人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

KUNILABO4月期講座担当および、インタビュー掲載のお知らせ

2018-03-05 22:11:48 | 研究の話
こんばんは。今日は二つお知らせを。

2017年度9月期にお世話になった、人文学の学校「KUNILABO」で4月からも講座を担当することになっています。
4月からは月2回(第1・3金曜日19時~20時半)のゼミ形式で、『源氏物語』宇治十帖を少しずつ読んでいきます。
チラシ
 
恋愛が嫌だとか、死にたいとか、出家したいと言いつつもできずうじうじ悩む登場人物の多い宇治十帖には、正編にはない面白さがあります。
まだまだご予約余裕があるようです(というか、3名以上お申し込みがないと開講されません!)。ぜひぜひお誘いあわせの上、お申し込みください(4月期講座の紹介ページからお申し込みになれます)。

また、同じくKUNILABOのHPに、西原のインタビューが掲載されました。
講師インタビュー「『源氏物語』を読む」担当 西原志保先生(2018年2月)
講座のこと、最近出版した新書のこと、これから出したい専門書のこと、若い研究者のみなさまへのメッセージなどなど、語っています。
自分で言うのも何ですが、結構面白いと思います。
ご覧になって下されば幸いです!

どうぞよろしくお願い致します。

KUNILABOの先日のイベントにも参加したので、また余裕があったら感想書きたいのですが…いつになるやら。
それでは、また。

メモ:イメージ、表象、書物

2013-06-17 12:34:41 | 研究の話
 研究計画のようなものです。今後10年くらいの…。
 自分のためのメモなので、とくに公表する必要はないんですが、ブログに残しておくと、ちゃんと振り返ると思うので。

 私の読みの特色として、小説の中に出てくるイメージの連環を読み解く、というのがあります。このブログに公表してるものだと、「病の金貨」と題したシリーズに顕著だし、論文として書いたものだと、一番最初に発表した、「『源氏物語』の「おなじところ」と「同じ蓮」」(『古代文学研究 第二次』14号、2005年10月)とか、「女三宮と季節―六条院の空間と時間」(『古代文学研究 第二次』17号、2008年10月)とか、「生殖の拒絶―『それから』における花のイメージ」(『名古屋大学 国語国文学』2009年11月)とかね。一応通ってはいるけどまだ掲載号が未定な、『道化師の蝶』に関するちょっとした文章(研究ノートのようなもの)でも、そういう読み方をしました。たぶん、私が小説を読むときの、一番ベーシックな態度なんだと思う。

 先生には、「イメジャリー論的な」手法と評されたんですが、実は私、イメジャリー論はよく分かりません。イメジャリー論に限らず、詩論全般弱い(というか、詩が読めない)。
 どこかに書いたような気がするのですが、『薔薇のイコノロジー』と『薔薇の名前』と『虚無への供物』をほぼ同時期に読んだり、ボリス・ヴィアンをまとめて読んだりしたらそうなった。バシュラール的な炎と水の発想は好きだけど、ユング的な、原初的なイメージに還元してゆくところが気に食わない、とか言ってたらボリス・ヴィアンも同じようなこと言ってるんですよね。
 たぶん、「イコノロジー」的な発想の影響は受けていると思われる。で、イコノロジーの教科書的な本でも、イメジャリーについて一章が割かれている(W.J.T.ミッチェル『イコノロジー イメージ・テクスト・イデオロギー』)ので、たぶんイコノロジーとイメジャリー論には関係があるのだと思われます。

 …というような感じで、自分の読みの手法に関する、理論的な位置づけができてない。今後、「病の金貨」を論文なり単行本なりでかたちにしてゆきたいのであれば、読みの理論的な附置を固めることが、たぶん必要になってくると思います。で、必要なことをピックアップしてみました。

1,炎と水のイメージとか。錬金術とか。
 ①詩論を読む。ヴァレリーとか、マラルメとか。
 ②バシュラール的なイメージ、イメジャリー論とイコノロジーとの関係を把握。
 ③ブランショとか。現代の文学理論。
 『砂男』にも『心臓抜き』にも山尾悠子『仮面物語』にも自動人形が出てくるので、「自動人形」の表象についても考えておく必要があるかな。私がいまずっと考えてる、球体関節人形的なものとつながってくる部分もあると思うけど、違う部分もあると思うので。「自動筆記」とかと、関係あるのかな?
 「病の金貨」という題は、『黒の過程』の読みで、「恥と後悔」の対価として支払われる「金貨」に重要な意味を見出したから。錬金術的なモチーフもある小説なので、「金」は重要なんだと思うんですが、それが「金貨」なんですよね。貨幣とは何かについても考えたいところ。

