人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

補遺6『日蝕』

2013-03-23 21:41:06 | 書評(病の金貨)
 「病の金貨」補遺の6つ目は『日蝕』です。これで最後。
 佐藤亜紀『鏡の影』との関連や、錬金術関係で『黒の過程』ともプロット的な共通性はあるので拾ったのですが。『日蝕』はプロット的に効率のよい展開をしていて、表現と表現が連鎖して意味を生み出すような動的な展開はしていません。だから、本シリーズの目的とはそぐわないかな、と今では思っています。
 今考えると、考察に入れたいのは、乙一の「石ノ目」。乙一はわりと作品の出来にばらつきがあって信用出来ないのですが、「石ノ目」は良かった。泉鏡花的な作品世界の作り方は、山尾悠子とも比較したいところですし、「石」のもつ象徴性は、本シリーズで一貫して追いかけてきたところです。気が向いたらなにか書くかもしれません。


白紙の過程(平野啓一郎『日蝕』1998年)

 これは、錬金術を探求する修道士のレポートという体で書かれた小説である。この糞真面目な修道士は、女と関わることもないが、探求の過程において、ヘルマフロディートや巨人という、錬金術的定番キャラクターを発見する。ヘルマフロディートが火刑に処された跡から、修道士は一塊の金を発見するのであるが、肝心の場面は数ページに渡る空白で満たされている。
 この巨大な空白を火刑の炎が取り巻き、それはほの暗い洞窟の奥につながっている。その洞窟は村を二分する川を底辺とする直角三角形の頂点である森の奥深くにある。この空白は日蝕中に広場で燃やされて黄金となったことが示される。そして番の巨人の登場。旅のきっかけになった『ヘルメス選集』の探求。物語はまっすぐに、要領よく、テーマの中心に突き進んでゆく。心置きなく長雨の晴れ間に燃やしてしまう。が、女も人形も登場しない。それはヘルマフロディートにとって、むしろ廻りくどいものだから。何も結合することはない、巨人はオプションに過ぎない、解答はあらかじめ用意されている。
 その解答が白紙である以上、私にはもう語ることはない。

本文引用について:平野啓一郎『日蝕』新潮社、1998年。

 例の「盗作疑惑」についてちょっと触れておきます。たぶん本人にしか分からない事情がおありでしょうから、私が推測で適当なことをいうのは失礼にあたると思います。ひとつ言えるのは、確かに現在の出版状況は、ひとつの本が事実上の絶版状態(在庫品切れ、再販未定)になるのが早すぎる。どのような本が売れるかということも、今や誰にも予測がつかないことですから、恣意的な判断基準にならざるをえない。そういう恣意的な判断基準が権力を持つ状況なのかな、ということです。


 「病の金貨」には、長い長いあとがきがあります。若いときに思ったことを思ったままに書いたものなので、若干気恥ずかしく、そのままを載せることはしませんが、要約すれば次のようなこと。
1.小説の世界は言葉でできている。
2.表現と表現が連鎖して、意味を持つ。
3.ジャンルにとらわれるのではなく、小説の表現同士の動的な関わりを見出すことが重要。

1と2に関しては、さんざん書いてきたことだと思うので、もう書きません。
3に関しては、「ジャンル」の定義をどうするか、掲載誌・レーベルなどの外的情報を判断基準にするのか、それとも読みによってしか判断できないような抽象的な定義づけを行うのかということが、ひとつクリティカルポイントになると思います。だから、こういうことを言うためには前段階の準備が必要。複数の作品間での表現の動的なつながりは、インターテクスチュアリティというタームで言えるかもしれないです。

こうやって、約10年前に書いた文章を、ほぼ修正なしでアップしてきたわけですが、全部あげてみて思ったのが、意外と悪くないな…、ということ。いや、説明不足で全然わけ分からない部分も多かったですが。『球形の季節』の部分とか、あらすじなど説明して少し手を加えれば商品として流通してもおかしくない、と思った。


 

