんてとんでもない、内面は自由であるべきだ、という気持ちから、
外面を評価されることにはむしろそこまで抵抗がなかったです。
今は本当に、ファッションも外見も、内面や自分らしさを表現するものとされていて、
それがさらに仕事や就活や生きがいだのやりがいだのにつながっているので、息苦しいだろうなあと思います。

外見を評価するとか、内面を評価するとか、
もちろんそのどちらも仕事を判断する基準としては適切でなく、
はっきりと数値化できるものを評価すべきであるとしても。
資本主義社会の論理から自由になれる場所を確保しないと、
(仕事に)やりがいだの個性だの生きがいだの自分らしさを求めるだのは、
自分自身を商品化することになってしまって、息苦しいだけだと思うのですけど。

亜麻糸と髪の物語:佐藤亜紀『喜べ、幸いなる魂よ』

2022-04-03 10:57:13 | 佐藤亜紀関連
また少し、実家に帰ってきています。1週間くらいわんわんずと戯れます。
新年度になったはずなんですが、特に新しいこともなく、相変わらず生活や将来が不安です。
4月からも、またKUNILABOの講座を続けます。どうぞよろしくお願いいたします。

 佐藤亜紀の新作『喜べ、幸いなる魂よ』(KADOKAWA、2022年)は、18世紀のフランドル地方を舞台とし、亜麻を扱う商家、ファン・デール家に引き取られたヤンを主な語り手とする。ファン・デール家には双子の姉ヤネケと弟テオがおり、ヤンはヤネケのことが好きで、ヤネケはヤンの子供を生むが、生涯単身を選んだ女性たちが入る半聖半俗の「ベギン会」に入ってしまい、ヤンに次々と妻を紹介する。ファン・デール氏が卒中で倒れ、跡を継いだテオも運河に「落ちて」亡くなると、ヤンが商売を引き継ぐ。ヤネケは恐ろしく頭がよく、最初はテオの名、テオが亡くなるとヤンの名前で研究を発表したり、紡績機械をつくったりする。

 女性だけで暮らすベギン会での生活はとても心地よさそうで、女性の名前では本が出せないから、名前を借りて本を出したり手紙を書いたりすることに関するヤネケの考え「知識なんて別に誰のものでもないんだし、正しい筋道は誰が言ったって正しい筋道」(208頁)と、姪っ子のピエトロネラの考え「伯母さんは名前なんか符牒だからどうでもいいって言うんだけど、ピエトロネラで遣り取りしたいよ、本当は。だって気が付いたのはあたしだもん」(253頁)の違いも面白い。

 兎や林檎も重要なモチーフだし、佐藤亜紀さんの作品の中で、これほど子供たちがたくさん、無事に生まれる小説があっただろうかとも思うけれど、私が一番注目したいのが、水のイメージとともに、髪の毛や亜麻糸、レース編みなどのモチーフが、巧みに結びついていることだ。そしてそれは、雲が湧き、雨が降り、運河が流れ、運河の水紋が部屋の天井に映るように、刈り取った亜麻をさらす水のイメージとともに描かれる。

 例えば、ヤネケの出産に関しては、

 全く、何の理由もなく、ああ、生まれるな、とヤンは感じる。雨雲がヘントまで、あの水車小屋の辺りまで行って、雨が屋根を叩いて音を立てて、ヤネケは切り揃えた短い髪の頭を枕に任せてその音を聞いている。お産がどんなものかは知らないけど、あの雲の切れ間が来る頃には、子供はきっと生まれている。(51頁)

と描かれ、出産で亡くなってしまったアマリアが「産気づいたのは真冬の、雲行きの怪しい日だった」(261頁)。

 ベギン会の女性たちは、パンを焼いたりレースを編んだりしてお金を稼ぐが、

レース作って、それで自分で生きていけるんだ(224頁)
自分の手で働いて祈って生きるって、本当に神様の手の中で生かされている感じがするものよ(225頁)


と思い、やがてベギンに入ることになるテレーズ(テオとカタリーナの娘)は、ベギンに入ることになっていた日、阻止しようとしたレオに髪を引っぱられている。結末部分でフランス共和国の代理としてやってきたレオがベギン会にやってきた場面でも、

それからヴェールをかなぐり捨て、ピンを外して額の髪押さえを外し、顎まで覆っていた頭巾を引き下げる。濃い蜂蜜色の短く刈り上げられた髪が頭蓋を覆っている。(中略)側頭部の微かに地肌の見えるところを示す。「兄さんに引き抜かれたここ、もう髪が生えない。でも私がベギンになることは止められなかった。だって私は自由だから。(略)」(292頁)

とあるように、その痕跡が示される。

 特に、ヤネケとテオの亜麻色の髪の毛は、亜麻糸の紡績と重ねて描かれる。

 ファン・デールの子供たちはどちらも色の薄い、未晒しの亜麻糸のような髪をしていた。姉のヤネケはそれをお下げにし、弟のテオは短く刈り上げていた――ある日いきなり、一人で剃刀を使って剃り上げてしまってからは。(中略)
 (中略)何年も、何十年も、老人になった後も、テオのことを思い出すとき浮かぶのは、まだ頼りない首筋の上のきれいに刈り上げた頭で、その度に、何かあったっけ、と考えた。(9~10頁)


とはじまり、結末近くでヤネケの髪は、「純白の亜麻糸の束」のような白髪となっている。

殆ど白くなった、僅かに癖のある切り揃えた髪が、驚いて首を竦めたヤネケの顔の周りで、純白の亜麻糸の束のように揺れる。(301頁)

