人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

平成27年度中古文学会秋季大会感想(覚えているところだけ)

2015-11-03 12:22:01 | 学会レポ
こんにちは、最近どうも疲れが残りやすく、何時間寝てもすっきりしません。
少し前の話になりますが、10月24日と25日、中古文学会に行ってきたので、覚えているところだけメモ的に感想を書いておきたいと思います。
…とはいえ、どうもちょっと疲れやすい体調のときで、たいへんよく寝てしまい、記憶が断片的です…💦
場所が比較的近いといえば近かったので、行って帰ってくるだけのぎりぎりのスケジュールで行ったのもあったんですけどね。
もともと私はよく寝るのですが、それにしてもちょっと寝すぎでした。

今年の中古文学会、会場は県立広島大学。
行くときは広島駅からタクシーを使いました、私方向音痴で、迷う自信があったので。
タクシーだと駅から15分くらいかな。

この日はベージュのジャケットとカーキ系のスカート、少し暑かったです。
前からでは分かりませんが、ジャケットの後ろ部分にタックが、スカートの後ろにはフリルが入ってます。
足首部分に猫の模様の入ったストッキングをはいていたのに、誰も気づいてくれませんでした。

1日目は中古文学会賞の授賞式と、シンポジウム。
受賞者の桜井宏典徳さんの、将来への不安から一時期研究をやめていた時期があった(でも再開して書いた論文で査読に通り、さらに賞をいただいて…)、という挨拶が切なかったです。
シンポは室町・戦国期の『源氏物語』の伝本に関するもの。中古でのシンポも何度目かになって、少し慣れてきたというか、まとまりがよくなってきた感じです(←なぜか上から目線)。
質問用紙が複写式になっていて、あ、便利、と思いました。複写式にすると少し高いんでしょうけれど。

懇親会のお食事が大変おいしく、そしてあまっておりました。
懇親会であんなに食べたのは久しぶり、すっかりお腹がぱんぱんになってしまいました。
若い男の子とか少ないので、ボリュームのある食べ物は減らないのよね。院生、減ってるんでしょうね…。
県立広島大には院生がいないので、会場の中の案内やマイク係は学部生がやって、あとは広島大の院生が手伝いに来てるんだ、と言ってました。

2日目は間に1度ずつ休憩をはさんで、午前中4本の発表と、午後は5本の発表。
午後の発表の途中でトイレに行きたくなってしまい、しかも中のほうの席に座っていたためよけてもらわないと出られず、たいへん恥ずかしい思いをしました。
何だか妙にトイレが近くなることがあるのよね、まだそういう年齢ではないはずだと思うんだけど…、さすがに。

午前中4本のうち3本が『源氏物語』に関するもの。1本がいくつかの資料における記述が「物語合」なのか、「歌合」なのか、あるいは別々に行われてその順序はどうだったのか、というもの。
印象に残っていたのが、浮舟の手習歌に関する発表で、浮舟が母に会いたい、と思っているのを、「共感者」を求めている、と解釈していたところ。会いたい、にはいろんな理由があると思うし、理由がなくてもただ会いたい、ということもあると思うのだけどなあ。分かってくれるor分かってほしいから会いたい、と解釈できるような場面があるのならともかく、入水しようと思った場面でも出家後も会いたいのは母親だけ、だから母親のことは理解者だと認識している、というのは全然別の事柄だと思うのだけど。
あと、前半では浮舟の手習歌を、共感者を求めて詠まれるものと位置付けていて、後半ではそうありたい自己を演出して周囲に訴えるために詠まれるもの、と位置付けていたので、そのふたつの関係がどうなっているのかも気になりました。
午後はいろいろな作品を対象とした発表。歌集や歌物語に関する発表が多かったかな。
『平中物語』において女から詠みかける歌についてのもの、『夜の寝覚』で女主人公がそんなには「気高く」ない、と表現されることの機能について、『有明の別れ』についてのもの、『発心和歌集』の編者が大齋院選子であるのかどうかというもの、『伊勢物語』における万葉類歌(万葉集風の歌)の機能についてのもの。

