人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

亜麻糸と髪の物語:佐藤亜紀『喜べ、幸いなる魂よ』

2022-04-03 10:57:13 | 佐藤亜紀関連
また少し、実家に帰ってきています。1週間くらいわんわんずと戯れます。
新年度になったはずなんですが、特に新しいこともなく、相変わらず生活や将来が不安です。
4月からも、またKUNILABOの講座を続けます。どうぞよろしくお願いいたします。

 佐藤亜紀の新作『喜べ、幸いなる魂よ』(KADOKAWA、2022年)は、18世紀のフランドル地方を舞台とし、亜麻を扱う商家、ファン・デール家に引き取られたヤンを主な語り手とする。ファン・デール家には双子の姉ヤネケと弟テオがおり、ヤンはヤネケのことが好きで、ヤネケはヤンの子供を生むが、生涯単身を選んだ女性たちが入る半聖半俗の「ベギン会」に入ってしまい、ヤンに次々と妻を紹介する。ファン・デール氏が卒中で倒れ、跡を継いだテオも運河に「落ちて」亡くなると、ヤンが商売を引き継ぐ。ヤネケは恐ろしく頭がよく、最初はテオの名、テオが亡くなるとヤンの名前で研究を発表したり、紡績機械をつくったりする。

 女性だけで暮らすベギン会での生活はとても心地よさそうで、女性の名前では本が出せないから、名前を借りて本を出したり手紙を書いたりすることに関するヤネケの考え「知識なんて別に誰のものでもないんだし、正しい筋道は誰が言ったって正しい筋道」(208頁)と、姪っ子のピエトロネラの考え「伯母さんは名前なんか符牒だからどうでもいいって言うんだけど、ピエトロネラで遣り取りしたいよ、本当は。だって気が付いたのはあたしだもん」(253頁)の違いも面白い。

 兎や林檎も重要なモチーフだし、佐藤亜紀さんの作品の中で、これほど子供たちがたくさん、無事に生まれる小説があっただろうかとも思うけれど、私が一番注目したいのが、水のイメージとともに、髪の毛や亜麻糸、レース編みなどのモチーフが、巧みに結びついていることだ。そしてそれは、雲が湧き、雨が降り、運河が流れ、運河の水紋が部屋の天井に映るように、刈り取った亜麻をさらす水のイメージとともに描かれる。

 例えば、ヤネケの出産に関しては、

 全く、何の理由もなく、ああ、生まれるな、とヤンは感じる。雨雲がヘントまで、あの水車小屋の辺りまで行って、雨が屋根を叩いて音を立てて、ヤネケは切り揃えた短い髪の頭を枕に任せてその音を聞いている。お産がどんなものかは知らないけど、あの雲の切れ間が来る頃には、子供はきっと生まれている。(51頁)

と描かれ、出産で亡くなってしまったアマリアが「産気づいたのは真冬の、雲行きの怪しい日だった」(261頁)。

 ベギン会の女性たちは、パンを焼いたりレースを編んだりしてお金を稼ぐが、

レース作って、それで自分で生きていけるんだ(224頁)
自分の手で働いて祈って生きるって、本当に神様の手の中で生かされている感じがするものよ(225頁)


と思い、やがてベギンに入ることになるテレーズ(テオとカタリーナの娘)は、ベギンに入ることになっていた日、阻止しようとしたレオに髪を引っぱられている。結末部分でフランス共和国の代理としてやってきたレオがベギン会にやってきた場面でも、

それからヴェールをかなぐり捨て、ピンを外して額の髪押さえを外し、顎まで覆っていた頭巾を引き下げる。濃い蜂蜜色の短く刈り上げられた髪が頭蓋を覆っている。(中略)側頭部の微かに地肌の見えるところを示す。「兄さんに引き抜かれたここ、もう髪が生えない。でも私がベギンになることは止められなかった。だって私は自由だから。(略)」(292頁)

とあるように、その痕跡が示される。

 特に、ヤネケとテオの亜麻色の髪の毛は、亜麻糸の紡績と重ねて描かれる。

 ファン・デールの子供たちはどちらも色の薄い、未晒しの亜麻糸のような髪をしていた。姉のヤネケはそれをお下げにし、弟のテオは短く刈り上げていた――ある日いきなり、一人で剃刀を使って剃り上げてしまってからは。(中略)
 (中略)何年も、何十年も、老人になった後も、テオのことを思い出すとき浮かぶのは、まだ頼りない首筋の上のきれいに刈り上げた頭で、その度に、何かあったっけ、と考えた。(9~10頁)