2,エクリチュールとか、書物とか。
 「エクリチュール」というと、日本では圧倒的にフランス現代思想の影響が強いと思うのですが、どういうわけか私がエクリチュールや書物について気になるのは、ドイツ文学(からの翻訳)なんですよね。
 トーマス・ベルンハルト『消去』とか、ペーター・ハントケ『反復』、W.G.ゼーバルト『アウステルリッツ』など。
 たぶん私の発想に一番近く、影響も受けてるのが原克『書物の図像学』かな。
 これに関しては、みんな大好きベンヤミンをちゃんと読めばいいんでしょうか。あとは、図書館や読書、書物に関する歴史やメディア論を押さえればよい。どういうわけか私、メディア論的な本が苦手ですぐ眠くなってしまうので、ちょっと頑張らなくちゃいけないです。

3,「山」のイメージ
 これはあんまり大きくないテーマですが。
 『源氏物語』の宇治十帖に関しても「山」が重要な意味を持つ(恋と道心)し、ベルンハルトの『ウィトゲンシュタインの甥』の冒頭で、非常に上手に「山」のイメージを使ってたんですよね。精神病と肺病のサナトリウム。『魔の山』的な(笑)。正確に言えば、『ウィトゲンシュタインの甥』はサナトリウムではないですが。山のこっち側とあっち側で、語り手と主人公とが、一方は肺病のために死にかけて、一方は精神的な危機のために死にかけてる。
 いつか書いてみたいテーマです。

 私の発想は比較文学的ではなく(語学がまったくダメだし)、あくまでも日本(語)文学研究者だと思っているので、日本(語)文学として考察するんだ、ということについてどこかで固めておく必要もある。

 勉強しなきゃいけないこと、いっぱいあるなあ…。

 あ、こんな本を読めばいいよとか、アドヴァイスがある方は、ツイッター上ででもご教示いただければありがたいです。


私の読み方。

2013-03-20 11:11:11 | 研究の話
 昨日はお仕事が忙しかったから、疲れたよ~。

 私がしんどいしんどい言ってたら、母に、私の歳のときはしんどくなかった、って言われた。
 まだ32なのに毎日しんどいって、変ですか?
 でも、大学院とか行ってたら、病気になる人も多いから、特に問題なく過ごしてきた私はよっぽど丈夫なんだと思うんだけど。

 私、たぶんこのブログ公開し始めてから、1日に平均2~3くらいの記事をアップしてきてると思います。冷静に考えたら頭おかしいペースなので、自分にとってのこのブログの位置づけをちょっと説明しておこうと思います。まあ、私の頭どこかはおかしいと思いますが。
 私にとってのこのブログは、日記というよりも、自分の文章やアイディアのサンプルを貼り付けて、公開するための場所。純粋に日記として書いた文章は、そんなに多くないです。疲れた~!みたいな、ツイッターでも書けそうなものも多いし。
 むかし書いた文章で、どこかに投稿する可能性がないものも、そのまま貼り付けてます。だから学部生時代に若いいきおいのまま書いた文章や、院生時代のまだ文体の固まってない頃に書いた文章もたくさんある。新しく書いた文章は、そんなに多くないです。書きたいんですが、なかなか時間がとれなくて。今書いた文章としては、一番最初にあげた、『冥府の建築家』の書評。これがたぶん、一番今の私の文体が出ていると思う。
 
 ただ、研究者としての訓練を受けたので、文章はだいぶん変わったし整ったと思いますけど、小説の読み方や発想は、21、2歳頃とあんまり変わってないかな。その頃に、今「病の金貨」シリーズとしてあげてる本とか、『薔薇のイコノロジー』と『薔薇の名前』と『虚無への供物』を一緒に読んだことなんかで、私の読み方は決まってきたんだと思います。

現在の研究課題

2013-02-28 21:25:23 | 研究の話
これまでの研究課題

大きく分けて
1.人形(殊に球体関節人形)に着目した内面表象について。
2.少女論
(生殖可能でありながら生殖を禁じられているという矛盾と、学問への志向、新自由主義や業績主義へのアンチという側面を結びつける)
3.描写と説明に着目した、新人賞メディアと国語教育の共犯関係について。

