人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

自動お姫さま装置―森茉莉『甘い蜜の部屋』

2013-02-28 21:38:22 | 書評の試み
20歳ころに書いた文章です。
どこにも発表するつもりがないので、ここに貼っておきます。


 エネルギー不要、王子さま不要の(しかし本来王子さまなんて必要ないはずだ、王さまと侍女さえいれば)自動お姫さま装置。読者は「一人でいる事が平気になる」(笙野頼子『幽界森娘異聞』講談社、二〇〇一年)。
 これは、「甘い蜜の部屋」で「パァパ」に溺愛された(泥棒しても)「上等」娘モイラが「再び甘い蜜の部屋」に戻る物語。王子さまは退屈で「甘い蜜の部屋」から彼女を疎外し、その自殺(原因はモイラ姫の不貞)は「再び甘い蜜の部屋へ」戻ることを可能にする。最後の場面は大事なパァパの微笑みで。「それはモイラというものが終に、自分一人のものである、という勝利の微笑いで、あった」。
 恋も結婚も性関係も所詮はオプションで(否定され、あるいは存在しない)只大切にされることしかない世界。「曇り硝子のような鈍い、厚みのあるもので出来て」いる「心の中の部屋」を、「パァパ」の愛した日本語で「甘い蜜の部屋」にした「お茉莉」のことばで、私はお姫さまになり永遠に少女の儘の無邪気さで叫ぶだろう、恋って気持ち悪いよね。


 この頃は、こんな生き方もあるんだと思って、森茉莉になることを目指していたなあ…。今はそれが錯誤だと、気づいてますが。私は森茉莉になれるような人間じゃない。

現在の研究課題

2013-02-28 21:25:23 | 研究の話
これまでの研究課題

大きく分けて
1.人形(殊に球体関節人形)に着目した内面表象について。
2.少女論
(生殖可能でありながら生殖を禁じられているという矛盾と、学問への志向、新自由主義や業績主義へのアンチという側面を結びつける)
3.描写と説明に着目した、新人賞メディアと国語教育の共犯関係について。

1.について
人形による内面表象に着目し、絵画的な遠近法による内面表象と対置する。絵画的な遠近法は近代的な内面観やリアリズム描写と結びつく(柄谷行人『日本近代文学の起源』講談社、1980年)が、一方で人形、殊に球体関節人形は女性による内面表現の手段として近年注目される(今野裕一、天野昌直「人形作家列伝」『ユリイカ』2005年5月号)。人形論においては絵画や彫刻と対置され(谷川渥「彫刻と人形 比較論の地平」『美術手帳』2006年3月号)、アナグラムなどシュルレアリスム的な手法と親和性が高い。
 『源氏物語』及び近代文化・文学の2つを対象とする。『源氏物語』に関しては、「心的遠近法」(高橋亨)的な配置の上にシュルレアリスム的な人形の手法を位置づける。近代文化・文学に関しては、笙野頼子作品における人形表象を中心とし、球体関節人形の通史的な位置づけ、日本画家・松井冬子などに着目しつつ、「なかったことにされた内面」の問題とマジックリアリズム的な手法を結びつける。
 →詳しく説明

2.野溝七生子、矢川澄子を扱う予定。→詳しく説明

3.説明するな描写しろ、という小説技法と、傍線部の登場人物の気持ちを説明しなさいと言う国語教育の共犯関係について。

このような研究課題に興味を持たれた方は、(ReaD&researchmapを通して)ご一報ください!

それぞれ詳しく、追々書いてゆきます。

これまでの研究について

2013-02-28 21:00:57 | 研究の話

研究業績一覧は、ReaD & Researchmapにて公開しています!

『源氏物語』の主要な登場人物の一人である女三の宮は、研究史の中で、その存在が六条院世界や物語のありようを変容させたものの、内面を語らない、人形のような女君であると言われます。
 ですが、女三の宮の心内語や心情に添った描写、会話文など、女三の宮視点、女三の宮主体のことばは少なくありません。そこで、研究史上で女三の宮の「内面」が描かれないとされた理由について考察した上で、女三の宮のことばを総合的に捉え、『源氏物語』中に果たす機能を明らかにすることを試みたのが、博士論文の骨子です。
そのために、
1.近代的な「内面」観という視座から、研究史の整理を行った上で、
2.女三の宮の心内語・会話文・和歌等を、抽出・整理し、
(1)一貫する特徴
(2)時系列による変化
(3)表現上の効果
について考察し、『源氏物語』全体における意味づけを行いました。