とはじまり、結末近くでヤネケの髪は、「純白の亜麻糸の束」のような白髪となっている。

殆ど白くなった、僅かに癖のある切り揃えた髪が、驚いて首を竦めたヤネケの顔の周りで、純白の亜麻糸の束のように揺れる。(301頁)

 フランス革命の余波で、フランス軍によって修道院もベギン会も解散させられるという騒ぎの中、フランス兵がヤネケの帽子(ベギンは髪の毛をすべて帽子の中に隠す)をひったくった場面である。ヤンのほうは髪の毛がなくなっており、ラストで倒れて眠っていたヤンの頭をヤネケはつつく。

 ヤンは、どんどん年を取る自分に比べてヤネケが年を取らない、と考えるが

カタリーナはどんどん太るのに、ヤネケは太りも瘦せもしない。相変わらず小娘みたいな顔をしている。ヤネケの髪の色は今どんなだろう、と思う。白髪さえないんじゃないか。永遠に若いままなんじゃないか。自分は普段は頭に小洒落た布を巻いて被っている。市庁舎に出る時仮髪を被る為に刈り上げたからだが、実は少し薄くなり始めている。(192頁)

あれから40年経って、週に一度か二度顔を見て時々は話し込むだけに慣れて、すっかり老いて、ただ、ヤネケは少しも変らないように見える。(297頁) 

帽子を取ったヤネケの様子は、年相応に老けていた。

顎のあたりで切り揃えた白髪が顔を縁取る。ヤネケは確かに年相応に老けていて、ただそれがとても愛しい。一緒に歳を取ったんだ、と思う。

 寝っ転がったヤンとヤネケが天井を見ると、運河の水紋が映る。
 だから、『喜べ、幸いなる魂よ』は、亜麻色の髪の毛が、亜麻を刈り取って水に晒し、繊維から純白の糸を紡ぐように、白くなるまでの物語だ。
 




指輪の話

2020-04-05 23:04:05 | 佐藤亜紀関連
 少し前の話になりますが、ALL REVIEWSの阿部賢一×豊崎由美「佐藤亜紀『黄金列車』(KADOKAWA)を読む」(2020年2月20日)に行ってきました。

 『黄金列車』は、第二次大戦末期にハンガリーの東の前線から西の前線まで、ユダヤ人の没収財産を積んだ列車が移動する間の、そこに乗り込んだ役人たちの話で、主な視点人物であるバログの回想と現在時点とが混じり合いながら進んでいきます。
 阿部賢一さんは、『黄金列車』の中には生きたユダヤ人は一人も登場しないが、没収財産として物があって、その物を通して不在のユダヤ人の存在感を描く、そしてまた列車というものはご存知の通りホロコーストに深く関わっているものでもあって、それを列車を通して描くという手法に注目していました。

 阿部さんの話は、こう言うと偉そうに聞こえるかもしれませんが、私も同じような感じのことが気になっていたので、わりと人文(文学?)系の定型的な発想なのかもしれません。

 で、『黄金列車』の中では、没収財産を通して過去の回想へとつながってゆくのですが、その中で特に、結婚指輪の部分が印象的でした。
 指輪、今『空気人形』で論文書いてるんですが、そのなかでたまたまヒロインの空気人形の「のぞみ」が自分でおもちゃ屋さんで指輪を買ってずっとつけていて、それがラストで小学生くらいの女の子の手に渡ったり、『それから』のなかに指輪が出てきたりとか、ちょっと気になっています。
 それはたぶん単純に指輪(結婚指輪だけでなく)というのが重要なアイテムだということなのだと思うのですが、ちょっと気をつけて読んでみてもいいかな、と。
 そういうわけで、『黄金列車』の結婚指輪の話を。それから『スウィングしなけりゃ意味がない』にも出てきたので少し(そういえば『鏡の影』にも結婚指輪ではないけれど指輪が出てきました)。

