人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

顔の物語:佐藤亜紀『小説のタクティクス』

2014-04-25 11:30:55 | 佐藤亜紀関連
あ、いま近くの自衛隊で大砲が鳴った。
のすけちゃんが震えているわ、可哀想に…

最近、気候が良いせいで犬を庭に出すとやたら長い間遊んでいるので、
それを見ている間(うちの犬はなぜか人が見ててあげないと安心できないらしい)暇でしょうがなく、本を読んでいます。
なので、ようやく積読本が少しずつ片付いてきました。

感想、書いておきますね。

 佐藤亜紀『小説のタクティクス』(筑摩書房、2014年)は、前作『小説のストラテジー』(青土社、2006年)と対をなす、小説の表現をめぐる評論です。

 『小説のストラテジー』は早稲田大学での講義、『小説のタクティクス』は明治大学での講義をもとにしたもので、どちらも詩や小説を書きたいと思っている学生が対象だったと思います。『ストラテジー』のほうは戦略、『タクティクス』のほうは戦術。戦術は戦略を実現するための個別の方策をさすもの。

 比較的分かりやすい本でしたし、最後に懇切丁寧なまとめがありましたので、私のほうで概要をまとめることはしません。
 近代特有の概念である「固有の顔」が成立し、崩壊する過程を、いくつかの絵画や映画、小説を通して分析したもの、とだけ紹介しておきます。「顔」や「薄皮」など、美術史や表象文化論方面でよくつかわれる比喩が用いられていたことも特徴かな。

 比較的飲み込みにくいかと思うのが、「戦略」と「戦術」の関係。
 戦略のほうが大きく、戦術のほうが細かい、固有の方策を指すのですが、いわゆる私たちが描かれている「内容」だと思っているものが、「戦術」なんですよね。
 大事な部分なので引用します。

小説における戦略は、形式をめぐって展開されます。では、その形式はどこから引き出されるのか、何がある形式を生み出すのか、何からある形式を作り出せばいいのか。これが、小説における戦術上の問題です。(15頁)

 異なる時代、地域の芸術作品を目にしたときに、われわれが受け取ることが出来るのは形式だけである、したがって形式が戦略となる。そして、その形式をいかにして埋め、充実させるか、ということが戦術である、と佐藤は言います。

 芸術における戦術の問題とは、即ち、様式の問題です。戦略の観点から言えば、作品を形式においていかに充実させるか―どのように十全に感覚への刺激を機能させ、どう組織化していくか、が最重要の問題になりますが、戦術的には、今、ここで、何をどのように取り上げるか、その結果どのような形式が可能になるか、が問われることになります。これは完全に同時代的な問題であり、故に常に移ろっていく、様式の変化の問題でもあります。(26頁)

 ここさえ飲み込めれば、あとは、先程述べたように、固有の顔をめぐる比較的分かりやすい分析になります。
 ところで、この部分の飲み込みがたさ、形式=戦略であり、内容=戦術である、ということも、「固有の顔」をめぐる概念と関わっているように思います。なぜならば、その人の統一された人格を象徴する「固有の顔」という概念がまさに、「内容」を信奉する小説観を形作っているように思われるからです。

おまけ:私が仕事に行く準備をしているので、いじけてるのすけちゃん。

後ろに写ってるのが犬ベッドの残骸。前にある敷物(古い足ふきマット)もかじってます。

  

アンネの受難

2014-04-19 11:29:32 | 書物と世界・社会
少し前の話題になりますが、公共図書館において『アンネの日記』が破られるという事件が相次ぎました。
練馬区立図書館の記事
被害のあった図書館

犯人について、偏った政治思想の持ち主であるとか、
当初は様々な憶測がとびかいました。

容疑者らしき人が逮捕され、どうやらその人は『アンネの日記』はアンネが書いたものではない、と主張しているそうですが、
その主張が何によるものなのかはよく分かりません。
責任能力があるか精神鑑定する、ということなので、なにかしら精神的な疾患を抱えた人なのかもしれません(もちろん、精神的な疾患がある人がこういう犯罪を犯しやすいとか、こういう犯罪を犯しても仕方ないとかいうことではありません)。

