人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

人形関連書籍紹介:人形=機械に関わって

2014-06-23 14:07:18 | 人形論(研究の話)
今日は、巽孝之・荻野アンナ編『人造美女は可能か?』(慶応義塾大学出版会、2006年)および、人形と機械に関わる書籍を少し紹介しようと思います。

17世紀、デカルトは『人間論』において、
「身体を、神が意図してわれわれにできる限りにるように形づくった土〈元素〉の像あるいは機械にほかならない」(225頁)
と言いますが、これが「人間機械論」と呼ばれ、人形論やロボット、ゴーレムなどとさまざまに関連づけて論じられてきました。

人間を機械として見る、という視点は、先日引用した谷川渥の、人形を人間として見る「ピグマリオニズム」と、人間を人形として見る「逆ピグマリオニズム」の区別でいえば「逆ピグマリオニズム」にあたりますが、人間が機械=人形(自動人形)→人間をつくる、というピグマリオニズム的な感覚と交差しながら、この「私」を人形=機械のように感じる、という現代的な感覚へと到り着きます。

神ならぬ人間が人形=機械→人間を作ろうとする行為は、神の位置を簒奪するものとして(例えば『フランケンシュタイン』)、どこかいかがわしいものとされてきました。演劇に関する有名な表現に「機械仕掛けの神」というものがあるように、フィクションを想像する行為の比喩としても有効だと思われます。

さて、『人造美女は可能か?』についてですが、2005年12月16日に慶應義塾大学で行われたシンポジウムを基にしたもので、古典的な文学作品から現代文化まで、「人造美女」という観点から広範な対象を10名の著者が論じたものです。「ホフマンからゴスロリまで」という見取り図や、「人造美女編年史」もついてたいへんに親切。ただ、非常に広範な対象を扱ったためかやや煩雑な印象になってしまったこと、どちらかというと男性が人造美女を作ろうとする方向に対象が偏っていた点が残念です。

個別に疑問に感じた点を一点。
巽孝之「死んだ美女、造られた美女―ポオ、ディキンスン、エリオット」では、ナボコフの『ロリータ』を、ポオの「アナベル・リー」の影響下で、「死せる美少女が人造美女へ転生する」ものとして位置づけます。『ロリータ』における「アナベル・リー」の影響や、過去に死んでしまった「アナベル」という少女の(外見的な)「再来」として「ロリータ」が登場する、ということに関しては首肯できます。ただ、「ロリータ」は「人造美女」というよりは、外見ばかりはニンフェットでも現実のくそ生意気なアメリカン・ガールであって、回想の中にいる死んでしまった理想的な美少女ではなく、そういう現実のクソガキを愛してしまった、というところにむしろ『ロリータ』の眼目(というか滑稽さ)はあると思うのですが…。

アリスにしてもロリータにしても、いかにも現実にいそうなくそ生意気なガキ(子供嫌いな私にはちょっと耐え難い)であって、そういう現実にいそうなガキが理想的な少女イメージの原型になったことが、かえって面白いのかもしれません。

人間、機械、人形の観点から興味深い小説を一つ紹介しておきましょう。
山尾悠子『仮面物語 或は鏡の王国の記』(1980年)。これに関しては、別に論じたこともありますので、よろしければ→こちらもご参照ください。
架空の王国を舞台とした、「影盗み」と呼ばれる真実の顔を見る能力を持った彫刻師をめぐる物語で、この彫刻師は葬儀のときにつかう等身大の像をつくる仕事をしています。自動筆記の詩人も登場し、機械=人形という視点は、フィクションの構造とも関わります。
この中に登場する「聖夜」という名の領主の娘が、数年前に転落事故で体を破損し機械人形のものと取り換えているのです。彼女には「自分が自動人形ではないと納得させるために」(127頁)、「アマデウス」という名の自動人形が与えられます。しかしながらかえってそのことで、彼女には自分と自動人形との区別がつかなくなります。聖夜はさらに事故にあい、最後には「人間ではないもの」になってしまいます(254頁)。アマデウスが「魂」を失ったことが描かれることで、自動人形にも魂があることが示唆されます。
この物語のなかでは、人間の身体と人形、機械との区別はすでになく、しかもそれが、人間を人形として愛する男性の側からではなく、自分のことを人形のように感じる側の感情として描かれるのです。

京極夏彦『魍魎の匣』(1995年)もこのような観点から興味深い作品ですが、表象文化論学会第9回大会でパネル発表(2014年7月6日(日)16:30~18:30、於東京大学駒場キャンパス)があり、私もコメンテーターとして参加いたします。
興味があればぜひおいでください。