 列車に積み込むために没収財産をチェックする場面です。

税関吏は箱の蓋をずらして中を見せる。金の輪がぎっしり詰まっている。結婚指輪だ。「査定済みです」
 バログも気分が悪くなる。別に初めてではない。次長も参事官殿も机に座って指示をするだけだったが、バログは何回も目にしている。それでも気分が悪い。仕事に取り掛かろう、と言う。
 (中略)
 マルギットは自慢顔で手を翳して見せる。控えめで品のいい指輪が嵌まっている。趣味がいいでしょう、と言う。
 あの人坊ちゃんだから、下品なものなんて選ばないの。
 (中略)
 ヴァイスラ―が買ってきた菓子を食べる前に、カタリンは皿を下げる。バログはそっと立って、皿を洗い始めたカタリンの脇に立つ。ポケットから小さな箱を出して、開いて、目の前に差し出す。彼女の手が止まる。
 何でこんなところで、と中の指輪に目を遣ったまま、カタリンは言う。
 あの指輪を見た後じゃ出せないよ。
 そんなこと気にする?
 するさ。
 カタリンは水道の水で手を洗う。布巾で手を拭う。指輪の箱を取る。
 でも高いでしょ。
 私にはね、とバログは答える――ヴァイスラ―ほどの贅沢はさせられない。平の事務員だ。
 そんなのどうでもいい。
 皿を洗い、コーヒーを沸かして、二人は食卓に戻る。カタリンは指輪を嵌めた手をマルギットたちに見せる。マルギットは歓声を上げてカタリンに抱き付く。パイプをふかし始めていたヴァイスラ―はバログに微笑み掛ける。あの鷹揚な、気持ちのいい笑顔。(佐藤亜紀『黄金列車』KADOKAWA、2019年。40~42頁)


 一つ目の(中略)から後が、過去の回想です。引用では(中略)を挟みましたが、本文中ではごくなだらかに、現在の物語から繋がっています。ヴァイスラ―というのがバログのユダヤ系(半分ユダヤ人)の友人で、お金持ちのお坊ちゃん、物語の現在時点ではすでに自殺して死んでいます。カタリンはバログの妻で、現在時点の少し前に、屋根裏の明り取りから転落して死んでいる(のをバログは自殺ではなく事故だと思いこもうとしている)。マルギットはカタリンの友人で、ヴァイスラ―の妻、現在時点ではすでに「事故」(ドイツ人に惨殺された)で亡くなっています。そしてヴァイスラ―とマルギットの二人の子供たちも行方不明。
 バログが、没収財産の結婚指輪を見て、自分と友人のヴァイスラ―がそれぞれの相手に、結婚指輪を渡した日を思い出すという流れになっています。指輪は指に嵌めるものなので、それを嵌めていた人の存在をすごく感じさせますし、でも結婚指輪がそこに没収財産としてあるということで、その持ち主はすでに死んで(殺されて)いるのだろうということを同時に感じさせる。結婚指輪なので、すごく個人的なものであったはずだけど、没収されて、「査定」されて、個人的な価値を剥奪されて、単なる金の塊としてそこに収められている。
 ヴァイスラ―がマルギットに贈った結婚指輪がどうなったのかは書かれていません。マルギットともに棺の中におさめられたのだろうと思いますし、黄金列車に積み込まれた没収財産は、芸術品としての価値があるようなものではなかったらしいので、ヴァイスラ―がマルギットに贈ったような品のいい指輪は混じっていなかったでしょう(価値のあるものはすべて国外に出ている、という記述もありました)。

 二次大戦中のハンブルクのスウィングボーイズを描いた『スウィングしなけりゃ意味がない』のなかでは、結婚指輪は個人を特定するものとして機能しています。語り手エディのスウィング仲間で、父親の従業員の息子であるクーの母親(つまり父親の従業員)が空襲で亡くなります。

真っ黒に焦げた指の、真っ黒になった指輪に気が付く。医師が触るだけで、指はぽろっと落ちて指輪だけが残る。ぼろ切れで拭いてぼくによこす。見覚えはあるかね。
「ゲルトナー夫人です。従業員です」
(中略)
 回収車が来た時、ぼくはゲルトナー夫人の遺体だけを置いていくように頼む。もしかすると右手は違うかもしれないが、それはもうどうしようもない。病院と遺体安置所回りの合間に顔を出したクーに指輪を渡す。クーは泣き出す。(佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』KADOKAWA、2017年。266頁)