全部終わったら5時前くらいにはなっていて、そこからバスで広島駅に行き、途中の岡山駅で少し買い物をして、結局家に着いたのは8時過ぎてました。近いような遠いような広島。
新幹線の中で何度か母から電話がかかっていたので何かと思ったら、のすけちゃんが庭に出たときに、ずぅっと私が帰ってくるのを待っていてなかなか家の中に帰らなかったからなんだそう。あの子もちっとも私の言うこと聞かないくせに、いじらしいというかなんというか…、可愛い子です。

――――――おまけ――――――
10月12日に保護したちゃめちゃん、11月1日に譲渡会に行ってきて、写真撮りました。
 
里親募集中→ペットのおうち
     →いつでも里親探し
→2016年2月14日に貰われていきました。


日本文学協会第35回研究発表大会に参加してきました!

2015-07-12 11:02:04 | 学会レポ
7月5日(日)に、日本文学協会の研究発表大会に参加してきました。
私も発表しました。(→日本文学協会のサイト
今回はちょっと、別の締め切りが重なったり子犬ちゃんが来るとかで、
集中して発表が聞ける状態ではなく、旅日記のようなことしか書けないのですが、いちおう…。
子犬ちゃん、7匹いたうちの2匹はすぐにもらわれていき、1匹も昨日、1匹はすでに貰い手さんが決まっているので、
残りは3匹なのですが…(今日はまだ話がないな)。
また数日のうちに情報アップしたいです。

前日お昼くらいまでずっと読み原稿を作っており、夜7時くらいにホテルにつきました。
今回の開催地は奈良。京都から近鉄で45分(在来線)or35分(特急)。
コンビニも近くにあったのですが、何かちょっとおいしいものを食べたかったので、
カフェとか少しきちんと食べられるお店を探そうとふらふらと出ると…
ホテルのごく近くに、おあつらえ向きの小さなお店がありました。
(Ninoというお店です、お店のページ
何でも、おひとりさまには量を調節してお料理を出してくれる、というので、前菜の3分の2サイズとパスタのハーフサイズを。
お酒も頼んでしまった(トカイアスというハンガリーのブドウのお酒。濃厚)。
かなり頭も痛くてぼんやりしていたのですが、ご飯を食べているうちに少し頭がすっきりしてきたので、
食事って大事だなと思いました。

ホテルに帰ってちょっと読み原稿を読み上げながら、直します。
少し長いかな…と思って削ったのですが(当日早口になってしまって早く終わりすぎることに)。
旅先では特にすることがないので、早めにお風呂に入って早めに寝ました。

外に出るときでもなければ着られないので、この日はひらひらしたワンピースと猫柄ストッキング。
 
ストッキングはシームレスタイプだったのでつま先が破けないか心配したのですが、無事でほっとしました。

当日は10時10分までに司会に挨拶するよう連絡があったため、
余裕があるように早めに出たのですが、少し迷ってしまってちょうど良いくらいの時間につきました。
今回は発表者が多く、古代後期が2教室に分かれることに(『源氏物語』orそれ以外)。
近代の発表でもちょっと気になったのがあったのですが、結局(しんどかったので)自分が発表した教室でずっといました。
いくつかの発表を並行して行うスタイルは、たくさんの人が発表できるのでいいのですが、
聞きたい発表がかぶってしまいますね。
私がうかがったのは、『源氏物語』の女君呼称に関して、紫の上を中心に考察したもの、「書きすさぶ」という表現に着目したもの、小野の妹尼を中心に、母と娘関係について考察したもの、浮舟について「夢」表現に着目したもの、小野小町の髑髏説話に関して『江家次第』に着目したもの、の6つの発表でした。

