人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

『若草物語』のこと

2020-04-11 22:03:51 | 少女
2019年公開の、グレタ・ガーウィグ監督の『若草物語』はかなり現代的な解釈がなされているとのことで、興味を持っています。
日本公開は新型コロナウィルスの流行の影響で遅れていますが、どうなることやら。

 もともと『若草物語』に関しては、中っこのジョーとベスが気になっていたのですが、今回の作品、予告編などで見る限り、エイミー(の絵画好き)がかなりフォーカスされているみたいで、それも注目しています。
 ちょっと考えてみると、四姉妹のそれぞれに、異なった芸術様式のイメージが付与されているようにも思います。

長女メグ…演劇
二女ジョー…文学
三女ベス…音楽
四女エイミー…絵画


 長女のメグが一番分かりにくいのですが、『若草物語』の冒頭では、クリスマスの家庭内演劇をするために、長女のメグが一人二役をこなし、非常に良い俳優であることが語られています。ただしその時点ですでに、大人の恋愛の世界へと足を踏み入れようとする段階にあるメグは、家庭内演劇を子供っぽい遊びのようなものと見なしてはいるのですが…。
 二女のジョーと、三女のベスについては、一度『若草物語』を読んだことのある方には、説明不要なものでしょう。ジョーは物を書くのが好きで、姉妹の中で唯一、その能力を武器に、当時の社会と戦おうとします。三女のベスはピアノが大好きで、家のなかでも調律のできていない古いピアノを家族のために弾きますし、お隣のローレンス家にも、自分の引っ込み思案を押し切って、ピアノを弾きに行きます。
 私が見落としていたのがエイミーの絵画好きで、今回の映画の予告編の中ではかなりフォーカスされているみたいでした。確かに、本を読んでみるとずっと写生が好きとか、結構色々やってるんですよね。ちょっとぱっとしなかった姉妹の靴に色を付けてみたりとか、結構役に立ってる。ヨーロッパに行くのも絵画に関する勉強を兼ねて、ということなんですが、そこでエイミーは「自分は天才ではない」と気づくわけですね。そして自分は女性だし、絵画を仕事にできるわけもないし…と考える。彼女は「天才」ではないことに悟った後、社交界の花になろうと決意するわけですが、それまで夢中になっていた絵画を単なる「趣味」に属するものとして、ふつうの女性として生きていこうとするには、相当な抑圧があったはずです。自分の「書く能力」を武器に、社会と戦っていくジョーとは、対比的な描かれ方をしています。

 社会に順応できるかどうか、という観点からいえば、姉妹の中での役割は

社会に順応できる…メグ、エイミー
社会に順応できない…ジョー、ベス

という分類ができると思うんですよね。そのなかで、社会と戦うことのできるジョーは生きていくけれど(でもその戦いの中で、どうしても譲らないといけないところは出てくると思います)、戦わずにベスは自分の生まれ育った家庭の中だけで生きて、姉妹たちがそれぞれ結婚したり、自分の道を見つけたりする中で、死んでしまう。

 でも、またもう一つ、自分がもっている能力によって、社会を変えようとするかという観点からいえば、

社会を変えようとしない、既存の社会の中で生きる(死ぬ)…メグ、ベス
社会を変えようとする…ジョー、エイミー


という分類もあるような気がしました。
 ジョーに関しては、たぶん説明は要らないと思います。彼女は当時の女性に求められていたジェンダー役割に抵抗し、自分なりの生き方を求めます。一方でエイミーは、一見当時の女性に求められるジェンダー役割を完璧に演じながらも、そのなかで最大限に能力を発揮して、お金持ちの、なおかつ自分のことをよく理解し、自分たち姉妹の盟友であるローリーと結婚することによって、例えば才能はあってもお金がない芸術家の力になるとか、社会的な力を発揮しようと努力します。
 ジョーとエイミーは全く対照的な性格をしているように見えて、実は結構似ていたんだ、ひとつの目的に対する、全く別の対照的なやり方だったんだ、ということに気づかされます。ローリーがジョーにふられた後に、エイミーを好きになるのも当然と言えば当然。姉妹だから似ていた、ということに加えて、やっぱりそういう野心の面で、ジョーの分身のように見えたのかもしれません。また、エイミーの側からしても、ピアノを弾き(エイミーとローリーの恋愛が本格的に発展するのはベスが亡くなった後です)、またジョーのようなのびやかな、自由な身体性を持つローリーは、エイミーのジョーへの愛情と対抗心の両方に応え(『若草物語』のなかで、エイミーはかなりジョーを意識しています)、また姉妹の精神を引き受ける相手としてちょうどよかったのでしょう。