 「ゲルトナー夫人」というのがクーの母親です。これはたぶん、佐藤さん自身も参考文献にあげているイエルク・フリードリヒ『ドイツを焼いた戦略爆撃 1940-1945』(香月恵里訳、みすず書房、2011年)にも書かれていたエピソード(だったと思う)ですが、空襲でだれだかわからないくらいに焼けてしまった遺体に、結婚指輪があったことで辛うじて、誰だったのか判断している、それくらい結婚指輪が個人的なものとして機能しているのです。



佐藤亜紀×深緑野分 「黄金列車の乗車券」(12月10日、於.scool)行ってきました!

2019-12-23 13:54:12 | 佐藤亜紀関連
少し前になりますが、佐藤亜紀×深緑野分 「黄金列車の乗車券」(12月10日、於.scool)に行ってきましたので、感想書きます。
と言っても、自分で取ったはずのメモがどこかに行ってしまったので、記憶を頼りに書きます…。

黄金列車』は、第二次大戦末期、ハンガリーのユダヤ人没収財産を積んだ長い長い列車が、東側の前線からもう一方の前線まで移動するまでを舞台とした小説で、物などを契機として喚起される過去の時間と、現在時点とが入り混じりながら語られます。
主な視点人物となるのは、ハンガリーの文官バログ。母親がユダヤ系であったために妻共々無残な死に方をした友人(妻は殺され、友人自身は自殺、子供たちは行方不明)がおり、もともと友人同士であったその友人の妻、自分の妻とのなれそめからがずっと、列車の進行とともに回想されます。

佐藤さんからは、最初にハンガリーを旅行されたときの話など、
深緑さんからは、『ベルリンは晴れているか』の取材旅行の話や次の取材旅行の話などから対談がスタートしました。
佐藤さんが入手した判読不能な史料の話など、面白かったです。
次回作や次々回作のお話などもあって、司会の佐々木敦さんから、
佐藤さんは官僚を描くことが多いけれど、深緑さんは市井の人を描くことが多いという違い、
史実の上にフィクションの登場人物を置くことについての質問がありました。
佐藤さんが史実で実在する人物を小説に登場させたのは初めてだ、というのは結構意外でした。

ちなみに個人的には、歴史と小説の関係については、佐々木さんとは別の観点から、考えたいことがあります。
フィクションではない、ということは、歴史にとっては必須な要素だと思いますが、
小説にとってフィクションであると言うことは別に必須要素ではないだろうと考えていることがあって、
じゃあ小説を小説として成り立たせている要素は何なんだろう、ということです。
私が念頭に置いているのはナタリア・ギンズブルク(とカルロ・ギンズブルク)とかなんですけど。
ある家族の会話』くらいであればまだ、あからさまに『失われた時を求めて』へのオマージュである構造・表現などが小説的要素といえるのかもしれませんが、
マンゾーニ家の人々』なんて、ただひたすら淡々と残されている手紙をならべて、
短いコメントをつけていっているだけなのに、読んでいくとなぜかそれがちゃんと小説として成り立っている。
これは一体何なんだろうと、不思議で仕方がないわけです。
とはいっても私がそう感じているだけなので、結局私がそう感じている要素になってしまうのかもしれませんが。

会場からの質問の時間に、私も質問しました。
佐藤さんが判読不能の史料の話
(紙の質が悪いので、時間が経つとインクが滲んで読めなくなる→さらにマイクロフィルム→そこからプリントアウト)
をされていたので、
本文中でナプコリという事務員のタイプが完璧で、濃さも太さも均一で、時間が経つと滲む原因となる余分なインクを含まない(84頁)
とあることが印象的だったので、
その実際には滲んで読めなかった史料と、
作品中で語られる時間が経ってもにじまないような完璧なタイプとの関係を聞いてみたかったのですが、
質問としてはうまくまとまらなかったなあ…と思ってます。