私自身の発表は、「『源氏物語』の絵画とリアリズム」というタイトルで、絵合巻に出てくる源氏の須磨・明石の絵日記と、「絵」がどのような評価基準で評価されるか、ということに関して絵合、帚木巻の絵画論、蛍巻の物語論などを扱ったもの。
分かっていたことなのですが、前半と後半の接続が悪く、別々の発表にしたほうが良かったのですが、提出した発表要旨と違うことになってしまうので、そういうわけにもいかず…
発表要旨はできるだけ曖昧にごまかしておいた方がいい…という結論。
まあ、論文書くときは分けて書きます。
ほんとうは人形と絵画の比較もしたかったんですが、それはそれでまた別の話になりそうです。
今回は先行研究集めるのもぎりぎりになってしまったので…『源氏物語』、先行研究多いなって、初めて思いました。
今まで思ったことなかったんですけど。

奈良女子大の近辺は、おしゃれなカフェや雑貨屋さんが多くて、とても素敵でした。
お昼もクレープのお店でごはんっぽいクレープ(+スープ、サラダ、デザート、ドリンク)のランチセットを美味しくいただき、たいへん眠たくなりました。

懇親会に参加、
この日の夜もホテルで、結構きちんと寝たはずなのですが、どうにも疲れが取れず。
ふだん寝る時間と違う時間に寝ても、熟睡できないのかもしれません。
生活リズムを整えるのは、難しいなあ…。

翌日にホテルで撮った写真。
 
学会発表したときの写真は撮り忘れました。

日本文学協会第69回大会に参加してきました!

2014-11-18 11:24:01 | 学会レポ
こんにちは。
この土日に日本文学協会第69回大会に参加してきました。

ラウンドテーブルでは発表もしました。→趣旨など

私の発表は、ちょっとまあいろいろあって準備不足でひどかったのですが、この発表をしたことでひとつ覚悟は決まったかなあ、と思っています。
私が引用した岡山茂さんの大学論(『ハムレットの大学』)における「処女」は比喩で、単なる比喩からもうちょっと実体的に…と言って持って行ったのですが、大学の「自律性」を「処女」という比喩で語るときの論理があるので、そこの論理とか構造を使うことができたかもしれない…と思ってます。私の「処女」はまったくの比喩でもまったくの実体でもないので。
世代が上の女性の研究者の方で、(女性の)研究者は結婚や出産をすると白い目で見られたみたいな不満を語られる方、結構いらっしゃるんですが、(もちろん結婚や出産をしたい人はするべきだ、と思いますが)私は正直羨ましいんですよね。34にもなってまだ間に合うだの、結婚したほうが幸せだの言われなきゃいけないの、ほんとにいらいらします。結婚したほうが幸せだったらとっくの昔にしてるよ、ちょっといい加減にしてほしいわ、男は嫌いだと何度言ったらわかるんだよ、みたいな…。研究してる人のこと、結婚も出産もしない異形の(かぐや姫みたいな…(笑))存在として見てくれたらどんなに楽だろう、と思う。あるいは、いまはどんな仕事でも感情労働的な面が強くなっていて、自分でお金稼ぐにも、就活するにも何でこんな毎日おっさんに媚び売らにゃならんのだ…みたいな。そういう怒りのこもった言葉です。
全然詰められなくて、なかなか苦しい発表だったんですが、でもやってよかったです
(私が企画者だったので、参加者の皆さん、いっしょに発表してくださった本橋さん、奥村さんには申し訳ないですが)。
私はこれまで小説とか物語とか、フィクションの世界のものばかりを研究してきて、そういうものを読む能力にはたけていると思うのですが、破綻してでもアクチュアルななまもの、を扱ってゆくんだ、という覚悟はできたような気がします。

まったく予定はないので単なる決意表明ですが、次は動物愛護と生殖のはなしで発表します。わんこの世話しに実家に帰ってきて、今も里親探しの活動手伝っている自分が、研究を続けている意味をちゃんと考えたい。さしあたっては笙野頼子とからめて考えたいです。

