人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

書物を引き継ぐということ――桑原武夫蔵書廃棄問題について

2017-08-13 11:35:16 | 書物と世界・社会
こんにちは。
実家に帰省して、犬にまみれております。リア獣です。幸せです。

  
のすけちゃん、新しい首輪になってます。

 今日は、桑原武夫の遺産である蔵書を寄贈先の京都市が廃棄していたという問題について考えたことを書きたいと思います。
ちょっと時間が経ってしまいましたが。

京都新聞の記事
朝日新聞の記事
毎日新聞の記事

 桑原蔵書の(ものとしての)学術的価値についての議論が盛り上がったこともあり、私にも言いたいことはあったのですが、ここではそれについては述べません(Twitterでぶちぶちぼやいたし)。
 ここで私が考えたいのは、公立図書館とは何なのか、ということです。

 非常に大きな影響力のあった方ですから、蔵書の書き込みや、読まれた形跡があったかどうか、何をパクり、何を改変し、何をきちんと典拠明示しながら正確に引用したのかなどの検証として、学術的な価値があることは言うまでもありませんが、学術的な価値を言うならば大学図書館に寄贈してもよいし(実際、「学術的価値の高い」蔵書は生前に京都大学に寄贈されたそうですが)、弟子に形見分けするのが一番でしょう。「廃棄」されたということになってはいても、実際には古本屋に流れたのではないかと憶測する声もありますし、そうであるとするならば、「学術的価値」という観点から言えば、かろうじて保たれたとも言えます。

 ただ、ここで私が考えたいのは、そういうかたちではなく、「京都市」に寄贈されたということの意味です。最終的には向島図書館の倉庫で保管されていたときに廃棄されたということですから、公立図書館にそういう本がある、ということの意味を考えてみたいのです。
 公立図書館とはどういう場所か。例えば市立図書館であれば、市民であれば誰でも利用できる場所です。貧しくても、お金持ちでも。大学や学校に所属がある人も、そうでない人も。誰もがみな利用できる場所です。

 書物は場所ふさぎで、寄贈された書物をすべて保管するのは難しいことかもしれません。1万冊の蔵書、と言ったらたいへんなものだったでしょう。本はどんどん増えていくものですから、どの図書館もいっぱいのなかで、どの本を廃棄し、どの本を保管するかということは難しい問題だと思います。そういうときに、「活用されていない」「利用されていない」ということは、確かに一つの指標にはなるのでしょう。
 けれども、よく考えてみてください。倉庫に、つまり一般の目に触れない場所にしまい込まれた本を、誰が利用するでしょうか。そんな状態になった本を利用しようと思うのは、あらかじめ桑原武夫蔵書の調査をしようと考えている人だけです。だから桑原蔵書は倉庫にしまい込まれた時点で、すでに半ば死んでしまっている、殺されてしまっている状態だったのだと思います。

 確かに桑原蔵書には、一般の市民が喜んで借りる、喜んで読むようなものは少なかったのかもしれません。けれどもそういう本が、ふつうの市民が目にし、手に取って、利用できる場所にあることが大切だと思うのです。最初は興味がなくても、ふと手に取ってみる。最初はわけがわからないと思っても、読んでいるうちに、少しずつ興味を持つようになる。本は集まることで力を持つものですから、そういった本の並びが、ふつうの市民が利用できる場所にあって、常に目にすることが、大切だと思うのです。
 約一万冊の蔵書ということですから、桑原武夫が生前、大変な労力とお金をかけて集めたものだったでしょう。それだけの蔵書を家に持つことができるのは、どれほどのお金持ちでしょうか。けれども京都市民は、それだけの蔵書を、自分たちが常に利用できる場所に、持つことができたのです。貧しくても、お金持ちでも。大学や学校に所属があっても、なくても。親に学歴があっても、なくても。
 特に家がお金持ちなわけでもないふつうの市民が、教養を形成することや、学問に興味を持つことはほんとうに難しいことです。けれども、そういう蔵書が誰でも利用できる公共図書館にあることで、ごく普通の市民が、学問に興味を持ち、次の時代へと学問をつないでいけるかもしれない。そうでなくても、(こういう言い方はあまり好きではないのだけど)読んで、なにがしかの人生の糧にできるかもしれない。