1.について。「『源氏物語』女三宮のことば」(『日本文学』2008年12月号)
近代的な内面は、以下のような条件が指摘されます(柄谷行人『日本近代文学の起源』講談社、1980年等)。
(1)ことば(表層)と、内面(深層)が分離され、ことば(表層)は内面(深層)を表現するものとされる。内面(深層)が先にあって、内面(深層)に真実があるという観念を伴う。
(2)それぞれの時間・空間における自己の意識がツリー状に整理され、統一的に説明する〈私〉が構築される。
(3)自己の人生が顧みられ、過去現在未来と続く直線的な時間によって物語化・歴史化される。
源氏や紫の上の述懐は、このような条件に適っており、女三の宮のことばは当てはまりません。女三宮のことばは短く断片的であり、一筋なものです。源氏が前提とする、季節と女君の重ね合わせ、和歌の常套である琴と男女関係の重ね合わせなどの象徴性を理解しないため、象徴性を破壊する発言を「何心なく」発してしまいます。
『源氏物語』研究における近代的な内面観の限界が浮き彫りとなった。但し私は、『源氏物語』を書かれた時代に戻して読むべきであるとする立場には立ちません。上記のような構造を持つものを「近代的内面」と呼ぶならば、現在既に「近代的内面」を持たない人も多いでしょう。

2.について。「『源氏物語』女三宮の自己意識」(『日本文学』2009年9月号)
 女三の宮は結婚当初、思ったことを思ったまま口にしており、自己意識もありません。柏木事件後に「身」「我」の意識があらわれますが、それは憂き身を嘆くネガティヴなものであり、出家後穏やかな状態を獲得すると消えます。藤壺や紫の上の物語では、男女関係の苦しみが男女関係や子への愛情を深化させます。一方で女三の宮の物語は、男女関係からの離脱し、共に仏道修行することによって、父親との精神的な結びつきを取り戻す過程を描きます。

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現在の研究課題

歴史が自伝に変わるとき―田中純『冥府の建築家 ジルベール・クラヴェル伝』

2013-02-28 15:39:13 | 書評の試み
 『ハドリアヌス帝の回想』や『黒の過程』などの歴史小説で知られるフランスの作家、マルグリット・ユルスナールは、その自伝的小説『追悼のしおり』のなかでこう述べる。

  ある家門の歴史が、私たちに古いヨーロッパの一小国の歴史を開く窓になるのでなければ、それを  語ったところでほとんど何の興味もないはずである。(72頁)

 淡々とした筆致で一族の歴史を描くことによって浮かび上がる、ヨーロッパの歴史。それが「自伝」となるのは、彼女という小さな個人が、一族の歴史を引き受けながら現在という歴史のなかを生きることの自覚によるのだろう。

  ジルベール・クラヴェルの生の記録(中略)に徹底して即すことにより、この人物が典型的に体現して  いるヴィジョンとオブセッションの根源へと向かおうとする試み(19頁)

である本書も、そのような系譜上に位置づけられる。

 ジルベール・クラヴェルは、20世紀の前半を生き、未来派演劇の監督、小説『自殺協会』の作家、洞窟住居の建築家など多様な活躍をした人物。本書はその世界初の評伝であるという。幼い頃に患った結核のために終生病と戦い、死に親しい意識を持っていたこの芸術家の人生は、世紀末デカダンから未来派へと移り変わる時代の流れと密接に関わりあう。それでいて、廃墟と化したサラセン人の塔を修理し、さらに岩盤を刳り貫いて住居をつくる試みは、彼個人の身体感覚に根ざした、特異なものであった。洞窟住居は、病気のために睾丸の摘出手術を受けたクラヴェルの、卵=睾丸というオブセッションを体現するものであるというのだ。そしてオブセッションは、(著者によれば)転移する。それでは著者には一体どのようなオブセッションが転移したのだろうか。

 資料を丁寧に解きほぐしそれに依拠しながら、本書は「学術的な研究とは少し異質な、経験の質感の再現という、はるかに深く「表現」に関わる企て」(494頁)であるという。ひとつの恋の物語である、クラヴェルからアーシアと呼ばれる女性への手紙で構成された「アーシア断章」は限りなく美しい。著者は「物語ることへの欲望」を、「クラヴェルその人から譲り受け」たのだと言う(同)。だからオブセッションのひとつは、物語ることだと言える。

 そしてもう一つ。クラヴェルが腸内洗浄について「それに続いてヴェスヴィオ火山の爆発が起こり、おかげでぼくのお尻は再び望遠照準器になった」と語る、肉体と物体、大地の比喩が紹介されている(431頁)。「古きヨーロッパは自分たちとともに沈んでゆく―もし、ヴェスヴィオ火山の炎が埋もれた深みから噴出しないならば」(421頁)との手紙も。ここで日本が火山列島であり、それゆえに地震が多発する場所であることが想起される。著者が調査から「日本に帰国した翌日に、大地は激しく揺れ、海は猛り狂った」(494頁)。だから「日本語で」物語ること、しかも、今、この日本で物語ることのオブセッションを、著者は譲り受けたのだ。おそらく著者の敬愛する、海外文学の翻訳や紹介を通して、自らの文学を切り開いていった先人たちに続いて。

 自らの身体を「骸」として、その象徴のように、自らの身体を掘り進むように、洞窟住居にのめり込んでいったクラヴェルの人生は、死の都市表象にこだわりながらひとつの研究分野をたちあげていった著者個人の研究歴にも重なる。その意味で本書は、単なるクラヴェルの評伝ではなく、田中純という研究者の自伝としても、類ないものだろう。

みすず書房、2012年、5000円+税
『追悼のしおり』の引用は、岩崎力訳、白水社、2011年より。