二日目午後のシンポジウムはいつもは「文学研究の部」として開催されるんですが、今回は国語教育・文学研究合同、でした。
石原千秋のネームバリューのおかげか、ものすごい参加者が多かった。
私はいつも日文協の国語教育部会の人たちの言ってることって意味不明なんですが、石原千秋が華麗に嫌味を繰り出していることだけはよく分かった。そしていつも意味不明な国語教育部会の人たちが、(途中までは)極めてまっとうな常識的なことを言っているのだ、ということが分かって良かったです。(質問者の)高木(信)さんじゃないけど、ジャーゴン多すぎ。
そうそう、須貝さんが「日本語は自他未分の言語」とか仰ってたのだけど、あれってどうなのかしら??日本語学とか日本語教育の方に詳しく聞きたいのだけど、日文協、日本語学や日本語教育の方はいないのよね。

今回は日曜の午前中からラウンドテーブルだったので土曜日も泊まり、日曜日も懇親会に参加したので泊まったのですが、二泊もするとすっかり犬恋しくなってしまうので我ながら情けないです。
帰ってきてのすけちゃんの顔見たらほっとした。
…そして帰ってきたら子犬ちゃんが一匹増えてた(別の人が保護して、里親探しだけ手伝ってた子犬ちゃんのうちまだ貰い手の見つかっていない一匹を連れてってもいい?、と言われてたの、とうとう連れてきたらしい)。
2カ月くらいのはずなんだけど…前からうちにいた子(3カ月くらい)より大きいぞ…うぅむ。

表象文化論学会第9回大会に行ってきました。

2014-07-22 11:06:31 | 学会レポ
少し前になりますが、7月5日(土)と6日(日)に、東京大学駒場キャンパスで開催された、
表象文化論学会第9回大会に行ってきました。
遠かった!!

「パネル8:匣のなかの科学者と少女――京極夏彦『魍魎の匣』による科学文化論の試み」のコメンテーターを担当しました。
ほかにも聞きに行ったパネルもあるんですが、いろいろ言い忘れたこととかあるし、とりあえず自分のパネルについて先に書いときますね。

私たちのパネルは、京極夏彦『魍魎の匣』を、ハコ、科学者、少女の三つの観点から読み解くもの。
企画者は西貝さん。
ハコ…奥村大介さん、科学者…西貝怜さん、少女…鈴木真吾さんが発表し、
コメンテーターの私はとりあえずこの三つの発表をつなげるのが自分の役割だと認識した。
司会は金森修先生です。

まずは奥村さんが古今東西の様々な「ハコ」表象を紹介しつつ、『魍魎の匣』のあらすじを説明します。
個人的には、サティアンの「ハコ」が面白かった。

西貝さんは、京極夏彦の別の作品である、『ルー・ガルー2』と比較しながら科学者表象についてその差異と理由を検討します。
『魍魎の匣』の美馬坂は、死ぬべきではない、哀しき科学者として描かれているが、『ルー・ガルー2』の佐倉遼は殺されるべき存在として描かれていることについて、
「閉じた世界で幸福を追求した科学者・美馬坂は、科学者として更生の余地がありつつも死んでしまったため、死ぬべきではなかった存在として描かれている」と結論づけます。

鈴木さんは、江戸川乱歩「押絵と旅する男」引用について確認した上で、「「(少女)人形」を媒介として駆動する欲望」について、人間関係を整理し考察したもの。
人形になりたい欲望、人形にしたい欲望、人間を人形として愛したい逆ピグマリオン・コンプレックス(@谷川渥)、親子関係、疑似親子関係、欲望の三角形など。
最終的には久保と美馬坂との関係を考察し、「美馬坂・須崎らの科学技術は久保にとっての「オカルト」」であり、「久保の「ガラテア」を完成させる最後の要素」でもあること、
久保と美馬坂とのずれが久保の悔恨を招き、「久保の側から見れば、科学は自らの欲望を叶えないばかりか、理想とは異なる姿へと身体を変貌させる悪夢のような力」である、と結論づけます。