機械=人形は、ロボットやゴーレムのイメージとも関わりますが、それに関してはまた別に紹介できればと思います。
では。

*引用は、「人間論」…『デカルト著作集 4』(白水社、1973年)、
山尾悠子『仮面物語 或は鏡の王国の記』(徳間書店、1980年)による。

人形関連書籍紹介:谷川渥『肉体の迷宮』

2014-06-17 14:29:24 | 人形論(研究の話)
せっかく人形の文学論、というタイトルでブログをしているので、
ちょっとずつ人形に関連する本を紹介していこうと思います。
小説、評論、雑誌特集などジャンル・形態問いませんが。

今日は谷川渥『肉体の迷宮』(ちくま学芸文庫、2013←東京書籍、2009)。
さまざまな媒体で発表された文章を集めた本ですが、西洋と日本の肉体観の違いを中心に据え、量塊(マッス)性と衣装性の対立、皮膚と表層、身体の変容や寸断など、へと展開します。
私がしばしば踏まえる、『美術手帳』が初出の「人形と彫刻」も入っていて、これと、「ピュグマリオン・コンプレックス」が人形に関連するもの。

「人形と彫刻」は、芸術観における人形と彫刻の差異を論じたもの。
彫刻を量塊(マッス)的なものとし、人形を衣装的で心的距離の近い、操作性のあるものと位置づけますが、そもそも肉体のない、衣装的な肉体観を持つ日本においては、人形と彫刻の差異は曖昧にならざるを得ない、と言います。
したがって、日本の球体関節人形群は、「西洋彫刻の量塊と比例の思想を「さかしま」に「人形」化する」ハンス・ベルメールの「方法論的暴力」と無縁なのだ、と。
総じて日本の球体関節人形に対する評価は低いようで、私自身はもっと別の意味づけも可能だと考えていますが、それについては別に述べようと思います。

なお、ここでは先行する『文学の皮膚』(白水社、1996)所収の論文「見ることの狂気 川端康成の逆ピグマリオニズム」における、人形を人間にしたい「ピグマリオニズム」と、人間を人形にしたい「逆ピグマリオニズム」は区別されるべきだ、という主張が踏まえられていますが、その、「ピグマリオニズム」について論じたのが「ピュグマリオン・コンプレックス」です。
「古代に遡ることのできる魔術的彫像のテーマ」「十七、八世紀的な自動人形のテーマ」との関係に触れたうえで、彫像における五感の複合的なエロス、濡れ衣表現などの「表層の快楽」の文脈に位置づけます。肉体が襞であり、着衣である、というような。

2014年度中古文学会春季大会感想(2日目)

2014-06-10 11:36:22 | 学会レポ
昨日の続きで、中古文学会の感想。
今日は二日目の感想を書きます。

この日も天気は相変わらず。
カバンの持ち手がボロボロになってしまうというトラブル発生。
雑貨屋さんで買った安価なものでしたが、一泊から二泊くらいの旅行にはちょうどいい大きさのカバンで、まだ本体は無事だったのでショックです。

二日目は、午前2本、午後4本の計6本の研究発表。
発表2本ごとに休憩が入ります。
これまでは発表2本が終わってから質疑応答をするかたちでしたが、今回から発表1本ごとに質疑応答する方法に。

1本目は
長谷川範彰「「我が恋は」ではじまる和歌について」
「我が恋は」からはじまる和歌をとりあげ、そのなかでとくに藤原俊忠「我が恋はあまの苅藻に乱れつつかわく時なき浪の下草」の評価の変遷に着目し、日常詠から題詠へ、という11世紀から12世紀への和歌の変化のなかに位置づけます。
「我が恋は」ではじまる歌が、「○○とかけて○○ととく、その心は」という謎かけの形式であるという先行研究を踏まえ、(A)景物、(B)直接的な説明として、(『古今』から『詞花集』まで)AB型、BA型、BB型、(『千載集』『新古今』)AA型、AB型、BA型、AA型、B+A型(一体化したもの)に分類します。
AA型に分類されたものは(A+B)(B+A)型ではないかと質疑応答でも出てたんですが、分類の仕方にちょっと??という点はあったものの、分かりやすい発表でした。
ちょっと疑問に思ったのは、「俊忠朝臣家歌合」の判詞にある「波の下草」と「海人の苅藻」が「おなじもの」ではないか→歌の「病」ではないか、という部分の「おなじもの」と、
『古来風躰抄』「同じ心二所詠むことは、宗と避るべき」云々の、「同じ心」が、同じものを指すのか、ということ。
それから感想で、直接的な説明のない和歌が出てきた、というのは、(和歌表現に厚みが出てきてそれをみんな知ってることが前提となるので)説明的な表現を嫌う、ということかもなあ…と。
これ、私が小説の書き方本なんかの「説明するな描写しろ」と似てるなあ、と思って気になっている、『無名抄』の、俊成の「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」に対する、
「彼の歌は、「身にしみて」と云ふ腰の句のいみじう無念に覚ゆるなり。これ程になりぬる歌は、景気をいひ流して、たゞ空に身にしみけんかしと思はせたるこそ、心にくくも優にも侍れ。いみじういひもて行きて、歌の詮とすべきふしをさはといひ現したれば、むげにこと浅くなりぬる」
という評価にあらわれるような価値観と関係があるかもなあ、と。