補遺5『鉄鼠の檻』

2013-03-22 19:44:14 | 書評(病の金貨)
 補遺の5つ目は、京極夏彦の『鉄鼠の檻』。文庫版解説でも触れられていたし、『鉄鼠』が京極版『薔薇の名前』であるのは、もはや定説なんだと思うのですが、本シリーズ的に重要なのは、「石」のイメージかな。

畳の上の石(京極夏彦『鉄鼠の檻』1996年)
 
   火災が完全に鎮火するには丸二日かかった。
   知らせを聞いた消防団はあの手この手で消火活動を試みたが、水源に乏しい上に火元近くまで自動車が上がれなかったため、結局類焼を防ぐことに手一杯で、明慧寺は全焼した。
     (中略) 
   つまり結界の中だけが綺麗に焼けた訳である。


 禅の真理は空であるといわれている。だから囲い込まれた檻にいくら石を投げ込んでみたところで、別の結界に吸い込まれるだけだ。表情のない、心のない、成長の止まった、けれども過去の火事の記憶を瞳に持った「人形のよう」な鈴子、彼女と近親相姦の関係にあった、「人形のよう」に端正な態度しか示さないその兄松宮と、兄妹の記憶を閉じ込めた飯窪。「中身なき伽蘭堂」「結界自体」である美僧・慈行と、「囲いのない男」である榎木津。結界に真言的な世界をつくった小坂了念、己の結界の中のみが世界である、仁秀老人。そして言葉で世界を開いてゆく、京極堂、繰り返される炎。
 当然ながらこの小説では「檻」に閉じ込める、及び扉を開く、という言葉が頻出し、それは言葉や文字(手紙、書物)によってなされる。例えば飯窪は、鈴子が兄に宛てた手紙(恋文)を読んだ(開いた)ことによって記憶を閉じ込め、「私は手紙を読みました」という言葉によってそれを開く「記憶の扉が開いて、大事なものが解き放たれる。/それは解き放たれた途端に言葉と云う野暮なものに身をやつし、完膚なきまでに解体されてあっという間に霞となり塵となって消えて行くのだ。/思い出すということは思い出を殺すことなのだ」。また、「石」が結界に関わるものとして登場する。シリーズレギュラーが逗留する宿の名は「仙石楼」で、泰然老師の師匠が明慧寺を発見したのも(庭を造るため)そこから近くの石切り場に石を捜しに行くときであったし、京極堂の言葉にも「石ひとつ置いてあるだけで『入るべからず』の契約が成立した」との表現がある。それらの中で印象的なのが、冒頭近く、今川と久遠寺が囲碁をする場面であろう(碁に定石があり、黒と白しかなく、「囲んでやろう」と思って石を置くものであると書かれていることにも注意)。

  「しかし三百六十一の目こそが碁の世界の凡てではないですか。それを越すことは掟破りという以前に碁の否定に繋がりませんか」
  「そうよな。儂もずっとそう思っとった。今でもそう思う。ただ、儂はこの碁盤の上で人生ずっと生きて来た。あんたの云う通りこの囲いが儂の世界の凡てだった。それでいて、儂はこんなとこに石を置かれて人生に負けた」 
   老人は畳の上にひとつ石を置いた。


 檻を解き放つためには、その外に石を置かなければならない。それを破ったのは炎ではなく、鈴子(彼女が水墨画のような世界に対して鮮やかな色=紅をもっていたことに注意)の胎内に閉じ込められていた子供は流れてしまい、文字は既に、鼠に食い破られていた。「ああ云う場所はもう――これから先はなくなってしまうのだろうな。そうした場所はこれから先個人個人が抱え込まなくちゃいけなくなるんだ」
 それは時代の、流れだった。

本文引用:京極夏彦『鉄鼠の檻』講談社文庫、2001年。

補遺4恩田陸『球形の季節』

2013-03-21 15:37:37 | 書評(病の金貨)
 
お庭でくびを傾げるのすけちゃん。画像と本文は、関係ありません。

 今日もお仕事忙しかったよー。昨日、1日お休みだったから、何とか体力保ったけど。
 それにしても、雨が振れば憂鬱で、晴れると黄砂や花粉にぼんやりする、春先の天気、どうにかならないものか。

