人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

『恋せぬふたり』へのモヤモヤと、ルッキズムへの複雑な感情

2022-06-17 22:55:36 | 仕事と研究
少し前のことになりますが、また、就活に失敗しました。
詳細は省きますが、今の状況の中でキャリアを次につなげることの困難を改めて感じました。

非常勤講師の仕事だけで生活することは難しく、かといって非常勤のすきま時間の中でうまくやりくりできる仕事を見つけるのは難しい。
現在私の非常勤は前期5コマ、後期9コマですが、5コマで生活することは不可能で、9コマでもギリギリかちょっと足りないくらいです。
でも正直、授業準備のペースからいえば、5コマくらいでちょうどよいです。
新しい授業が一つあるので、教科書も固定だし、補助教材などは常勤の先生方が作ってくださっている授業ではありますが、
それでも準備に1日くらいはかかりますので(これが完全オリジナルの講義であれば、その何倍も時間がかかります)。
現在の非常勤講師のコマ給は、それで生きていけるようには設計されていないのだなあ、と改めて思います。

研究者の就活は、年度の途中から採用になるお仕事(特に任期付きなどの初期キャリアは)も多く、常に難しい判断を迫られますよね。
任期付の特任助教や准教授のポストは、任期があるとはいえ、非常勤とはお給料も全く異なりますし、各種保険もつきます。
その後の可能性も広がりますので、リスクはあってもトライしたいものではあるのですが…。
こちらがそう思っていてもなかなかかなわないものです。

研究を続けていると、自分の好きな仕事をしているのだから我慢しろ、
みたいな価値観に出会うこともありますが、
別に私は自分のやりたいことを仕事にしたいと思っていたわけではありません。

確かに院生時代に後輩たちの教育に多少なりともかかわることができたのは楽しかったですし、
結構向いているのかなと思ったりしましたが、
十分な稼ぎと余暇があり、自分の時間で研究を続けることが可能な仕事があれば、
(死ぬほどいやというわけでなければ)特に研究職を目指す必然性は自分にとってはなかったです。
研究職以外に研究を続けられる道がないと悟ったため、遅ればせながら研究職に的を絞ることになりました。
もしかしたら、ものすごく有能な人だったら何か別の選択肢があるのかもしれませんが。

で、そんな感じで生きているとやはり、現在世間で主流になっているような、
仕事にクリエイティビティや生きがいを求めるあり方がよく理解できません。
以前に、『恋せぬふたり』に関する評を、このブログでも書きましたが、
全般的にはよかったと思いつつも、主人公である咲子の仕事への向き合い方には違和感しかなかったです。

たぶん、私より若い世代の価値観なのだと思うのですが、仕事に生きがいとかやりがいとか「好きな仕事」というのを求めすぎる。
その癖して、その職場は「恋愛しろ」ということを強要するような場で、
いったいどこに生きがいだのやりがいだの好きな要素だの、というのがあるのか、まったく理解できないわけです。
資本主義社会の中で仕事をしていく以上、仕事というのは何らかのかたちで他者の欲望に当てはまったものであるはずなので、
そこに生きがいだのやりがいだのクリエイティビティだの好きだの、を感じられるというのは、
他者の欲望に自分の欲望を一致させられるという特技をお持ちなのだと思います。

その際たるものが、咲子が後輩から引き継いだ「恋する○○」シリーズの企画に、悩む場面です。
咲子は「恋」が分からないことから、自分がそんな企画を担当してよいのか、企画営業の仕事に向いてないんじゃないかと悩みます。
それは正当な悩みだと思うのですが、問題はそれに対する「カズくん」や高橋さんの対応と、それに咲子があっさり納得してしまうことです。
「カズくん」は、「企画部のおっさんたちが女子力フェアとか美容フェアとか」絶対わかっていない、ということを対比させつつ、
「恋愛」分からないでも「分かった気はいや!」「喜んでもらいたい」という咲子が「企画営業の仕事が向いていないわけない」と言い、
高橋さんも、「恋愛脳の人たちは勝手に何でも恋愛で補完」するから、「まずは咲子さんの納得できるものを…」、と言い、
咲子は何とあっさりそれに納得してしまいます。

私にとって、『恋せぬふたり』随一の、もやもやシーンでした。
咲子は企画営業の仕事として、「恋する○○」なんて仕事を担当するのであれば、
恋愛に関するイベントやフェアばかりの多い、恋愛至上主義社会に加担してるんですよ!
自分を苦しめたはずの、まさにそのものに加担してるんです。
でももちろん、人間誰しも生きていかなければいかないわけだから、仕事だと思って割り切っているならわかる。
それは仕方のないことで、自分で自分を加害しているという点において悲惨なことであるにしても、
責められるべきことではありません。