あと、会場からの質問に、「かぶりを振る」という表現が非常に多い、何か意味とか意図があるのか、というものがありました。
私は全然気にならなかったのですが、比率的に他の作品に比べて多いのかどうかは何とも言えないのですが、
読み返してみると確かに登場人物が「かぶりを振る」場面はいくつかありました。
特にヴァイスラ―(バログの裕福な友人で、母方がユダヤ人)の子供たちが、
逃げる前にバログと妻のカタリンを訪ねてくる場面(253~255頁)
には多かったです。
たぶん、「かぶりを振る」ってNoを言う仕草なので、違う言語を話していて言葉が通じないとか、子供がNoを示す場面や、
あるいは言葉でNoを言ってしまうと、そこから会話や交渉が始まってしまう、そういう会話や交渉自体を拒む仕草なのかな、と思います。
あと、音がしないで視覚的に示される、という部分もあるかも知れません。

というような感じでした。たいへん充実した時間でした。
ありがとうございます。

パネル発表「戦争時計の音―佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』を読む」のお知らせ

2018-02-24 19:41:09 | 佐藤亜紀関連
こんばんは。
菅実花さんのお話聞きに行ったり、高橋さきのさん(ダナ・ハラウェイの翻訳者)のトークイベントに行ったり、『アラザル』の佐藤亜紀さんインタビュー聞きに行ったり、あとそうですね、東大の飯田橋文学会の松浦理英子インタビューも聞いたっけ。
いろいろあったんですが、ずいぶん更新をさぼっておりました。
あとそうでした、西原も講師を担当している市民講座、クニラボの来期の募集も始まってます。西原は来期、輪読形式のゼミで、『源氏物語』の宇治十帖を読んでいきます。
また余裕があれば記事にします。

今日はパネル発表の告知です。
3月30日(金)に、第8回世界文学・語圏横断ネットワーク研究集会にて、佐藤亜紀さんをお呼びして、討論者に若島正さんを迎え、いっしょにパネル発表を行います(於:立教大学)。

 佐藤亜紀さんの小説は、何か翻訳小説のようなものとして評価されてきた反面、日本文学としての位置づけは十分になされてきたとは言い難いのですが、最新作『スウィングしなけりゃ意味がない』については同時代のドイツで誕生したかのような時代的・地域的リアリティを兼ね備えた小説として評価される一方で、現在の日本の政治状況と重ねた評も存在します。そこで当該作品を、ドイツの戦時を描いた作品として評価するとともに、現代の日本で、日本語でこの作品が書かれた意味を問うことによって、世界文学としての評価とともに、日本文学としての意義も明らかにすることを試みます。それによって、日本文学の枠組みを世界文学に開くことができると考えるからです。
 具体的には、泉谷瞬は、登場人物たちが見せる多様な身体のあり方と「自由」および「資本主義」の絡み合いを中心に論じ、西原は「死の都」としてのハンブルクのイメージを、作品中に描かれる湖や空襲後の雨などの水の描写から考察します。作者の佐藤亜紀さんは、翻訳小説を擬態することの意味について述べます。
 とても貴重な機会になると思います。また、当該パネルだけでなく、興味深い個別発表やパネル発表が目白押しです(上記リンク先からプログラムがご覧になれます)。ぜひご参集ください。
※事前予約は必要ないはずです。
※例年資料代として参加費1000円(2日分併せて)支払う必要があるそうなので、たぶん必要です。

日時:3月30日(金)15:00~(集会自体は13:30~、翌31日(金)にも)
場所:立教大学池袋キャンパス5号館5301教室
タイトル:「戦争時計の音―佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』を読む」
司会:茂木謙之介(日本学術振興会特別研究員)
発表:
佐藤亜紀(作家)「翻訳小説を擬態する」
西原志保(国立国語研究所非常勤研究員)「死の都としてのハンブルク」
泉谷瞬(大谷大学文学部講師)「スウィング・ボーイズの身体性」
討論者:若島正(京都大学文学研究科教授)