 こういう私の考え方は、たぶん教養主義なのでしょう。ちょっと古臭いのかもしれない。けれども、ベストセラーを何冊も購入しては、流行が去った後に廃棄するような在り方と、誰もが書物を通して教養や学問に触れることができるような在り方と、どちらを目指すのか、ちょっと考えてみてほしいなと、思います。


「死の都」としてのハンブルク―佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』その3、および論文掲載情報

2017-08-06 02:07:34 | 佐藤亜紀関連
こんばんは。
ずいぶん遅くなってしまいましたが、『スウィングしなけりゃ意味がない』レビューの続き、書きました。
何だか結局まとまらなかったんですが、とりあえず今回でおしまい、です。

その1
その2

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4.地下と裏庭――穴掘りは得意

 ところで湖沿いの家は地形上どうもみなそうなっているようだが、エディの家の地下室は、防空壕になっていて、裏庭に通じている。かつて仲間たちがジャズのレコードを聴きながら、芝生の上に置いたデッキチェアに座り、あるいはパンチを飲み、あるいは水面で戯れた裏庭だ。この地下室と裏庭で、エディがエヴァと踊り、両親が亡くなり、両親を埋め、両親を改葬させた後には金を埋める。
 エディとエヴァが一緒に踊る場面を見てみよう。
 
 踊ってくれるだけでいい、とぼくは言った。電蓄のところに行って、親父が地下に下ろしたレコードの中から一枚を探し出して、掛けた。(中略)甘ったるい腑抜け音楽だ。でも胸が痛む。(96頁)

 わざわざ「親父」の「レコード」をかけていることに注意したい。というのも、この場面でエヴァは、「お袋」の「古いカクテルドレス」を着ているからだ。「薄いクリーム色の絹で、胸元で布地を交差させて腰高にスパンコールを一面、ベルトのように縫い留めてある」。(95頁)。エディが「お袋はもう入らない」と言って、エヴァにあげたのだ。

 デュークとエヴァが結婚する場面で、

コニーがお針子を雇って、ぼくがやったドレスのサイズを直し、飾り襟と袖を仮留めした。ぼくはお袋から結婚式の時のヴェールを借りて来るよう厳命された。(175頁)

とあるから、このドレスはおそらくエヴァのウェディングドレスに仕立て直された。そしてヴェールもエディの母親のもの。エヴァはドレスを着られるくらいなのだから、おそらく「お袋」と背格好が似ているのだろう。エディの恋人になったのは教授の娘でクラリネットを吹くアディだったけれど、エディはそんなエヴァが好きだった。そして「親父」のできなかったことを代わりにする、とあるように、エディの恋愛や欲望は両親の模倣や代理なのだ。
 空襲がひどくなったある日、父親が工場を見に行った後パニックに陥る母親をエディは宥めに掛かる。

実際、お袋に何かわかるとは、ぼくは思わなかった。今でも後悔の種だが、馬鹿扱いしていた、というのは本当だ。その時ぼくがしたのもまさにそんなことだった。お袋の脇に坐り込んで、親父に他にやることがなければやるように、宥めに掛かったのだ。(229頁)

 その時エディは、「ナチに尻を捲ってや」り、「やりたい放題をやること」について、「ぼくは父さんの望んでいることを代りにやってたから」(230頁)と言うのだ。

 その両親は、地下室で亡くなる。

 地下室も、それ自体は呆れるほど無傷だ。親父とお袋は、ぼくとアディのお気に入りの革のクッションに頭を乗せて、敷物の上に横になっている。(259頁)

 すでに触れたように、空襲で工場が焼けてしまった後、「古い映画をまた見てるような気になる。子供の頃のぼくの家、みたいな。七十とかになってから、親が生きていた頃に撮ったフィルムを見てるみたいな」(再掲、253頁)とエディが感じるように、両親は過去に回帰している。

 ぼくは泣く。息子が留守なのをいいことに、田舎に送る荷物には入れなかったカクテルドレスとタキシードを着込んで、警報が鳴るとシャンパングラスをもって地下室に下りて、死ぬほど阿呆なレコードを掛けて踊って。防空壕の中で眠るように死んでいる、無傷の、薔薇色の頬をした死体。(中略)たぶん、自分が死ぬことにさえ気が付かなかった死体。
 ぼくは庭に穴を掘る。穴掘りは得意だ。二メートル掘って、敷物に包んだ親父とお袋を埋める。(中略)
 死体はその後三ヶ月間、庭に埋まっている。(260頁)