私のコメントは、①少女を箱に詰めて、そこに科学が関わるのだからこの三つの観点は無関係ではない、
②この三つは、人間とは何か、という疑問に集約することができる、
③ハコや人形と言う比喩は、フィクション構築の手法と重ねられている、というもの。

科学とは境界であってハコであるのだが、美馬坂は「人間は脳である」という極めて近代的な人間観を持っている、ということ(そこが美馬坂が「捨てた部分を拾った」「部分を生かす研究」の須崎とはいっしょにできない)。

司会の金森先生のほうから、臓器移植は脳死のときに逆にほかの臓器をとること、ゴシック小説の伝統にすでに科学表象が組み込まれている(『フランケンシュタイン』)、近代科学(唯脳論)と妖怪という前近代的なものとの取り合わせに特徴があることなど、コメントいただきました。

会場のほうからも、いろいろ質問があって面白かったです。
・文学の科学表象を見ることは文学の側から見て有益であることは分かるが、逆に科学の側から見て文学が有益であるような例はあるか。
・近代以前の文学における妖怪について
・円朝の「真景累ヶ淵」について(←神経が掛けられている)、近代科学が入ってきた時期に妖怪的なものをプッシュ。
・西洋における人形や人造人間の表象に大きな影響を与えているのがデカルトの人間機械論だが、日本においてそういうものはあったのか。
・統合失調の幻想や幻覚など、科学的に一歩一歩解明されてきているが、その幻想や幻覚の内容は文化によって左右される。もう一回文化的なコードが参照される方向に揺り戻しが来るのではないか…
などなど…
(記憶があやふや)

金森先生のほうからも、科学と人文社会学であれば、結局経済や政策の話になってしまう(STSとか)。それは自然科学のふりをした人文学であって、人文学でなければわからないことではない、ちょっと限界がある…というような解説がありました。

近代以前における妖怪に関して、私『源氏物語』の「もののけ」についてお答えすればよかったんでしょうけど、すっかり飛んじゃってました。
でも、紫式部の「もののけ」って正直、例の有名な『紫式部集』の、もののけだとみるのは自分のうしろめたさのせいでしょ、という歌
「亡き人に かごとをかけて わづらふも おのが心の 鬼にやはあらぬ」も、つまらないと言えばつまらない。
近代の研究者の評価が高いのは、近代的な合理性を先取りしてる、みたいな感じなんでしょうけど、唯脳論とはちょっと違ったものをベースにしているかもしれません。たぶん、「身」に対して「心」という言葉がフォーカスされるようになって、「魂」という概念が弱まったことによって出てきた発想なのではないかと。

言えなかったことをもう一つ。
『魍魎の匣』と『ルー・ガルー2』の対比において。
『ルー・ガルー2』の視点人物の一人である律子が、物語の世界では既に使用されていない、昔のバイクを組み立てる場面があるのですが、
「基盤やチップは何が何だか解らない。あれは、要は電気信号が複雑に行き来しているだけなのだろうと思う。人に準えるなら脳だ。/でも、こういう昔の機会は手足である」(17頁)と思う場面があるんですね。
で、このバイク、後半で結構活躍するんです。
だから、『ルー・ガルー2』のほうはすでに、唯脳論的な枠組みではなくて、脳の上の情報を、身体性によって攪乱する物語、と言えなくもない。

会場、人少なかったんですが、質疑応答も盛り上がったし、和気藹々として楽しかったです。
終わった後の二次会も楽しかった。
Twitter上の仲良しがたくさん来てくれて、なんだかオフ会みたいでした。

では。もし余力があったら、ほかのパネルの感想も書くかもしれません(がたぶんないと思う)。

おまけ。1日目の服装。


中はこんな感じ。





2014年度中古文学会春季大会感想(2日目)

