人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

わんこちゃんのこと。

2013-03-23 20:56:01 | 犬・猫関連

 
 今日は子犬ちゃんがいないので、うちのなかが火が消えたように静か。
 今回は訓練に出しただけで(訓練に出すのははじめてですが)いずれ帰ってくるのが分かってるけど、子犬ちゃんが里親さんに貰われていったときはいつも、寂しい思いをするものです。心のなかにぽっかり穴が開いたような、という比喩がそのまま。うちに残ってしまうと困るし、縁があって、良い里親さんが見つかったら、それ以上嬉しいことはないはずなんですが。それまで大事に育てていたものが突然いなくなるというのは、すごく寂しい。こんなことずっと続けてたら、私病気になるな、と思う。

 いま、うちには10匹の犬がいます私の家族。里親探しなどしていて、残ってしまった犬がほとんど。自分で捕獲して、自分で里親探しをする場合は、できるだけ里親さんを探しやすいように早い段階で捕獲するのですが、他の人が捕獲したのがうちに連れて来られた場合などは、捕獲する人に焦りがないからか、あるいは何も考えていないのか、ぎりぎりもう明日保健所に連れて行かれるような段階になってようやく捕獲するような場合も多い。そういう場合、大きくなってるし、人にいじめられた経験を重ねてしまうので、里親さんに貰ってもらうのは難しい。
 ボランティアでやっているというと、時間的にも金銭的にも余裕がある人がやっているんだと思われがちですが、正直うちはいっぱいいっぱいです。なにしろ、人間二人に犬10匹なんで、どう考えても厳しい。大きな組織に属しているわけでもないし、費用は持ち出しですが、お金以上に心労が大きい。私も、フルタイムのお仕事はとてもじゃないけど入れられないし、今のパートタイムのお仕事でも充分無理だと思ってます…。こんな状況でなかったら、たぶん名古屋かどこかで仕事をしている(ひょっとしたら韓国とか中国で日本語教師してるかもしれないし)と思いますし。

 たぶん、一度失われてしまった命は決して戻ってこない、というのが大きいんでしょうね。だから、縁があって自分のところに持ってこられた犬はほうっておくことが出来ない。自分が無視したから死んだんだって思うのは、耐えられないですから。

 しつけ教室の先生には、縁があって自分の犬になったのだから、大変だと思っているとそれが通じる、今いる犬とより良く暮らす方法を考えなさいと言われましたが、そりゃあそうだけどいっぱいいっぱいなのは事実。そりゃあ、いくら10匹犬がいようと、亡くなったときにはありがとう、と言って見送りましたよ(あ、でもゆきちゃんが亡くなったときは、もうちょっと頑張って!って引き止めちゃったけど、私。だってその時母が不在だったから。ちょうど1日前に出産した姉のところに行っていて)。自分がつくったわけでもないのに縁があって自分の家族になった犬だから、神様から預かった命。でも、それとこれとは別の問題。

 私が今住んでいる自治体は、避妊手術の助成金も出ないし、避妊・去勢手術を飼い主さんに勧めることもしていません。保健所での殺処分頭数でもワーストを争ってましたし。ボランティアの活動などがあって、多少は改善されたと言っても、結局一部の人達に負担がかかっているだけなのではないかという気がします。私たち一家がここに住んでいなければ、こんなに犬が増えることもなかっただろう、どこか遠い街の、可哀想なお話で済んでしまったかも、という気がします。もちろん都会には都会の、例えば悪質な業者さんがいるとか、問題があるとは思うのですが。
 うどん県も瀬戸内国際芸術祭もいいけど、外からの視線を気にするんだったら、動物行政に関しても、せめて全国並みになってほしいなあ、と思います。

 人間の場合でも、むかしむかしは間引きや子捨てが横行していました。それが今のように、少しだけ子どもをつくって、大事に大事に育てるような文化に変わってきた。だから、犬や猫の場合でも、ちょっとずつ、いつかは変わらないでもないとは思います。ただその前に、うちが保たない。母はともかく、私は自分の人生も、どうにかできていないのだから。大事な子どもののすけちゃんをかかえて、どうにか人生を切り開いていけるのか、大変不安です。


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