 かつてエディとエヴァが躍った地下室で、両親もむかしのレコードをかけ、むかしのドレス――「むかしの」とは書いていないけれど、おそらくむかしの、ひょっとしたらイギリスを旅行した頃に作ったドレスではないだろうか――を着て、踊りながら亡くなったのだ。イギリス軍による空襲によって。
 その二人の遺体を、エディは庭に埋める。エディが埋めてしまったものは、いったい何だったのか。とは言え二人の遺体は、それほど長く庭に埋まっているわけではない。

裏庭では運転手の子供たちが鶏を追い掛けたり鶏に追い掛けられたりする。親父とお袋を改葬した後はちょっとした菜園に変っている。(294頁)

 エディが「穴掘り」が得意になったのは、ジャズのパーティーが原因で入れられた収容所において、エルベ運河の拡張作業に従事させられたからだ。

隣にいた収容者が、監視兵の目を盗んで短く何か言う。理解できない。もう一度何か言いながらやってみせてくれる。少なく、浅く。たぶんロシア語。ぼくは一度にたくさん掘り進むことを諦めて、少しずつ手早く掘る。三日目、ぼくは一人だけになっている。(199~200頁)

「少なく、浅く」。少しずつ掘るやり方を、エディは体得して、両親を埋める穴を掘り、最終的に徴兵されて(おもちゃの兵隊みたいな軍隊で)「塹壕を掘れと言われ」(307頁)ては掘り方を指導し、

 掘った土は外側に積み上げろ、深さが稼げる、とぼくは指示する。それから掘り始める。
 冷たい小雨の中で、ぼくたちは黙々と溝を掘る。幾らも掘らないうちに溝は泥沼になる。(中略)幅一メートル、深さ一メートル、長さ四メートルを手早く掘り上げて、ぼくは上に這い上がり、マックスと一緒に後ろから溝掘りを監督する。ああ、それは駄目だ、腰を痛める。焦らなくていい、浅く少しずつ掘れ。(307頁)


ドルを手に入れては穴を掘って埋める。戦争終結間際、SSのヘッカーが金庫の金を盗もうとした後も、エディは残りの金を庭に埋める。

ぼくは残り四万ドルを家に持ち帰って埋める。金庫も良し悪しだ。何か入ってます、って宣伝しているようなものだ。他の金もだが、油紙で包んでから缶に詰めて深く埋めたので、上で野苺くらいは栽培できる。焼け跡で生えているのを掘り返して持ち帰ったのだ。たぶん、五月の末には食べられるだろう。(317~318頁)

 そしてこの金もいつかは、必要な時に、掘り返され、使われるのだろう。
 黒い雨が降り、炎と風が荒れ狂っても。いつの間にかこちら側が「死の都」になってしまっていても、両親は正しく墓地に改葬され、墓石は燃えることがない。土はほんの少し掘り返され、繰り返し何かが埋められ、また掘り出されるだけで、「向こう側」の世界まで、穴が到達することはない。

足元では、誰かが町を追い出され、誰かが首を吊り、飢えて倒れるまでただ働きさせられ、泥の中で殴り殺され、焼き殺され、地下室で窒息して死に、生き残りは廃墟に巣くい、ぼくは穴を掘って金を埋める。(309頁

・佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』KADOKAWA、2017年。

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 拙稿「『源氏物語』の人形論――雛と「人形」の手法」が『頸城野郷土資料室 学術研究部 研究紀要』に掲載されました。
『源氏物語』における雛と人形(ひとがた)を、人形(にんぎょう)として総合的に見ることで、フィクション構築の手法として考察することを試みた論文です。西原の人形論として、最初に論文化されたものです。最初に学会発表をしてからずいぶん時間が経ちましたが、おかげで男女関係や女性性を身につけるものとしての雛と、男女関係や女性性を穢れとして、仮託して払いのけるものとしての「人形」(ひとがた)という結論に辿り着けたのは良かったです。
 リンク先からPDFもダウンロードできます。どうぞよろしくお願い致します。

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 実家で一時預かり中の保護犬ちゃん、7月16日に譲渡会に参加したようです。
 
 ご縁はなかったようですが、だんだん譲渡会にも慣れてきたようです。
→2020年1月2日に急逝しました。

→保護主さんのブログ「おうちで暮らそう
→詳しい譲渡条件、お申し込みも保護主さんのブログをご確認ください。