 フランス革命の余波で、フランス軍によって修道院もベギン会も解散させられるという騒ぎの中、フランス兵がヤネケの帽子(ベギンは髪の毛をすべて帽子の中に隠す)をひったくった場面である。ヤンのほうは髪の毛がなくなっており、ラストで倒れて眠っていたヤンの頭をヤネケはつつく。

 ヤンは、どんどん年を取る自分に比べてヤネケが年を取らない、と考えるが

カタリーナはどんどん太るのに、ヤネケは太りも瘦せもしない。相変わらず小娘みたいな顔をしている。ヤネケの髪の色は今どんなだろう、と思う。白髪さえないんじゃないか。永遠に若いままなんじゃないか。自分は普段は頭に小洒落た布を巻いて被っている。市庁舎に出る時仮髪を被る為に刈り上げたからだが、実は少し薄くなり始めている。(192頁)

あれから40年経って、週に一度か二度顔を見て時々は話し込むだけに慣れて、すっかり老いて、ただ、ヤネケは少しも変らないように見える。(297頁) 

帽子を取ったヤネケの様子は、年相応に老けていた。

顎のあたりで切り揃えた白髪が顔を縁取る。ヤネケは確かに年相応に老けていて、ただそれがとても愛しい。一緒に歳を取ったんだ、と思う。

 寝っ転がったヤンとヤネケが天井を見ると、運河の水紋が映る。
 だから、『喜べ、幸いなる魂よ』は、亜麻色の髪の毛が、亜麻を刈り取って水に晒し、繊維から純白の糸を紡ぐように、白くなるまでの物語だ。
 




植物のイメージ:『恋せぬふたり』感想

2022-03-31 00:14:05 | その他レヴュー
 アロマンティック・アセクシュアルを扱ったドラマだということで、ずっと見なきゃ、見なきゃと思っていた『恋せぬふたり』(吉田恵里香、NHK、2022年1月10日~3月21日、全8回)、やっと見ました。

 よかったですね。最初アロマンティック・アセクシュアルの男性を、庭いじりが好きだったり、野菜が好きだったりという、植物的なイメージで語ることがステレオタイプかな、と思って少し引っかかったんですが(キャベツはキャベツ畑で子供を拾ってくるとかそういう俗信から?)、最後まで見ると、植物って基本的には動かないものですから、ずっと自分の育った家から動かずに、仕事も家のすぐ近くを選んで、家から出ないようにしていた主人公が、最後動く、という物語なんだということで納得ができます。咲子は結構ずっとアクティブで、視点人物もほぼ咲子なのですが、全体の物語としては、高橋さんの物語として筋を通しているのかな、という印象です。

 『恋せぬふたり』は、他者に恋愛感情を抱かず、性的にも惹かれないアロマンティック・アセクシュアルの男女二人が同居し、家族のかたちを模索する物語です。
 みんな恋愛するはず、という世間の風潮に何となくモヤモヤを感じ、それまでの恋愛にも違和感のあった兒玉咲子(岸井ゆきの)は、アロマンティック・アセクシュアルについて書かれたブログを読み、自分もアロマンティック・アセクシュアルだと気づきます。でもこれは別に自分のセクシュアリティを自覚していなかった人間が、セクシュアル・アイデンティティを形成する物語ではない。偶然そのブログを書いているのが自分の勤めている会社の系列スーパーの店員高橋羽(さとる)(高橋一生)であることに気づいた咲子は、高橋に話を聞いてもらい、他人に恋をしないからと言って、性的に惹かれないからと言って、一人はさみしい、誰かと一緒に生きていきたいと思うことはわがままではない、と言われたことをきっかけに、恋愛抜きの同居生活を提案します。

 これは私自身にとってもかなり切実な問題で、私は結構孤独が好きな人間ではありますが、このままずっと一人で生きていくのかなと考えると、まあ不安しかないですよね。わんこと一緒に暮らせないし。

 最後高橋さんは、同居していなくても家族でいられるんじゃないかという咲子の提案を受けて、自分がずっとやりたかった、野菜を育てる仕事をするために家を出ることになります。
 倒れているときに気づいてもらえるとか、わんこと一緒に暮らせるとかのために同居人の欲しい私としては、うぅむそれじゃあやっぱりちょっと不安、と思ってしまうんですが、それまでずっと家を守って、そこから出ないように生きてきた高橋さんの物語としては、動く、ということは必要なことだったんだろうと思います。
 考えてみれば、ヒロインの咲子のほうが名前からいうと花のイメージで、高橋さんのほうが「羽」なので、飛んでいくイメージです。でも女性に花や園芸のイメージを重ねるのはそれはそれでステレオタイプ。名前では咲子という花のイメージながら、そこからずらしているのかもしれません。

 回想シーン(第7話)での、高橋さんとかつての恋人との、
(何か種を植えたらしい植木鉢に水をやりながら高橋)「人間は進化の仕方を間違えたな。こういう風に子孫を残す方法もあったのに」
(元恋人の猪塚)「さとる、パパ願望とかあったの?」
(高橋)「今の…、そういうことになるんですか…?」
というやり取りは、花や実や種に生殖が重ねられるとか、性愛にアクティブでない男性が草食とか植物に結びつけられるとか、いろんなイメージを全部ひっくり返していて面白い。この植木鉢は、たぶん第6話で手入れしたり雨の日に家の中に入れたりしている南天だと思うのだけど。