でも咲子は、「今は一番仕事が楽しい」とか、「好きな仕事」とか、「仕事も私生活もベストな状態」とか言うわけです。
私にはまったく理解できません。
恋愛しないマイノリティである咲子が、恋愛するマジョリティの欲望に奉仕することが、やりがいであり、好きな仕事であり、ベストな状態であるなんて。
恋愛しないマイノリティである「私」(咲子)が、恋愛するマジョリティである「みんなに喜んでほしい」ということを、
「やりがい」としているなら、何という奴隷根性でしょう。
どうして、恋愛するマジョリティである「みんな」ではなく、
恋愛しないマイノリティ、あるいは恋愛しないマイノリティも含むいろんなセクシュアリティの人に、喜んでもらえる商品を企画しないのでしょうか…。

この後、自分にとってルッキズムは(確かに問題あるにしても)もともとそんなに嫌いじゃなかった、
外見さえちょっと普通っぽくしてれば、自分の心を自由にしてくれるものだった
(でも今はそうじゃないね)、みたいな話を書こうと思ってたんですが、ちょっと疲れたな。
ルッキズムって、もちろんどんな人にとっても問題があるには違いないんだけど、
外見はとりあえず世を忍ぶ仮の姿!という人と、
外見やファッションにこだわりがあり、オリジナリティや自分らしさを表現しなければならないと考えている人にとって、
受け止め方が違うと思うんですよね。

私は氷河期世代の終りくらいですが、
私は学校の内申で積極性とか内面的なものが評価されつつあった時代において、
内面を評価するなんてとんでもない、内面は自由であるべきだ、という気持ちから、
外面を評価されることにはむしろそこまで抵抗がなかったです。
今は本当に、ファッションも外見も、内面や自分らしさを表現するものとされていて、
それがさらに仕事や就活や生きがいだのやりがいだのにつながっているので、息苦しいだろうなあと思います。

外見を評価するとか、内面を評価するとか、
もちろんそのどちらも仕事を判断する基準としては適切でなく、
はっきりと数値化できるものを評価すべきであるとしても。
資本主義社会の論理から自由になれる場所を確保しないと、
(仕事に)やりがいだの個性だの生きがいだの自分らしさを求めるだのは、
自分自身を商品化することになってしまって、息苦しいだけだと思うのですけど。

ご報告

2020-04-01 14:44:34 | 仕事と研究
 3月末でこれまで非常勤研究員として勤めていた国立国語研究所を退職し、この4月1日から、都内の短期大学で専任講師として、日本語表現関係の授業を担当することになりました。
 また、新たに大東文化大学で、国語の教職免許をとる人のための古典の授業である「基礎古典」を教えることにもなっています。
 これまで非常勤講師をしていた共愛学園前橋国際大学でのコマ数も増え、以前から担当していた「ポップカルチャー論」に加え、「日本文学Ⅰ」「国語力講座Ⅰ、Ⅱ」の授業を担当する予定です。
 本当に授業が始まるのか分からない状況ではありますが、今後より積極的に、研究にも教育にも、また研究の内容を社会に広める活動にも、力を入れていきたいと考えておりますので、どうぞよろしくお願い致します。



 昨年度は、本当に一生懸命必死で研究発表をし、論文も書いた年でしたが、連休中などに一気にまとめた論文はやはりかなり雑で、それでも書き直しで採用してくれる場合もあれば、問答無用で落とされる場合もあり、かなり限界を感じました。今年はもう少し丁寧に、一つ一つの論文に取り組めるようにしたいです。加えて、温めている本の企画もかたちにしたいです。
 この状況なので、イベントやシンポジウムなどの企画は望み薄ですが、代わりに何かできないかも、少しずつ考えていけたらなと思っております。みなさまが家から出られない状況で、私がどうにか自分で大事に育ててきた自分の教養を、社会に還元出来れば幸いです。

傷ついた記憶

2015-11-22 10:58:57 | 仕事と研究
むかし、塾講をやっていたときに、古典の問題で、何か説話だったと思うのですが、「母親の子に対する愛情ほど大きいものはない」というような評言で締めくくられる課題文がありました。その説話はそれはそれとして、何かその教材から、母親は子供を愛するものだ、というメッセージ性を感じ、非常に不愉快になったことがあります。不愉快というか、頭に血が上るほどイライラし、何で自分がこんなものを教えないといけないのかと、傷つきました。

私が研究している『源氏物語』の女三の宮は、妊娠、出産を嫌悪し、出産後には「ついで」に死にたいとまで思い、薬湯なども口にしなくなります。出家後に回復しますが、子供への愛情らしきものは描かれません。そのことが研究史上では子供っぽいとか、何か足りない人のようにも言われます。私はそれが母親は子供に愛情を抱くものである、という偏見に満ちた問題のあるものであることを指摘し、物語の中での女三の宮の出産嫌悪の意味と機能を考察したこともあります(「『源氏物語』の生殖嫌悪―女三宮の出産嫌悪を中心に」『古代文学研究 第二次』第16号、2007年10月)。
私自身も、当時は子供相手の仕事だったのであまり大きな声では言えなかったのですが、子供嫌いで、絶対に子供は作りたくなく、また生むこともおぞましいものだと常々感じています。