 ジョーとエイミーは、けんかをすることもあるけれど、仲のよい姉妹です。ですが、現実問題として女性が社会に対して何らかの行動を起こそうとした場合に、この二つの立場は、しばしば対立します。正面切って戦うのか、一見適応しつつ、順応しつつ、それによって力を得て、こっそり社会を変えようとするのか。どちらのやり方をとったとしても、自分が生きている社会が不自由なものであればあるほど、失うものは大きい。そうしたときに、そんなやり方じゃうまくいかないと、お互いの批判をし、足を引っ張り合うことも現実では少なくないと思います。でも誰だって、自分は自分の戦い方をするしかない。そういうときに、お互いの違いをのりこえて、理解しあえる、あるいは、理解できなかったとしても、仲良くできる、相手の立場を尊重できる、シスターフッドは単なる幻想なのでしょうか。

植物のイメージ:石井桃子『幻の朱い実』

2014-12-21 12:04:19 | 少女
必要があって、石井桃子の小説『幻の朱い実』を読んだので感想書きます。
『幻の朱い実』は自伝的小説と言われているそうですが、私には参照すべき資料も手元にありませんので、その辺にはあまり言及しません。

梗概及び特徴:
ヒロイン明子と大学時代のあこがれの的だった大津蕗子との友情を描く。
物語は大学時代は特に交流のなかった蕗子と再会し、友人になる場面からはじまり、明子の結婚までを描く第一部、明子の妊娠とほぼ同時に蕗子の結核が悪化し亡くなるところまでを描く第二部と、子供たちも成長し夫も亡くなったはるか後年、明子が蕗子の妊娠と堕胎の話を聞いたことから、真偽を確かめるためにかつての友人加代子とともに手紙類などを集める第三部に大きく分かれる。
物語の大部分が手紙の引用という形式で展開されること、蕗子との再会において描かれる烏瓜、鰯漁を見に二人で出かけた宇原で摘んだ水仙など、植物の描写が重要な場面で描かれる点が特徴だろう。「幻の朱い実」というタイトルは、蕗子との再会で描かれた烏瓜、そして物語の最後で、新宿御苑で見つけた小さい烏瓜を前に娘に向かって「大津さんの烏瓜ね、この千倍も、万倍も美しかった!(中略)あなたに見せたかった、そういうものも、この世にあるんだってこと!」(下巻、362頁)と言ったことを指す。

(1)手紙の引用について
手紙の引用が大部分を占めるという点がまず目に付く特徴だろう。
私は以前、詳しい考察過程は省くが、『紫式部集』に関する論文で、結婚や死別によって失われた女性同士の心の交流を構築するもの、と結論づけた。→「『紫式部集』四番歌・五番歌の再解釈―女性同士のつながり―」
『幻の朱い実』における蕗子と明子との手紙のやり取りの引用にも、そういう意味合いがあると思われる。

(2)烏瓜の実
すでに触れたが、物語では植物の描写が重要な場面にあらわれる。その中でも重要なのが、タイトルにも関わる烏瓜の実。
(再開場面の烏瓜)
 そして、わざわざ目をやるまでもなく―というより、向こうから強引にこちらの目をひきこむように―細道の左側、四、五軒めの門口に、何百という赤、黄の玉のつながりが、ひょろひょろと突きたつ木をつたって滝のようになだれ落ちていたのだ。明子は小走りにそこまでいってみた。
 のびすぎた木は檜葉で、それに薄緑の蔓が縦横無尽にまつわりつき、あるものは銀鎖りのように優美に垂れ、入り乱れてからまりあう蔓全体からぶらさがっているのは、烏瓜の実であった。(上巻、4頁)

(1年後の烏瓜)
 だが、その一方、あの檜葉からは、前年ほどの華やかさではなかったが、やはり無数の烏瓜の銀鎖りが垂れ、そこから、美しく赤らんだ実に交じって、まだ白と緑の縞を描いた小動物めいた若い実もぶらさがっていた。(上巻、140頁)
(最後に描かれる烏瓜)
 御苑ではほんの少し色づきはじめた木々も美しかったが、明子が目ざしたのは朱い烏瓜の実であった。駐車場周囲で、すぐ目についたのが、小粒の黄烏瓜だった。
 「こういうんでないのよ。」と、明子は言った。
 目のいい葉子に助けてもらって散々歩きまわり、あきらめて帰りかけたとき、出口に近い日陰の場所に、十つぶほどのあわれな実が、しなびた蔓からさがっていた。(下巻、361頁)
 「葉子、大津さんの烏瓜ね、この千倍も、万倍も美しかった! 千倍も万倍も! こんなもんじゃないのよ。あなたに見せたかった、そういうものも、この世にあるんだってこと!」
 葉子は、母の腕をとっていた手に力をこめ、しばらく無言でいてから、
 「ママ、いい友だちなくしたママの気持、わかるつもりよ。あたしたちには、もうそういう友だちはつくれない。でもね……。パパやあたしたちのことも忘れないで。」
 「何いってんの。忘れようったって、忘れられないじゃないの? いつもあなたが、こうしてあたしをひったてるようにして歩いてるんだもの。」(下巻、362頁)