1.について
人形による内面表象に着目し、絵画的な遠近法による内面表象と対置する。絵画的な遠近法は近代的な内面観やリアリズム描写と結びつく(柄谷行人『日本近代文学の起源』講談社、1980年)が、一方で人形、殊に球体関節人形は女性による内面表現の手段として近年注目される(今野裕一、天野昌直「人形作家列伝」『ユリイカ』2005年5月号)。人形論においては絵画や彫刻と対置され(谷川渥「彫刻と人形 比較論の地平」『美術手帳』2006年3月号)、アナグラムなどシュルレアリスム的な手法と親和性が高い。
 『源氏物語』及び近代文化・文学の2つを対象とする。『源氏物語』に関しては、「心的遠近法」(高橋亨)的な配置の上にシュルレアリスム的な人形の手法を位置づける。近代文化・文学に関しては、笙野頼子作品における人形表象を中心とし、球体関節人形の通史的な位置づけ、日本画家・松井冬子などに着目しつつ、「なかったことにされた内面」の問題とマジックリアリズム的な手法を結びつける。
 →詳しく説明

2.野溝七生子、矢川澄子を扱う予定。→詳しく説明

3.説明するな描写しろ、という小説技法と、傍線部の登場人物の気持ちを説明しなさいと言う国語教育の共犯関係について。

このような研究課題に興味を持たれた方は、(ReaD&researchmapを通して)ご一報ください!

それぞれ詳しく、追々書いてゆきます。

これまでの研究について

2013-02-28 21:00:57 | 研究の話

研究業績一覧は、ReaD & Researchmapにて公開しています!

『源氏物語』の主要な登場人物の一人である女三の宮は、研究史の中で、その存在が六条院世界や物語のありようを変容させたものの、内面を語らない、人形のような女君であると言われます。
 ですが、女三の宮の心内語や心情に添った描写、会話文など、女三の宮視点、女三の宮主体のことばは少なくありません。そこで、研究史上で女三の宮の「内面」が描かれないとされた理由について考察した上で、女三の宮のことばを総合的に捉え、『源氏物語』中に果たす機能を明らかにすることを試みたのが、博士論文の骨子です。
そのために、
1.近代的な「内面」観という視座から、研究史の整理を行った上で、
2.女三の宮の心内語・会話文・和歌等を、抽出・整理し、
(1)一貫する特徴
(2)時系列による変化
(3)表現上の効果
について考察し、『源氏物語』全体における意味づけを行いました。

1.について。「『源氏物語』女三宮のことば」(『日本文学』2008年12月号)
近代的な内面は、以下のような条件が指摘されます(柄谷行人『日本近代文学の起源』講談社、1980年等)。
(1)ことば(表層)と、内面(深層)が分離され、ことば(表層)は内面(深層)を表現するものとされる。内面(深層)が先にあって、内面(深層)に真実があるという観念を伴う。
(2)それぞれの時間・空間における自己の意識がツリー状に整理され、統一的に説明する〈私〉が構築される。
(3)自己の人生が顧みられ、過去現在未来と続く直線的な時間によって物語化・歴史化される。
源氏や紫の上の述懐は、このような条件に適っており、女三の宮のことばは当てはまりません。女三宮のことばは短く断片的であり、一筋なものです。源氏が前提とする、季節と女君の重ね合わせ、和歌の常套である琴と男女関係の重ね合わせなどの象徴性を理解しないため、象徴性を破壊する発言を「何心なく」発してしまいます。
『源氏物語』研究における近代的な内面観の限界が浮き彫りとなった。但し私は、『源氏物語』を書かれた時代に戻して読むべきであるとする立場には立ちません。上記のような構造を持つものを「近代的内面」と呼ぶならば、現在既に「近代的内面」を持たない人も多いでしょう。

2.について。「『源氏物語』女三宮の自己意識」(『日本文学』2009年9月号)
 女三の宮は結婚当初、思ったことを思ったまま口にしており、自己意識もありません。柏木事件後に「身」「我」の意識があらわれますが、それは憂き身を嘆くネガティヴなものであり、出家後穏やかな状態を獲得すると消えます。藤壺や紫の上の物語では、男女関係の苦しみが男女関係や子への愛情を深化させます。一方で女三の宮の物語は、男女関係からの離脱し、共に仏道修行することによって、父親との精神的な結びつきを取り戻す過程を描きます。

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