 さて、「病の金貨」シリーズ補遺4つ目は、ぐっと身近になって、恩田陸の『球形の季節』。ちょっと古いけど。


カレーパン一個(恩田陸『球形の季節』1994年)

 時間は球形、空間は箱型に閉じられた正方形。川が流れていて、石がいたるところにあり、火事が多くて、山があって、高校があって、教会がある。これらを接点として、町の基層には別の世界が潜んでいるという。そして一方は日常体質で他方は非日常体質の二人の女の子。世界のつくり方は完璧。が、ここで描かれるのは、単なる異界の物語ではない。そこで表面化されるのは、男女差、より正確に言えば「女子校的感性」と「男子校的感性」なのである。
 まず、ひとつの謎をめぐるこの世界の仕掛けを簡単に見ておこう。白(例えば、ガーベラの花)、紅(紅川)、黒(「裕美」が炎のにおいを強く感じる闇、黒い流れ)、などの色が注意深く並べられる。境界を超えるものとしての紅川、そこから呼び戻すための石。線路も一つの境界である。境界を飛び越える、ということに関わって、白いブランコ。異界・聖なる場所の収束点としての教会と如月山。そこに集中して男子校と女子校が二つずつ。町の反対側にあるジャズ喫茶(夜は居酒屋)「るいす」。願いを吹き込んだテープと、恋のおまじないの金平糖。テープは燃やされるが、金平糖は燃やされない。裕美の感じる(自分の体から発する)炎のにおいと、「おばちゃん」がその年頃にそれに耐えられず「一高」を燃やしてしまったこと。噂の裏で糸を引く「藤田晋」とその年頃に消えてしまった彼のおじ。その頃流行った石を靴に入れるゲーム。それらの中心にあって「女子校的感性」と「男子校的感性」を結び付けているものは、「噂」とそれが現実になってゆくことである。この物語は、少女消失の噂に始まって教会からみんなが向こうに行く直前(異界へ跳ぶ方向)で収束するかに見える。どちらかといえばマイナスイメージの多い願い事のテープ(誰かがいなくなってほしい)は主に男の子からもたらされるし、恋のおまじないの金平糖(誰かの心を引き寄せたい)をばら撒くのは、当然ながら女の子だ。「噂」に関するアンケートでも、「少年たちが「五月十七日に来る者」が侵略者であるととらえているのに対し、少女たちはそれこそ王子様か天使でもやってくるようにとらえているよう」だった。そして藤田晋が境界を超えるよう仕掛け、そこに行きたがっているのはすべて男の子であるのに対し、女の子たちは結局家にとどまり、「みのり」は呼び戻すための石を並べる。「いつの間にかこんな違った生き物になってしまった」みのりはそんな男の子たちに、「ほろ苦い喪失感と、ほんの少しの憎しみ」を感じ、「弘範」は女の子たちを気味悪く感じる。
 それらの中で最も際立っているのが、藤田晋とみのりの対照であろう。「自分の不幸を通してでなくちゃものを見られない」のではなく「考えるだけであそこに行けた」、「退屈だというだけ」で境界を「跳び」、「みんなを“跳ばせ”」ようとする晋。「望めばいつだって。この瞳のまま、正気のまま」「あそこに行ける」けれども「あの場所に行く必要はない」、「ここで、このままの生活でいくらでも“進める”」みのり。 

 もしかして――もしかして、この場所こそ“進んで”いるんじゃないだろうか。ここに住む人々は、普通に平気な顔で暮らしていくだけで、どんどん先へ行けるんじゃないだろうか。この子のような人たちがいちばん前を歩いているのかもしれない。もしかして、あの場所こそ彼らにとってはただの懐かしい思い出のような場所なのかもしれない、彼らはあの場所をアルバムのようにしまいこんでいて、時々開いて見てみるだけなのかもしれない。