2014-06-10 11:36:22 | 学会レポ
昨日の続きで、中古文学会の感想。
今日は二日目の感想を書きます。

この日も天気は相変わらず。
カバンの持ち手がボロボロになってしまうというトラブル発生。
雑貨屋さんで買った安価なものでしたが、一泊から二泊くらいの旅行にはちょうどいい大きさのカバンで、まだ本体は無事だったのでショックです。

二日目は、午前2本、午後4本の計6本の研究発表。
発表2本ごとに休憩が入ります。
これまでは発表2本が終わってから質疑応答をするかたちでしたが、今回から発表1本ごとに質疑応答する方法に。

1本目は
長谷川範彰「「我が恋は」ではじまる和歌について」
「我が恋は」からはじまる和歌をとりあげ、そのなかでとくに藤原俊忠「我が恋はあまの苅藻に乱れつつかわく時なき浪の下草」の評価の変遷に着目し、日常詠から題詠へ、という11世紀から12世紀への和歌の変化のなかに位置づけます。
「我が恋は」ではじまる歌が、「○○とかけて○○ととく、その心は」という謎かけの形式であるという先行研究を踏まえ、(A)景物、(B)直接的な説明として、(『古今』から『詞花集』まで)AB型、BA型、BB型、(『千載集』『新古今』)AA型、AB型、BA型、AA型、B+A型(一体化したもの)に分類します。
AA型に分類されたものは(A+B)(B+A)型ではないかと質疑応答でも出てたんですが、分類の仕方にちょっと??という点はあったものの、分かりやすい発表でした。
ちょっと疑問に思ったのは、「俊忠朝臣家歌合」の判詞にある「波の下草」と「海人の苅藻」が「おなじもの」ではないか→歌の「病」ではないか、という部分の「おなじもの」と、
『古来風躰抄』「同じ心二所詠むことは、宗と避るべき」云々の、「同じ心」が、同じものを指すのか、ということ。
それから感想で、直接的な説明のない和歌が出てきた、というのは、(和歌表現に厚みが出てきてそれをみんな知ってることが前提となるので)説明的な表現を嫌う、ということかもなあ…と。
これ、私が小説の書き方本なんかの「説明するな描写しろ」と似てるなあ、と思って気になっている、『無名抄』の、俊成の「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」に対する、
「彼の歌は、「身にしみて」と云ふ腰の句のいみじう無念に覚ゆるなり。これ程になりぬる歌は、景気をいひ流して、たゞ空に身にしみけんかしと思はせたるこそ、心にくくも優にも侍れ。いみじういひもて行きて、歌の詮とすべきふしをさはといひ現したれば、むげにこと浅くなりぬる」
という評価にあらわれるような価値観と関係があるかもなあ、と。

2本目は、
高橋秀子「『うつほ物語』俊蔭女の回想の歌」
俊蔭女の過去を回想する歌に着目し、その意味づけを行う発表でしたが、正直ちょっとポイントがよく分からなかった。
あまりうまく発表を構造化できてない印象でした。
例えば過去の回想も琴の伝授も縦軸の時間軸の上にあると思うのですが、過去を回想するという、現在→過去の方向性と、琴の伝授という、過去→現在→未来という方向性がどう関わるのか、とか。
俊蔭と俊蔭女との父娘関係を俊蔭女と仲忠との母息子関係と対立させて、最後に犬宮が入ってきたらどうなるかとか(先行研究ありそうだけど)。
何かのとっかかりを見つけて構造化していかないと何が問題なのかよく分からない発表になってしまう。
いろんなことたくさん言っていたのですが、どこに持っていきたいのかがかえってよく分からなくなりました。
よく頑張っていて決して印象は悪くないんですが。