ただここでは、なぜ『アンネの日記』を破ったのか、どういう思想信条に基づく犯行だったのか、ということは考えません。
私が考えたいのは、『アンネの日記』のもつ、少女の身体性、そして、本と私との対話、という側面です。

『アンネの日記』を破損した犯人を探すことを困難にしたのが、
個々人がどのような本を読もうと自由であり、それは大事な秘密なんだ、という思想です。
図書館の自由に関する宣言
書物との対話は、書物と私の間だけの秘密。

実はこれが、『アンネの日記』の持つ構造なのです。

『アンネの日記』は、13歳の誕生日に日記を貰ったアンネが、日記に「キティ」という名前をつけ、二人だけの秘密を書き記すところからはじまります。
心のなかの秘密を日記に向かって告白する。
完璧な近代文学のお約束です。
しかもそれを、アンネが亡くなった後に、父が編集し、刊行する。
確か、日記自体もお父さんにプレゼントされたんじゃなかったのかな。
西洋一神教的世界においては、父とは言葉です。
父の娘の言葉という構造も完璧。
(ちなみに、アンネが書いたものではない、という主張は、女性を作者として認めない、テクスチュアル・ハラスメントの側面もあるように感じます)。

アンネが亡くなったことを知った後日記を渡された父オットーは、どんなふうに感じたでしょうか。
亡くなったはずの娘が、違うかたちをとって、再び還ってきたように感じたのではないでしょうか。
生き生きとしたアンネの声が、文字となって受肉して、紙の上から語りかけてくるように感じたのではないでしょうか。

後に父の編集を排した『完全版』が出版された経緯も面白く、
たぶんいまでは、父の改変による作品世界の変容に対する考察なんかも出てるんでしょうね。

そして日記には、少女の秘密が書き記されているのです。

少し古い世代の方には、「アンネ」というとただちに生理用ナプキンを連想される方も多いと思います。
実はこれ、『アンネの日記』からとられたんですね。
「アンネ株式会社」の宣伝課長だった渡紀彦が顛末記を刊行しており、
紙製ナプキンの発売を「オトメ」のセクシャリティ形成の重要な転機と位置づける川村邦光の『オトメの身体』(紀伊國屋書店、1994年)が取り上げています。
顛末記の『アンネ課長』(1963年)のほうは参照していないので、『オトメの身体』からの引用で申し訳ないのだけれども。

坂井(=社長の坂井素子。引用者注)から勧められた『アンネの日記』を読んでみて、”アンネ"という言葉の持つ響きに、「処女のままでこの世を去ったという一点に翻然と悟ることがあった」と記している。「"清純"であり、苦痛でなく"喜び"であり、陰鬱でなく"明朗"であり、美しいものでなければならない」というイメージに、"アンネ"はぴったりだったのである。(151頁)

隠れ家のなかでも明るく、溌剌と、みずみずしく成長するブルジョア的身体。
渡はそこに、生理のにおいを嗅ぎつけたのでしょうか。

いわゆる近代的「内面」の形成には、読書空間の成立が重要な機能を果たしたことが考察されます(前田愛『近代日本の文学空間』新曜社、1983年→平凡社ライブラリー、2004年など)が、少女のメンタリティを形成する上でも重要です。

これを川村邦光は「心の小座敷」と名づけ、

狭い部屋ではあれ、実際に個室をもつことができ、「心の小座敷」のなかでのみ、のびのびとした心で、ひとり勝手気ままに「女王」として、また「お嬢様」として振舞えることに、無上の喜びをみいだしている。この「心の小座敷」は、読書を通じて「女王」や「お嬢様」として自分を表象できる、〈オトメ共同体〉それに〈ブルジョア家庭〉のなかで培われていったのである。(『オトメの祈り』紀伊國屋書店、1993年、232頁)