 先程、この物語は少女消失の噂に始まり教会からみんなが向こうに行く直前で収束する物語だと述べた。が、このように見るならば、金平糖に始まり石積みに収束する、待っているものが世界を開いて、及びそばにいる(「違った生き物になってしまった」)人の心を呼び戻そうとする物語で枠取られていたことがわかる。日常生活でどんどん「進んで」行ける、それに退屈しない女の子たちの。
 もちろん、女の子たちすべてが、そうなのではない。異常に勘が良く何度も川を超えた裕美、「東京でバリバリのキャリアウーマンになる」という久子。「「論じる生き物」と化した少年たちについていけず、いつも悔しく淋しい思いをしたため」「挫折感を持って「るいす」から遠ざかるようになった」みのりとは対照的に、久子は「ゲロ吐きたくなるような連中」「情緒不安定な男ってこの世で一番嫌なもんの一つよね」と切って捨てる。「大人」の「文学青年」は好き、そして藤田晋に惹かれるのだ。それでも裕美は「熱中した遊びに飽きたときのような虚脱感を覚え」「光あふれる退屈で懐かしい町」に帰り、久子も「燃えかす」「この何もない風景の中に、このみんなの願いの痕跡とともに」残されて日常の中に戻る。なぜならば彼女たちは、異界に抜けるための教会を必要としないから。非日常に渡らずとも、日常の中でそれを感じることが出来るのだ。それを象徴するのが、女子高の中、みのりと久子が喧嘩をする場面だろう。

  止めに入るのかと思いきや、少女たちは顔を見合わせて入口の戸を押さえつけた。
  「すごいよマジでケンカしてるよっ」
  「あたしみのりにカレーパン一個賭ける」
  「あたしそれに牛乳つけてチャコに賭けるっ」
     (中略)
  「誰が来ても入れちゃだめだよォ」
  「OK」
  ピーピーと口笛が飛び交い、乙女の園はすさまじい嬌声に包まれたのであった。


 喧嘩には勝っても、久子は「何もない、ここには何もない」教会の扉を閉め、「くるりと背を向けて去っていった」、みのりのそばに戻るために。

本文引用について:恩田陸『球形の季節』新潮文庫、1999年。

 『球形の季節』は、『ゴーレム』とか、『心臓抜き』とかと、結構共通する世界を持ってると思うんですよね。

補遺3『薔薇の名前』

2013-03-20 11:36:02 | 書評(病の金貨)
 病の金貨、補遺の3つ目をアップします。3つ目は、有名な『薔薇の名前』。ちょっとネタが古くなってしまったけど、ここまであげてきた小説に馴染みのなかった読者でも、ご存知かと思います。

YSPANIAのY(ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』1980年)