 烏瓜は別名を「玉梓」(手紙)と言うため、まずは蕗子と明子との手紙を象徴するものであり、冒頭で描かれる銀鎖りのように連なった烏瓜は、蕗子と明子との手紙によって構築された『幻の朱い実』という作品そのものを指すと言える。娘の葉子とのやり取りは、今の世の中にありえない存在となってしまった蕗子との友情を懐かしみつつ、葉子のような娘世代の新しい文芸行為に導かれていることを認め、娘世代の新しい文芸行為を寿いでいるものとひとますは解釈できる。
 ただ、ここで注意しておきたいのが、花ではなく「実」がそのイメージとして選ばれている点。というのも、通常「実」のイメージは子供や生殖と関わり合うものであり、明子の妊娠が蕗子の死と引き換えのように描かれており、第三部では蕗子の妊娠と堕胎が大きな謎として重要なモチーフとなるからである。

(3)植物のイメージ
 良妻賢母教育と関わって園芸の重要性が説かれ、白百合の花が純潔の表象である(渡部周子『「少女」像の誕生 近代日本における「少女」規範の形成』新泉社、2007年)など、花は少女と切り離すことのできない表象であり、吉屋信子『花物語』など、少女同士の結びつきにおいても重要なイメージを喚起させる。
 しかしながら『幻の朱い実』において蕗子との友情を象徴するのは「実」であり、当然ながら「実」は子供や生殖のイメージと結びつく。
 これは蕗子の死と引き換えのように明子の妊娠が描かれること(蕗子の葬儀の「翌日から、彼女は三日ほど寝つき、それからの一週間を佐々木先生の病院に収容された。妊娠二カ月、つわりの症状と宣告された」下巻、234頁)、蕗子が堕胎したか否かが第三部で重要な謎となることと関わっていよう。
 物語の構造上、蕗子の死と引き換えに明子の子供が生まれたかのように描かれる以上、蕗子自身の妊娠と堕胎は明子に大きな混乱をもたらしたのだろう。

(4)「幻」の含意
 ただ、ここでさらに注意すべきは、ただの「実」ではなく、「幻」の「実」であることである。「そういうものも、この世にあるんだ」ということを明子が葉子に見せたかった、「幻の朱い実」。
 『幻の朱い実』において、「幻」という言葉が出てくる場面はない(と、思う。私の記憶の限り)。ただ、私が以前森茉莉の『甘い蜜の部屋』を考察したとき(「森茉莉『甘い蜜の部屋』と『源氏物語』女三宮―女三宮からモイラへ」)、「幻」には性愛関係がないという含意が込められていた。性愛関係はないものの、性愛関係よりも濃密で素晴らしい関係。
 (だが、これは俺にとって現実の花ではない。桃李は、幻の桃李だ。冠を正す必要はない・・・・・・)(『甘い蜜の部屋』147頁)
「現実の花」ではなく「幻の桃李」であるという表現は、「永遠に交接のない父と娘の間柄」(294頁)ともあるように、近親相姦はありえないことを象徴する。
 したがって、「幻の朱い実」が象徴するものは、永遠に交接することのない蕗子と明子との、幻の子供を象徴し、それは美しい赤や黄色の実を銀鎖りのように連ねた手紙によって構築された小説『幻の朱い実』である。

*引用は石井桃子『幻の朱い実』上、下、岩波書店、1994年、『森茉莉全集・4‥甘い蜜の部屋』(筑摩書房、1993年)による。

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おまけ:子犬ちゃん里親募集中です

→ベージュの子:2015年6月にいったん募集を終了しました。
→白い子:2015年6月にいったん募集を終了しました。

白い子のお母さんも里親募集してます。7.2kgと小柄な子です(子犬ちゃんとおんなじくらい)。
→母犬は2015年2月3日に行方不明になり、2月5日に踏切事故に遭っていたことが、3月2日に分かりました。



 





文学少女とメリトクラシー:村岡恵理『アンのゆりかご』

2014-05-16 11:29:11 | 少女
いま、NHKの朝ドラで村岡花子をやってますね。
私見てないんですが、
母親が『赤毛のアン』好きなので見てるようで、大分無理のある脚色してる、と言ってた。
どうなんでしょう??