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〈おまけ〉
最新ののすけちゃん(母から送られてきた)。
 

実家で一時預かり中のくりん君、香川で珍しく雪が降り積もった日に、大喜びで庭を駆け回ったそうです。

里親募集中です。 →2020年1月2日に急逝しました。

保護主さんのサイト「おうちで暮らそう」から、応募できます。
また、同じ保護主さんのサイトで4歳の「いちごくん」も里親募集しています。

8月19日『スウィングしなけりゃ意味がない』を聴く試み(@scool)メモ

2017-09-18 21:02:21 | 佐藤亜紀関連
すごく楽しかったんですが…、一月くらいたってしまいました。
8月19日に三鷹のscoolであった、佐藤亜紀さん、大谷能生さんによるイベント、「『スウィングしなけりゃ意味がない』を聴く試み」のメモをまとめてあげておきます。
『スウィングしなけりゃ意味がない』に登場する音楽をかけながら、佐藤亜紀さんと大谷能生さんが縦横無尽に語り合うイベント。
わんドリンク制だったので缶チューハイ頼んだ西原は、ちょっといい気分で(お酒に弱くなったかしらん?)たいへん楽しくうかがいました。

KADOKAWA文芸編集部さんが逐一詳細に実況しておりまして、まとめもありますので、当日のだいたいの様子は知ることができます。

少し時間が経って記憶があいまいになった部分もありますし、西原は印象に残った部分のみかいつまんで紹介することに致します。

・まずはヒトラーユーゲントの歌からスタート。
「かっこ悪い」ヒトラーユーゲントの曲と対照的な、「かっこいい」ものとしての「ジャズ」に彼らははまった。

・もともと「ジャズ」は汚い言葉だった。それがswingmusicとして、中産階級の健康な音楽に作りかえられてくる。

・Pick Yourself Up 1936
この辺からアメリカ映画(の紹介、公開、流通)はドイツではしぼられてくる。
瀬川昌久さん(エディと生まれた年いっしょ)、1940年の1年間、日本のジャズのレベルが一番上がった時代。

・Caravan
ナチが嫌いなものはアスファルトとジャングルだが、それは限りなくつくられたもの。フィクションの創造。

・Tiger Rag
ドイツではだいぶ映像が絞られてきていて、音源だけが入ってきている状態なので、どのように踊ればよいか分からない。
当時のドイツの若者たちはフォックストロットしか知らない。
それをかっこよく踊るためにどうしていたか。→高速でやる。
ゲシュタポの調書によると…踊りながらヘッドバン。膝歩き。後ろにそる。「邪悪なクラブ百合」
            「どいつもこいつも上級学校の生徒だから」英語

・Surabaya Johnny
古き良き映画のラブシーンをやりたかった。なぜかいきなり暖炉にパンする、みたいな。

・佐藤さんがいつ頃からジャズを聴いていたのか、との質問。
小4から高2くらいまでの頃。NHKFMのジャズ、ラジカセで録音して一週間聴いていた。
でだんだん調声の崩壊というのが分からないといけないということが分かって、ワグナーとか聴かないといけないということになって、ワグナー全部聴くのたいへん。
音楽の身体性(が分からない?という文脈だったのか、に惹かれる?という文脈だったのか)。

・Strange Fruit
ほんとに重い曲。左翼カフェで作った曲。ビリー・ホリディはほんとに何も考えていない人で、何も考えずに歌った(それであの表現になる!)。

・Who's Sorry Now?
ナチの録音技術はすごかった。ドイツは磁気テープがあって、フルトヴェングラーの海賊版がソビエトで出たのは、ドイツのテープをソビエトが押さえたから。

・オペラの話になる。
オペラ音量問題…一番大きな音の部分と、一番小さな音の部分の差が激しすぎるから、常に音量を調節しながら聴かないといけない。
変な演出…『嵐』で、ブルジョワっぽい人たちが株価見ながら大パニック。→最後までそれでいくとおそろしい。
ワーグナーを見る人はあまりきれいな格好をしてこない。パンツスーツが多い。

・Sing,Sing,Sing
クレズマ的サウンド。ジャズは半分くらい(バルカン的なものや)東欧的な音楽。→何で自分が好きなのか分かった、と佐藤さん。

ブルーノートレーベル…ドイツ系の人が思っている幻想のアメリカ黒人音楽。

・Blitzkrieg Baby
「ノベルティソング」と呼ばれるもの。ちょっとあまりちゃんと評価されない。

…というような感じでございました。

**********〈おまけ〉***********
実家で一時預かり中の保護犬ちゃん、里親募集中です。 →2020年1月2日に急逝しました。
 
保護主さんのブログから、お申込できます。
子猫ちゃん
も保護したそうで、そちらも保護主さんのブログで里親募集しております。→無事貰われていきました。