午後の1本目の発表は、
舟見一哉「藤原清輔の『伊勢物語』研究について―勘物の機能―」
文部科学省の方らしくて、さすが(?)発表上手でした。
教科書調査官って何する仕事なのかしら??
本文異同は示すものの校訂しない、ポイントだけ示して解釈に深入りしないなど、
藤原清輔の『伊勢物語』勘物の形式に着目して、その機能を明らかにしたもの。
歌学の集合体をつくることで、『続詞花集』を編纂するような外への効力、六条藤家が和歌の家として続いてゆくような内への効力を持った、と結論づけます。
質疑応答で明らかになったんですが、誰でも見れる「勘物」では問題点だけ、続きは「別紙注」や『奥義抄』でしか見ることができない、という二段構えにすることで、知への志向や権威づけを行った…という。
結構えげつない話のような。

午後2本目は、
吉見健夫「「若紫」の色彩表現―和歌、『伊勢物語』初段、『源氏物語』若紫巻への展開ー」
なぜ和歌の上で単なる「紫草」ではなく「若紫」の根が求められるのかを考察した発表で、「若紫」の根で染めると、成長した紫草の古根で染めるのとはまた違う色合いになるのではないか、藤の花の色合いになるのではないか→藤壺から若紫へ、ということで、趣旨としてはよく分かる発表でした。
…が、うーん、そういうこと言えるのかなぁ…(言えるのであればもうすでにそういう論が出ていそうなものだけど)??という感じ。
今回かなりインパクトの強い質問者の方がいらして、わざわざ若紫の根と紫草の古根とを採って持ってきて、滔々と…。
司会の先生もベル鳴らしてかなり強硬にとめてました…。

休憩を挟んで午後3本目。
布村浩一「『源氏物語』における『高唐賦』引用―その作中機能について―」
浮舟の雨の出てくる和歌に注目し、『高唐賦』引用から葵上と関連づけるものでしたが…
申し訳ないんですが、緊張のせいかしょっちゅう声が裏返ったせいでたいへん聞きづらくて、ほとんどまともに聞けませんでした。
質疑応答のときに○○という趣旨でよろしいでしょうか、という確認をなさっている方がいて、ちゃんと聞けててすごい、と思ってしまった…。
ピンポイントで葵上…絵にかきたるものの姫君のやう、と、浮舟…人形として登場、との関連づけをしてたのは気になったかな。

午後4本目は
高橋亨「小野通女筆バイエルン本『源氏物語』をめぐる和文古典学」
いつもの高橋先生の調子で、たいへん楽しそうでした(笑)。
画像の表示を担当された青木さんもお疲れさまです。
小野通女筆バイエルン本『源氏物語』の紹介で、こんな素敵な本があるからみなさん若い方研究してね、という感じで締めくくられました。

今回、はじめての試みで、「交流広場」というフリースペースを設けていました。
理系の学会なんかだと、ポスター発表したりするんでしょうけど、中古では研究会の紹介や、博論要旨、論文抜き刷りの展示・配布ができるとのこと。
私もまあ営業せねばなーと思って申し込んでいたのですが(博論要旨と論文抜き刷りの配布)、感想としてはもうちょっと本屋さんに近い場所のほうがよかったかな、と。
休憩室のなかとか。そのほうが人が来るので。
あと、今回博論要旨を配布してた人は私のほかにもう一人しかいなかったのですが、もうちょっとまとめてたくさんあったほうがよかったかな、と。
博論書いたけどまだ本にしてない人は他にもいっぱいいると思うので。
一人一机もいらないので、5人か10人分づつ並べる感じで。
で、本屋さんの近くで本屋さんにアピールできるほうがいいと思う(まあ、自分で持ってって挨拶しろよ、という話ではあるんですが。私、意外と小心者なの)。
まあでもアナウンスもしてくださってたのでだいぶん要旨も抜き刷りもはけたから、よかったかな。

今回は1日目、2日目とも人の入りが良く、全体的に盛況でした。

おまけ:池袋駅にて


それにしても、疲れた!
今回は新幹線利用したけど、それでも体中のあちこちが痛いです!