それはともかく、ひとつ、気になったことがあります。
村岡花子にしても、『赤毛のアン』にしてもそうなんですが、非常にメリトクラティックな物語なんですよね。
身につけた学問なり、文学なりの才能によって、階級上昇を成し遂げるという。
彼女たちの人生において、好きな学問や文学は直接生きる糧に結びついているようです。


例えば、女学校在学中に
「3軒の家庭教師を続けたので経済的なゆとりができ、花子は実家の母に幾ばくかを渡すようになった」(97頁)。
結婚後、震災で夫の事業が挫折したときに、
「稼ぐために最大の武器になったのは、やはりカナダ人婦人宣教師仕込みの英語力」(206頁)だったという。
なにより、『赤毛のアン』をはじめとした英語圏の児童文学の翻訳は、大きな実益をもたらしたでしょう。
カナダ人宣教師との友情のあかしであり、「生きた証」(20頁)でもあったかもしれませんが、それがごく自然に、(のちのちの)生きる糧につながってゆく。

『赤毛のアン』では、アンが「クィーン学院」(教職をとるための単科大学で、1年or2年コース、今でいえば短大相当?)を受験する、というときにマリラは
「女の子はその必要が起ころうと起こるまいと一人立ちができるようにしておいたほうがいいと、あたしは思うんだよ。マシュウとあたしがいるかぎり、グリン・ゲイブルスはいつまでもあんたの家だよ。けれど、当てにならない世の中だから、人間はいつどんなことがあるか、わかったもんじゃないからね。用心しておくにこしたことはないよ」(417頁)
と言います。進学は教職という、生きる糧に直接つながっているのです。

あるいは、奨学金(どうもその学年から一人しかもらえないらしい)が決まった時に、マシュウは
「いいかい?―十二人の男の子よりいいんだからね。そうさな、エイヴリーの奨学金をとったのは男の子じゃなくて、女の子ではなかったかな? 女の子だったじゃないか―わしの娘じゃないか―わしのじまんの娘じゃないか」(497頁)
と言います。手違いでグリン・ゲイブルズにやってくることになった女の子のアンが、1ダースの男の子よりいい。それは他ならぬアンだから、という意味合いなのでしょうが、その根拠に「奨学金」が持ち出されるのです。

 そしてマシュウの死と、一家の財産を預けていた銀行の倒産。
 アンは奨学金を辞退し、大学進学をいったんあきらめて、地元の学校で教えることにします。
「グリン・ゲイブルスを手放すことほど堪えられないことはないわ―そんなつらいことってないわ。とにかくこの大事なグリン・ゲイブルスを何としても守っていきましょうよ」(515~516頁)

 アンは身につけた学問を味方に、目の弱ったマリラの代わりに、家を守ることを決めるのです。男の子のように農業はできなくても。
 男の子でなくても、学問があれば家を守ることができるという物語は、翻訳された当時の日本の女の子たちに、どんな印象を与えたでしょうか。
 『赤毛のアン』では描かれませんが、やがて大学進学できる環境が整い、4年間の学業を終えた後には、彼女はいきなり女子中学校の校長に採用されています。なんでも、地元の有力な一族のコネで推された人に勝っての採用だったので、よほど優秀だったのでしょう(『アンの幸福』)。

 『赤毛のアン』はメリトクラティックな物語で、現実逃避のために想像力をはばたかせていた変な女の子が現実に適応するために、学問も一つの方向性を与えているように見えます。

 それのどこがおかしいのか、と思われるかもしれません。
 学問がメリトクラティックな手段となるのは当然のことだ、と。

 しかしながら必ずしも学問は、実益と結びつくものではありません。殊に「文学」などは就職に役立たないものの代表のように思われているし、文学部でなくとも、修士や博士などの学歴を身につけると就職には不利でしょう。

 殊に、村岡花子の時代における女子教育は、
「子どもを教育するという母役割を将来的に遂行するため」「女子も学問を身に付けるべき」とされたが、「結婚して子どもを産むということは学問の有無と関係なく、中間層の女性にとって当然なすべき役割」であるため、「学問をする理由としてはあまりにも脆弱」である(今田絵里香『「少女」の社会史』2007年、勁草書房)
という矛盾が指摘されています。
 一方文学は不良少女の読むもので、尾崎翠なんか小説書いて日本女子大を退学になってます。
 野溝七生子についてブログでも書いたと思いますが、当時の女性にとって学問や文学は、直接メリトクラシーに結びつくものではなく、反現実的なものであったはずです。