 ランプは「アフリカの果て」にあったのに、炎が上がるのは、「YSPANIAのY」の部屋だ。そして、最初に燃やされるのは、アリストテレスの『詩学 第二部』ではない別の本。ホルヘはそんなに「笑い」を燃やさずに食べてしまいたかったのだろうか。
 この世界には、中心がない。「異形の建物」の中心は空洞となっており、ラストの焼け跡の場面では「内側はどこもかしこも無へ向かって落ちこんでいた」。そしてこの物語を統制するのが、失われた書物をめぐる謎なのだ。このあまりにも有名なミステリイにおける「鏡」「迷宮」「名前」「炎」の意味をくだくだと述べるのはやめておこう。ここで確認しておきたいのは、物語の中心が空洞であること、クライマックスで火の手が上がるのがその中心からではないことだ。物語の中心は空洞であるのだから、燃やすことは出来ない(そもそも「笑い」は、そういうものではない)。ではなぜ炎が上がるのが、「YSPANIAのY」の部屋の、名前も記されぬ書物からであったのか。それはいったい、どのような書物だったのか。先に結論を言おう、これは『愛の鏡』である、とともに名前も知らぬ本である。
 アドソとウィリアムが二度目に「迷宮」に潜り込んだ場面、おのおのの明かりで、おのおのの「好奇心」の赴くままに本を見る。アドソは「LEONESと名づけられた部屋から部屋を回っているとき(中略)隣の部屋に入りこんでしまった」。「Y」の部屋は「LEONES」の「S」の隣であるのだから、「隣の部屋」は「Y」の部屋である可能性がある。光学に関する書物を集めた部屋の隣、病に関するそれを集めてあった。因みに「S」の部屋は、例の鏡の部屋である。件の本は、「愛の病」に関するもの、彼は修道士として可能なその治療法を得ることは出来ない。そして「あのような満たされきっていたときに、なぜ妄執の虜になったのであろうか」と思う。この本には「愛する相手の幻影だけを糧にして生きるようになる。そうなれば精神も肉体もすべてが炎となって燃えあがり」とあり、この「愛の鏡」に写る「幻影」は「鏡の上の偶像」と等価なものである。彼は娘と再会することはないのだから病は癒されたものと思い込もうとするが、実際には救い得ない自分と、魔女として捕らえられた、やがて火刑にされる者として再会することとなるのである。また、「論証は〈言葉ニヨッテ〉推測されるのであって、〈事物ニヨッテ〉ではな」く、過去の事物は失われ、その名前だけが残るものであるのに、彼は少女と言葉が通じず、名前も知ることが出来ない。文書庫が炎に包まれる場面で、「水がない」ことが強調されるが、それは彼が彼女を救い得ないことを象徴し、最初に燃やされた本の名が記されもしないのは彼女の名前を知らないことに対応する。また、『第二部』が「書き出しを欠いた書物」であったのに対し、「エピローグ」で焼け跡を訪ねたときには〈書キ出シノ文字〉が目にとまっているが、「YSPANIAのY」は書き出しの文字である。
 名前のみが知られていて、内容は散逸してしまった書物(及び「笑い」)と、名前は知らず、身体だけがある少女(及び「愛」)が対照化され、名前のない事物(愛)のほうから出火する。過去は失われてしまい、名前だけが残る、としても、彼はその名前すら、知らないのだ。病は癒されるのではない、焼け跡は冷え切ってしまった。

 写字室の中は冷えきっていて、親指が痛む。この手記を残そうとはしているが、誰のためになるのかわからないし、何をめぐって書いているのかも、私にはもうわからない。〈過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、空シキソノ名ガ今ニ残レリ〉。

 彼は、「薔薇の名前」を知らない。

 本文引用について:ウンベルト・エーコ 河合英昭訳『薔薇の名前 上・下』東京創元社、1990年。

補遺2山尾悠子『仮面物語』

2013-03-18 21:08:34 | 書評(病の金貨)
「病いの金貨」補遺、ふたつ目は、山尾悠子の『仮面物語』。『作品集成』に、書きなおされて「ゴーレム」という作品名で載ってるけど、私は『仮面物語』のほうがいいと思うな。たしかに、「ゴーレム」のほうが落ち着いて整ってるんだけど。

破壊された卵(山尾悠子『仮面物語』1980年)