2本目は、
高橋秀子「『うつほ物語』俊蔭女の回想の歌」
俊蔭女の過去を回想する歌に着目し、その意味づけを行う発表でしたが、正直ちょっとポイントがよく分からなかった。
あまりうまく発表を構造化できてない印象でした。
例えば過去の回想も琴の伝授も縦軸の時間軸の上にあると思うのですが、過去を回想するという、現在→過去の方向性と、琴の伝授という、過去→現在→未来という方向性がどう関わるのか、とか。
俊蔭と俊蔭女との父娘関係を俊蔭女と仲忠との母息子関係と対立させて、最後に犬宮が入ってきたらどうなるかとか(先行研究ありそうだけど)。
何かのとっかかりを見つけて構造化していかないと何が問題なのかよく分からない発表になってしまう。
いろんなことたくさん言っていたのですが、どこに持っていきたいのかがかえってよく分からなくなりました。
よく頑張っていて決して印象は悪くないんですが。

午後の1本目の発表は、
舟見一哉「藤原清輔の『伊勢物語』研究について―勘物の機能―」
文部科学省の方らしくて、さすが(?)発表上手でした。
教科書調査官って何する仕事なのかしら??
本文異同は示すものの校訂しない、ポイントだけ示して解釈に深入りしないなど、
藤原清輔の『伊勢物語』勘物の形式に着目して、その機能を明らかにしたもの。
歌学の集合体をつくることで、『続詞花集』を編纂するような外への効力、六条藤家が和歌の家として続いてゆくような内への効力を持った、と結論づけます。
質疑応答で明らかになったんですが、誰でも見れる「勘物」では問題点だけ、続きは「別紙注」や『奥義抄』でしか見ることができない、という二段構えにすることで、知への志向や権威づけを行った…という。
結構えげつない話のような。

午後2本目は、
吉見健夫「「若紫」の色彩表現―和歌、『伊勢物語』初段、『源氏物語』若紫巻への展開ー」
なぜ和歌の上で単なる「紫草」ではなく「若紫」の根が求められるのかを考察した発表で、「若紫」の根で染めると、成長した紫草の古根で染めるのとはまた違う色合いになるのではないか、藤の花の色合いになるのではないか→藤壺から若紫へ、ということで、趣旨としてはよく分かる発表でした。
…が、うーん、そういうこと言えるのかなぁ…(言えるのであればもうすでにそういう論が出ていそうなものだけど)??という感じ。
今回かなりインパクトの強い質問者の方がいらして、わざわざ若紫の根と紫草の古根とを採って持ってきて、滔々と…。
司会の先生もベル鳴らしてかなり強硬にとめてました…。

休憩を挟んで午後3本目。
布村浩一「『源氏物語』における『高唐賦』引用―その作中機能について―」
浮舟の雨の出てくる和歌に注目し、『高唐賦』引用から葵上と関連づけるものでしたが…
申し訳ないんですが、緊張のせいかしょっちゅう声が裏返ったせいでたいへん聞きづらくて、ほとんどまともに聞けませんでした。
質疑応答のときに○○という趣旨でよろしいでしょうか、という確認をなさっている方がいて、ちゃんと聞けててすごい、と思ってしまった…。
ピンポイントで葵上…絵にかきたるものの姫君のやう、と、浮舟…人形として登場、との関連づけをしてたのは気になったかな。

午後4本目は
高橋亨「小野通女筆バイエルン本『源氏物語』をめぐる和文古典学」
いつもの高橋先生の調子で、たいへん楽しそうでした(笑)。
画像の表示を担当された青木さんもお疲れさまです。
小野通女筆バイエルン本『源氏物語』の紹介で、こんな素敵な本があるからみなさん若い方研究してね、という感じで締めくくられました。