 けれども、少なくとも村岡恵理のまとめる村岡花子の人生においてそういう悩みが描かれるのは、女学校卒業にむけて、
「学校に残って教師になるのは嫌だった」「小林富子のように謹厳実直には、とてもなれそうもない」(100頁)、かといって「キリスト教に身を捧げる」ほど信仰も篤くなく、「ペンで身を立てていきたい」と思うものの、「何をすればいいかわから」ない(101頁)
と思うあたりくらいです。
 それでも彼女はひとまず教師になることを受け入れ、確かな稼ぎを持ちながらものを書くことのほうも模索するわけですし。

 どうしてこんな物語が可能だったのか。
 この堅実で健全で、メリトクラティックな文学少女はどこから来たのか。
 ひとつは、出身階層の問題もあるかもしれません。
 あるいは、キリスト教や社会主義にこの堅実さの基盤はあるのかも。
 文学少女とメリトクラシーとの関係は、あまり単純ではありません。

*引用は、村岡恵理『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』(新潮文庫、2011年)、
モンゴメリ、村岡花子訳『赤毛のアン -赤毛のアン・シリーズ1-』(新潮文庫、2008年)による。



早くお休みこないかなあ・・・

2013-04-26 21:13:48 | 少女
世間はもうゴールデンウィークなのかな?
今日は弟が帰ってくるよ。

でも私は、明日もお仕事。しかも夜間当番があるのです(22時まで)。

「少女」って言うと、なんだろうね、商業主義との緊張関係を考えたいですね。
確かに、「少女」的な感性って、余裕の産物だから、当初から商業主義と無関係ではないんだけど。でも、消費される対象から、私達自身のものへと、「少女」イメージを取り戻せ!っていうのが、いちおう。私のイデオロギー(笑)。
業績主義と無関係に、純粋に学問が希求されることと。
でも、戦後、アカデミックポストが女性にも開かれたことや、高学歴(って言っても、大学までだけどね)での女性の仕事が増えたことで、業績主義に絡め取られてゆく矛盾。
私が一番気になってるのは、矢川澄子なんだろうなあ、と思う。

 うち、母方の家系は完全に女系なんですが、祖母の代には、勉強したかった人がいて、その人は早くに亡くなったらしい。姉妹が多かったから、親に行かせてもらうわけにはいかなくて、自分で学校の先生とかしながらお金貯めて、とうとう高等師範に行けるぞ、という段になって、亡くなってしまったらしい。
 あと、やせ薬(って何だ?)を飲み過ぎて、ちょっとおかしくなった人もいたらしいです。その人、私が3つくらいまでは生きてたから、かすかに覚えてるんですけど。でも、そんなにおかしいとは、思ってなかったですね。病気で寝てるんだ、という認識。祖母と3つくらいしか違わなかったはずなのに、随分老けてる感じはしましたが。
 祖母の代で私が生まれた頃まで生きてたのは、その人と、祖母と、一番下の大叔母だけでした。きょうだい8人くらいいたはずなんですが、他の人はみんな、亡くなってました。
 私みたいなのは、祖母の頃に生まれてたら、この歳まで生きてなかっただろうなあ…と思います。

追記―少女論について

2013-03-05 02:52:28 | 少女
今読み返してみたら、説明不足で意味不明なところ、ありますね。

少女の定義
一点目、良妻賢母を育てるための準備期間であり、純潔規範と愛情規範という矛盾した規範を与えられたこと。
二点目、女子も学問を身につけるべきとされたこと。
三点目、少女たちがいつまでも少女のままでいようとすること。
のあとに、

「結婚して子どもを産むということは学問の有無と関係なく、中間層の女性にとって当然なすべき役割」であるため、「学問をする理由としてはあまりにも脆弱」である。そのため
  子どもを産み育てる母としての生き方と、学問を身につける「少女」としての生き方に断絶が生じるこ  とになる。結果、「少女時代」の先の時代はなくなり、「少女時代」はそれのみで完結するような特別   な時代として意味付けられることになった
(今田絵里香「「少女」の誕生―少女雑誌以前」『教育学研究』二〇〇四年六月→『「少女」の社会史』二〇〇七年、勁草書房)
ことが指摘される。

が入ります。
だから
しかしながら考えてみれば、日本において文学、あるいは学問の価値がいまだかつて認められたことがあっただろうか。
と続く。