 白、黒、紅、二重館、複数の分身関係、首から下は機械人形の領主の娘、アマデウスという名のオートマータ、塔に篭もりきりの領主(その名も加賀見氏)、離魂作用のある水盤、魔術師のゲットー、魔術師の白子の弟子。防水外套の水滴、増水する街(その名も鏡市)、霧や光(炎と煙)や水の流れ、光と影、増殖する石蚤とそれによって曇る鏡、鏡の迷宮に、鏡の仮面、水上街炎上図まであって、ラストはそれらが氾濫する絢爛たる世界である。市境は閉鎖され、何重にも枠取られた世界、泉鏡花ばりの水の構図(因みに「泉」「鏡」「花(火花)」が重要な役割を果たす)。機械仕掛けなキャラクターが、機械仕掛けな物語を展開するこの世界では、既に人間とオートマータ、ゴーレムとの区別は失われている(それどころか、虎やスピンクスとさえも)。そして彼らを行動させるのは「好奇心」と「恐怖」。
 これは「魂の顔」を見る能力を持った彫刻師「善助」が分身との対決を経てその力を失い、一人の芸術家となるまでの話である。これに対して、彼の行く先々で現れる筋書きになっている「不破」は自分自身である「破壊された女」を失い、事故死体の再現群像で正当からは黙殺されるもカルト的な人気を博する芸術家となった。やがて言葉を失ってしまう童女「櫂」、人間ではないもの(スピンクス)となり、魂が行方不明となる領主の娘「聖夜」。これら(「分身」「魂」「言葉」「人間」等)とともに失われるのが、「名前」であろう。魂を失って自己の名前を忘れてしまったアマデウス、「あなたは誰」という問いばかりを繰り返す櫂。「不滅のスピンクスは、今でも鏡を見つめながら、永遠に答えの戻ってこないひとつの謎を問いかけ続けているのだろう」。
そして、物語中盤で命を失ったのが物語りの展開を予測するような詩を書いた「卵喰い詩人」である。この詩人の固茹で卵は水盤の水に離魂作用を与えたものなのだが、「孵化する前に卵の見つづける夢を、そのまま茹であげて凝固させた食物。これは夢を見させてくれる」。さらに彼は迷宮のような二重館の出口を探し回った挙句〈外〉が実在することを信じられなくなり「扉が静かな音をたてて閉じたこと」にも気づかずに、「両手の中の微光を帯びて潤った一個の美しい卵」の中に入り込むのだ「この卵喰い詩人は、その長からぬ生涯のうちでもっとも幸福な瞬間へと、さしかかろうとしていたのである。/ 熱した鍋の上で激しく蒸発していく水蒸気のような音をたてて、雨音が夢の外側で持続している」。凝固した瞬間と夢の卵。これを「不滅のスピンクス」と考え合わせてみたい。「凝固」と「不滅」、及び眼=鏡と卵の関係(「暗い一枚の鏡と化した眼に卵の姿を映し」)と鏡とスピンクスの関係(「鏡を見つめる不滅のスピンクス」)は類似し、「純白の卵」は「黄金の四肢」を持ったスピンクスに変貌する(卵喰い詩人がアマデウスの「黄金の傷口」を見ていることに注意)。また、ゴーレムの鉄仮面は「卵形」と形容されるが、「〈土の精霊〉である詩人」が卵とともに水盤に落ちて死ぬのと同じく、ゴーレムも水盤に落ちて泥の塊に戻る。「卵の夢」に対して、櫂が善助を見るまでの「夢を見るばかりの単調な生活」のことが「夢の樹液に根を浸して育っていた櫂の蛹の時代」と呼ばれている。そしてこの詩人の詩は「自動筆記めいた」「右手が勝手にペンを取って」と描写されるが、これは「影盗み」の右手が勝手に見たものの魂の顔を作り上げるのと等しい。新生の「卵」と対照的な「柩」「石室」などの語が頻出し、葬儀(で飾る死者の像)が重要な場面となる(「内側にめくれこむ」との形容にも注意)。
 さて、詩人は「至福と絶望に混乱しながら」「真の詩人への新生の歓びと、霊界の騙し討ちへの恨みとを同時に持ったまま」死ぬが、ラストでこの混沌の卵は割れ、「影盗み」善助はその能力を失ったときに「不滅のスピンクス」の作者、芸術家として称えられるが、不破は彼自身=「破壊された女」が失われた恨みを抱きながら、「破壊された人々」の作品群をつくり続けることとなる。内と外を隔てる殻(鏡を覆う石蚤・ゴーレムの鉄仮面)は消え、「好奇心」と「恐怖」、光と影、仮面と魂、炎と水、名前と身体、「新生」と死、「歓び」と「絶望」はついに別れることとなったのだ。彼女が永遠の謎を問いかけ続ける鏡は、曇りなく澄み切って。

 卵 割レル

本文引用について:山尾悠子『仮面物語〈或は鏡の王国の記〉』徳間書店、1980年(中編小説「ゴーレム」『山尾悠子作品集成』国書刊行会、2000年所収、とは別作品と見なす)

 こういう卵のイメージって、冲方丁の『マルドゥック・スクランブル』とかにもあると思うんだけど、あんまりそういうこと言ってる人知らないな。「卵小説」という切り口ってありかしら? えっ、『天使の卵』? それは違うでしょ?