人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

くびわ問題、訓練所

2013-03-22 19:52:13 | 犬・猫関連
 子犬ちゃんが最初のワクチン接種をした時につけてもらった首輪が、首を触ると嫌がって噛みそうにするのでゆるめられないでいるうちに、きつきつになってどうしようもなくなってしまったので、今日、獣医さん(最初にワクチン接種をしたのとは別の所)に行ってのけてもらったそうです。私は仕事だったので、手伝えなかったのですが。
 ひっくりかえって甘えたりはしてたので、ちょっと触ったり引っ張ったりする程度なら出来るんですが、穴に金具を通すタイプの首輪だったので、なかなか抜けない。馴れない犬の場合、はずれてしまうのが怖くてパチンと留めるタイプの首輪を避けてしまいがちですが、…こういう場合もあるんですね。

 鎮静剤を打って、大人しくしてから首輪を切ってもらった。体重が13.5㎏になっていたらしい。まだ、5ヶ月ぐらいなんだけど(歯がまだ全部は大人の歯になってないから)。

 子犬ちゃんは、かなり甘えたれにはなっていて、私や母が出て行くとピョンピョン飛び跳ねながらひっついてくるのですが、いざ、捕まえようとすると全然ダメ。捕獲したときに追いかけ倒したのと、1回目のワクチン接種をしたときに無理やり追いかけ倒して口を縛って診察台に載せられて怖い思いをしたのが、かなりトラウマになっているらしく。

 このまま家においていても進展がないというので、しばらく訓練所に預けるようにしたそうです。(私は見てないけど)犬舎がコンクリで寒そうだったのがネックだったのですが、もうだいぶ暖かくなったし、家から持ってった座布団も使ってもらえるそう。でも、鎮静剤が効いてぼんやりしてたときに置いてきたそうなので、気づいたら知らないところにいたんじゃ、ちょっと可哀想です。今日、首輪を切ってくれた獣医さんのスタッフさんは、訓練所に行って賢くなって帰ってきたら、貰い手も見つかるかもしれない、と言ってくれたそう。賢くならなくても、ふつうにどこかに連れて行ける程度になれてくれたらいいんですけどね。

 子犬ちゃんは大変だけど、そのぶん存在感もあるので、いなくなると寂しいです。
 
 まあねえ…、うちの犬も人も人嫌いで、引きこもり気味だから、うちに置いといてもなかなか社交的な犬にはならないかもしれないけど。

補遺5『鉄鼠の檻』

2013-03-22 19:44:14 | 書評(病の金貨)
 補遺の5つ目は、京極夏彦の『鉄鼠の檻』。文庫版解説でも触れられていたし、『鉄鼠』が京極版『薔薇の名前』であるのは、もはや定説なんだと思うのですが、本シリーズ的に重要なのは、「石」のイメージかな。

畳の上の石(京極夏彦『鉄鼠の檻』1996年)
 
   火災が完全に鎮火するには丸二日かかった。
   知らせを聞いた消防団はあの手この手で消火活動を試みたが、水源に乏しい上に火元近くまで自動車が上がれなかったため、結局類焼を防ぐことに手一杯で、明慧寺は全焼した。
     (中略) 
   つまり結界の中だけが綺麗に焼けた訳である。


 禅の真理は空であるといわれている。だから囲い込まれた檻にいくら石を投げ込んでみたところで、別の結界に吸い込まれるだけだ。表情のない、心のない、成長の止まった、けれども過去の火事の記憶を瞳に持った「人形のよう」な鈴子、彼女と近親相姦の関係にあった、「人形のよう」に端正な態度しか示さないその兄松宮と、兄妹の記憶を閉じ込めた飯窪。「中身なき伽蘭堂」「結界自体」である美僧・慈行と、「囲いのない男」である榎木津。結界に真言的な世界をつくった小坂了念、己の結界の中のみが世界である、仁秀老人。そして言葉で世界を開いてゆく、京極堂、繰り返される炎。
 当然ながらこの小説では「檻」に閉じ込める、及び扉を開く、という言葉が頻出し、それは言葉や文字(手紙、書物)によってなされる。例えば飯窪は、鈴子が兄に宛てた手紙(恋文)を読んだ(開いた)ことによって記憶を閉じ込め、「私は手紙を読みました」という言葉によってそれを開く「記憶の扉が開いて、大事なものが解き放たれる。/それは解き放たれた途端に言葉と云う野暮なものに身をやつし、完膚なきまでに解体されてあっという間に霞となり塵となって消えて行くのだ。/思い出すということは思い出を殺すことなのだ」。また、「石」が結界に関わるものとして登場する。シリーズレギュラーが逗留する宿の名は「仙石楼」で、泰然老師の師匠が明慧寺を発見したのも(庭を造るため)そこから近くの石切り場に石を捜しに行くときであったし、京極堂の言葉にも「石ひとつ置いてあるだけで『入るべからず』の契約が成立した」との表現がある。それらの中で印象的なのが、冒頭近く、今川と久遠寺が囲碁をする場面であろう(碁に定石があり、黒と白しかなく、「囲んでやろう」と思って石を置くものであると書かれていることにも注意)。

  「しかし三百六十一の目こそが碁の世界の凡てではないですか。それを越すことは掟破りという以前に碁の否定に繋がりませんか」
  「そうよな。儂もずっとそう思っとった。今でもそう思う。ただ、儂はこの碁盤の上で人生ずっと生きて来た。あんたの云う通りこの囲いが儂の世界の凡てだった。それでいて、儂はこんなとこに石を置かれて人生に負けた」 
   老人は畳の上にひとつ石を置いた。


 檻を解き放つためには、その外に石を置かなければならない。それを破ったのは炎ではなく、鈴子(彼女が水墨画のような世界に対して鮮やかな色=紅をもっていたことに注意)の胎内に閉じ込められていた子供は流れてしまい、文字は既に、鼠に食い破られていた。「ああ云う場所はもう――これから先はなくなってしまうのだろうな。そうした場所はこれから先個人個人が抱え込まなくちゃいけなくなるんだ」
 それは時代の、流れだった。

本文引用:京極夏彦『鉄鼠の檻』講談社文庫、2001年。