母親が子供に愛情を抱くことは素晴らしいことだとは思うのですが、教壇の上からそれがふつうである、当然そういうものである、ということは問題でしょう。そうじゃないこともありますから。そして血のつながった親子の関係というのは、なかなか厄介なものでもあります。

…というような問題はそれはそれとして、なぜ自分は自分自身の価値観や研究を否定するようなことをわざわざ生徒に教えなければいけないんだろう、と深く傷つきました。

私は今薬局で事務をしていますが、仮に患者さんが例えば結婚して子供産むのが女の子の幸せ、とか、早く結婚して子供産まないと日本は少子化する、とか言ったとしても、にこにこ笑って聞き流しておけば済むことです。そういう仕事ですから。
ですが、教壇の上から生徒にそういう価値観を(暗に)教える、となると話は全く別です。

私はその時どうすればよかったのでしょうか。
この説話はこういう評言で締めくくられているけれども、必ずしもそうじゃない人もいるし、それは悪いことではないんだ、と一言付け加えればよかったのでしょうか。
あるいは、説話文学は最後の評言にまとめられるような、単純なものではないんだ、ということを解説すればよかったのでしょうか。
今でもどうすればいいのか分かりませんし、不意にそういった価値観に出会ってしまったときに、どう対処すればいいのか、自信がありません。

おまけ…夢ちゃん。

論文の価値について。

2014-03-28 21:11:04 | 仕事と研究
 たぶん、小保方さんの博論コピペ問題からの流れだと思うんですが、
卒論代行業者というものがあるらしく、話題になりました。

・「学生の代わりに業者が書く「卒論代行サービス」 利用したら「法律違反」になる?」(弁護士ドットコム 3月24日)

 検索すればいくつか代行業者のサイトもヒットします。
 法的にどうとか、倫理的な問題がどうとかはここでは取り上げません(まあ、ふつうに考えれば倫理的にはアウトでしょう)。
 ここで考えたいのが、論文の金銭的な価値について、です。

 一文字10円、2万字程度の卒論であれば20万円。これ、決して安い金額じゃないと思います。
 そのなかからどれほどの金額が代筆したライターに渡るのかは分かりませんが、少なくとも依頼した学生にとっては、20万円の価値があった、ということです。
 
 一方で研究者は、よほど特殊な有名人でもない限り、論文で原稿料を貰うことはありません。
 それどころか、学会誌の場合は会費を払って会員になっている場合のみ投稿の資格がありますし、博士論文を単行本として刊行する場合など、100万円程度を持ち出して出版します。
 その分野のなかで一流の学会誌でも、ちいさな大学の紀要でも、依頼原稿でも投稿原稿でも、基本的には変わりません。
 学会の運営にも出版にも費用がかかりますし、自分の業績にもなることですから、当然です。

 ですが、何か変じゃないですか?
 一流クラスの学会誌に載った論文や研究書は0円なのに、それよりはるかにレヴェルの低い卒業論文を代筆すれば、それなりの対価が得られるわけです。

 論文の価値ってなんなんでしょう?
 論文の価値は値段ではかられるものではないとは思いますが、われわれも霞を食って生きているわけではありません。

 売れるものにのみ価値があるという資本の論理を信奉する人たちにとっては、一流クラスの論文や研究書よりも、代筆された卒業論文のほうが価値があるんでしょうか?

「若手研究者同居支援」の気持ち悪さ。

2013-10-27 10:25:52 | 仕事と研究
こんにちは。
学会にお出かけのみなさまも多いことと思いますが、私はお金ないんでお家にいます。

最近、文科省のほうが「若手研究者同居支援」というのを出してきて、私近年稀にみるほどの怒りを感じました。
怒り感じる、というか、私がもっと高齢で頭の血管詰まりかけてたりしたらぶちっといっちゃったと思う。
…くらいの身体的な怒り。ようやくおさまってきましたが、私ずいぶんエネルギー使ったわ、論文書かなきゃいけないんですけど。
日経の記事
元ネタ

どういう政策かというと、女性研究者支援の一環で、
「若手研究者夫婦が遠隔地の研究機関に転勤する場合、新たなポストを見つけようとする配偶者に対し、研究費を支援する」政策。
一件につき400万円(微妙な金額。何だそのケチなの)。