今回、はじめての試みで、「交流広場」というフリースペースを設けていました。
理系の学会なんかだと、ポスター発表したりするんでしょうけど、中古では研究会の紹介や、博論要旨、論文抜き刷りの展示・配布ができるとのこと。
私もまあ営業せねばなーと思って申し込んでいたのですが(博論要旨と論文抜き刷りの配布)、感想としてはもうちょっと本屋さんに近い場所のほうがよかったかな、と。
休憩室のなかとか。そのほうが人が来るので。
あと、今回博論要旨を配布してた人は私のほかにもう一人しかいなかったのですが、もうちょっとまとめてたくさんあったほうがよかったかな、と。
博論書いたけどまだ本にしてない人は他にもいっぱいいると思うので。
一人一机もいらないので、5人か10人分づつ並べる感じで。
で、本屋さんの近くで本屋さんにアピールできるほうがいいと思う(まあ、自分で持ってって挨拶しろよ、という話ではあるんですが。私、意外と小心者なの)。
まあでもアナウンスもしてくださってたのでだいぶん要旨も抜き刷りもはけたから、よかったかな。

今回は1日目、2日目とも人の入りが良く、全体的に盛況でした。

おまけ:池袋駅にて


それにしても、疲れた!
今回は新幹線利用したけど、それでも体中のあちこちが痛いです!

2014年度中古文学会春季大会感想(1日目)

2014-06-09 14:25:43 | 学会レポ
6月7日、8日は中古文学会に行ってきました。

立教大学新座キャンパス、遠い!
特に志木駅からが、徒歩15分と書いてあったけれど、30分は見といたほうがいい感じ。
何も重いもの持たずにさくさく歩けば15分で行けるのかもしれないけれど、荷物抱えて、雨の日だったので傘も持って、だと、よいしょよいしょとしか歩けないです。

忘れないうちに、簡単に感想書いときます。

とりあえず1日目。
1日目はミニシンポジウムが二本。
これまでもシンポジウムが開催されることはありましたが、今回のようなスタイルははじめてとのことです。
確かに、これまでは中古関係の人はシンポとかパネルとか苦手なのかな、という印象でしたが、今回はよく準備されていて面白くうかがうことができました。

1本目は「定家本・青表紙本『源氏物語』とは、そもそも何か?」。
提言:久保木秀夫・田村隆
コメンテーター:大内英範・中川照将
司会:陣野秀則
私古典が専門のくせに本のことはどうにも苦手で、よく分からないことが多いのですが、今回のミニシンポは面白く聞くことができました
…はずなんですが、いまメモを見ながらどういう話だったか思い出そうとするもののちゃんと思い出せない。
「定家本『源氏物語』」と呼びならわしているけれども定家が書写した『源氏物語』というものの本文がそもそもよく分からず辿ることができないから、そう呼びならわすのが適切なのかどうか、と言っていたのは覚えてます。

2本目は「中古文学会で、中世王朝物語を考える」。
司会:加藤昌嘉
パネラー:中島正二・宮崎裕子・西本寮子
「中世王朝物語」という用語が誕生してから四半世紀が過ぎ、研究が進んできた今だからこそ、そもそも「中世王朝物語」って何?その用語でいいの?ということから立ち返って考えてみたい、というシンポでした。
はじめに加藤さんのほうから「中世王朝物語」という用語、研究史と問題点の整理があり、
中島さんの報告では「中世王朝物語」という用語を問題にします。
王朝物語=平安時代の物語なので、中世王朝物語というと王朝風の、とか、宮廷を舞台とした、とかいう風に「王朝物語」の定義を拡張せねばならず、そうすると平安時代の宮廷を舞台としていない物語は、その意味での王朝物語に含まれなくなる、
→狭義の「王朝物語」の一部が、広義の「王朝物語」に含まれない、
→用語としておかしい、
というところから、散逸物語なども含めた新しい用語・区分を提案します。
宮崎さんの報告は、『風葉和歌集』をつかって中世王朝物語の復元するやり方に疑問を呈したもの。
主に詠者名表記に注目されていました。
西本さんの報告は、「中世王朝物語」研究の課題をコンパクトにまとめたもの。
写本の問題、それから「中世王朝物語」とはどういう質のものか、ということ。
写本・伝本の状況から作り手や享受のあり方を考えることができる(けれどもはっきりしたことは言いにくい)こと。
文学史的には『源氏物語』を頂点として見る見方がいまだに強いけれども、『源氏物語』というのは特異なもので、そういう特異な性質のものを中心として、そこから中世王朝物語も読んでしまう方法に疑問を呈します。
質疑応答で、
阿部好臣先生のほうから「そもそも中世王朝物語というものがアナクロニズムで矛盾したものなんだから矛盾した用語でいいんだ」
三田村先生のほうから「王朝物語というのはイデオロギー的なもの」
という趣旨の質問があったのですが、その辺、そういう風に読みたくないパネリストたちとの立場の違いが明らかになって面白かったです。

二本とも、用語の問題に立ち返って考える、という点で共通してますね。

続き(2日目)はまたあとで。

おまけ:甘いお酒を飲んでます。