と述べます。

アンネは小さな隠れ家のなかで、「個室」というものを持つことすらままならなかったことでしょう。
しかしながら、「日記」が、心のなかの極小の「個室」を形成することを可能にしました。
あるいは、隠れ家のなかで人知れず成長する少女の身体そのものが、「内面」であり、人に言えない「秘密」の表象となる。

犯人がなぜ『アンネの日記』を破損したのか私には分かりません。
ただ、『アンネの日記』はアンネの身体そのものであり、したがって破損されたのはアンネの身体である、ということだけは言っておきたいのです。





映画感想:ダンサー・イン・ザ・ダーク

2014-04-13 20:36:36 | その他レヴュー
これも、教え子が見ろと言って貸してくれたDVD。
見たのが随分前になるんですが、いちおう感想書いておきます。

主人公はチェコからきたセルマ。
遺伝的な病気のために失明することが分かっており、彼女の息子もまた同じ運命にあるため、息子を手術させるためのお金を貯めています。貧しいけれどもミュージカルが大好き。
何かと手助けしてくれる年上の友人のキャシー、ひそかに心を寄せるジェフ、親切な隣人のビル夫妻に囲まれて、セルマは何とか明るく日々を送っていました。
ある日隣人のビルがもうお金がないこと、家が差し押さえ寸前であるという秘密を打ち明けた代わりに、セルマは息子の手術のためにお金を貯めていることを打ち明けます。
やがてセルマの病気は進み、工場もクビになります。貯めたぶんのお金だけで、何とか手術してもらおう…ところが、お金はビルに盗まれてしまいます。取り戻そうと揉み合いになるうちに、誤って発砲し、ビルを殺してしまったセルマ。
それでも裁判でも二人の間の秘密を明らかにせず、死刑を言い渡されてしまいます。
友人たちが何とか彼女を救おうと、彼女が息子の手術費用を貯めていたことを突き止め、その費用で新しい弁護士を雇おうとしますが…彼女はあくまでも息子の手術費用と、受け入れません。
死刑への恐怖や看守との心の交流が描かれながら、セルマは絞首刑になります。

主人公のセルマを演じるビョークの演技と、隣人夫婦のダメっぷりがともかく素晴らしい。

途中、主人公の夢想が描かれるところで、ミュージカルのような場面が何度もあり、ミュージカルを見慣れない私は戸惑いました。
しかも、手ブレカメラに酔ってしまって気持ち悪くなり、何が何やら…
(手ブレカメラのせいだと分からなかったんだけど、教え子に教えてもらった。いやもう、ほんと気持ち悪くなったんだから。私、電車のなかでも絶対本読むと酔っちゃうの、あんまり三半規管強くないのね)。

主人公がずっと練習してるミュージカルが、『サウンドオブミュージック』だというのも、見終わってから気づきました。

『サウンドオブミュージック』は、オーストリアからスイスに逃げ、米国に渡った一家の話ですね。
あの一家は、アメリカで大成功します。
一方でセルマは、アメリカで散々な目にあって絞首刑になるわけですが…ともかく息子の手術だけは成功しました。

最初、セルマが演じていたのは主人公のマリアなのですが、
病気が進み、主人公を演じることが無理だと感じたセルマは、主人公をおりることを監督に告げます。
で、代わりに与えられたのが主人公一家を逃がす尼僧の役。

でもセルマは、映画のなかで最後まで主人公なんですよね。
尼僧の役割なのが、監獄で親しくなった看守の女性。
看守の女性は、『サウンドオブミュージック』とは異なり、主人公を逃がすことはしませんが、最期まで付き添い、処刑台までのみちのりを一緒に歩きます。

監獄から108歩。
ミュージカルの練習をする場面で、ほぼ完全に見えなくなったセルマは、舞台の決められた場所までどうやって出て行けばいいのか分かりません。
「何歩?」と尋ねる彼女に、友人のキャシーが歩数を数えて教えてくれます。
自分の足で歩くこと、道を辿ることが、重要な意味を持つようです。