これ、リアリティがないとかいろいろ問題を感じるのですが、
一番怒りを感じるのは、「産めよ殖やせよ」という声が聞こえてくるところ。
そんなことを言うのは、親戚のおばちゃんくらいで充分です。勘弁して下さい。
子供をつくらない研究者がいたら、「出産を諦めている」なんてどうして思うのかしら?
子供を作りたい女性が作れないよりよっぽど、作りたくない女性に出産を強いる社会な気がしますよ。

もちろん、子供を作りたい研究者夫婦を支援することが趣旨であって、
子供を産みたくない、結婚したくない若手研究者に結婚や出産を強いるものではありません。
出産にしろ子育てにしろ、どう考えても負担になるのは明らかですから、何らかの支援策は必要でしょう。
だから、自分には関係のない話~♪と思って無視しておいてもよい。

しかしですね、いろいろ時代錯誤というか、よくもこんなに私の神経を逆撫でできるな、という感じの記事なのです。
①出産したい(はず)ということを前提にしている。
②なんで女性研究者が配偶者についていかなきゃならんのだ。
③いろいろリアリティがない。
 ・400万使い切るまでに次の就職先が決まるとは思えない。
 ・常勤のポストを得た時点ですでに若手ではなくなっていると思われる。
 ・夫婦ともに常勤でその一方が転勤した、というシチュエーションを想定しているの?よく分からん。
 ・そもそも研究者同士のカップルってどれだけいる?
  何だかシャーレのなかに研究者という新種の生き物を入れて繁殖させてるみたいだわ。
                             etc…

こういうプロジェクト型の資金ってどうしても、
何かを条件にお金を出す、というかたちになる。
研究者全体のポストが非常に少ない状態で、プロジェクト型の資金が増えて、
はい、研究者同士で結婚して同居すれば、お金くれますよ、というと出現するのは、
そうでなければ研究できないのに、
研究者同士で結婚して同居して子供欲しいです、って言えば研究できる状況です。
生殖と引き換えに研究費をえる状況。

子供なんか作らなくても、研究したくて研究する能力がある人間には
研究できる環境があるべきなんですよ。

研究者間の分断は好ましいことではないので、
ほんとうはこんなこと言うべきじゃないのですが、
子供を作りたい研究者だけが優遇されているように見えてしまいます。
そうでなくても、結婚したい、子どもを作りたいというような、
世間的にそうあるべきと思われるような価値観を身につけているだけで、私などから見ればずいぶん勝ち組に見えます。

そもそも、子供を作りたい研究者が子供を作るためには、できるだけ早いうちに常勤職を得ることが一番なわけです。
常勤であれば、産休も育休もとれるし、学内の保育施設を利用することもできる(*)。
若手研究者ができるだけ早く常勤のポストにつけるようにすることは、
単に子供を作りたい研究者だけではなく、若手研究者全体にとって有益なことです。
「有望な女性研究者が子育てのために研究を離れる」ことを嘆くなら、
どうしてそれよりもっとたくさんの有望な研究者(女性でも、男性でも)がポストがないために研究を離れる状況を嘆かないのかしら。意味が分かりません。

*もちろん、非常勤でも産休、育休を取得し、保育施設を利用できるべきですが。
本気で研究者への子作り・子育て支援をするつもりなら、
博士後期課程まで修了すればどれだけ順調に行っても30前にはなるのだから、常勤職に対する支援よりも、
院生~非常勤クラスへの支援を行ったほうが有益だと思うのだけれど。

同居支援ということであれば、夫婦を無理やり同居させるよりは、
ある地点で一緒になって子供を作った人が、別の地点で一緒になった人と育てる、
というような仕組みを作ったほうが有益ではないかしら。
夫婦関係でなくとも、恋愛関係ですらなくてもいいと思いますが。
両親や母親の親族だけで子供を育てるのではなく、みんなで育てるモデルを作ったほうがいい
(私も誰かと同居できたほうが、犬を飼うにはいい)。

私はやっぱり、おこがましいかもしれないけれど、研究者は新しい価値観を提示したり、
公平性を体現したりしないといけない存在だと思っています。
個人の自由なので、子供を作って配偶者について行くことを幸福と感じる人がいても良いし、
そういう人は自分の幸福を追求する権利もある。
でも、「子供を作って配偶者について行くこと」が研究者として有るべきモデルになるのはちょっとどうかと思うんですよね。

少子化を嘆くのであれば、まだできていないものをどんどん作らせようとするよりは、
生まれてきたものが無事育つようにすることのほうが大事じゃないでしょうか。
子育ての全責任をちいさな家族(殊に母親)に押し付け、母親が育てられない状況にある場合は見殺しにするんじゃなくて。
母親を全部悪者にするような社会じゃなくて。
変な研究者同士の子供繁殖させるよりは、そういう子供たちが無事育つようにすることのほうが、
よっぽど大事だと思います。