人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

マルグリット・ユルスナール『黒の過程』その2

2013-03-12 21:47:40 | 書評(病の金貨)
前の文章

ブログ形式で引用文の処理をするのがあまりにも面倒だったので、二字下げではなく、一行開き+色を変える、にしました。

2.炎の描写と分身関係の交差

 第三部、投獄されたゼノンの裁判のために賄賂を贈るよう教会参事から頼まれたとき、不意にマルタのなかにこの時の記憶が蘇る。

 暖炉の前に腰を下ろし、刺繍した衝立で強い火から守られていたマルタは、その長い手紙を読んだ。(中略)彼女は幾度となくあの恐ろしい男のことを考えたし、夢にまで見ていた。死の床に横たわるベネディクトと同じく、その男は裸の彼女を見たのだった。彼女のなかの悪徳、生命にかかわる悪徳、つまり卑怯さを彼は見抜いていた。(中略)そういう兄がこの世に生きていると考えるたびに、彼女はとげに突き刺されたような気がするのだった。彼は彼女がなろうとしてなれなかった反抗者なのだった。彼がこの世界の各所を放浪していたあいだ、彼女が辿ったのは、ケルンからブリュッセルに彼女を導く道にすぎなかった。そしていま彼は、かつて彼女がみじめにも恐れおののいたあの牢獄に投げ込まれているのだった。彼をおびやかしている刑罰は、彼女には当然のものと思われた。彼は意のままに生きたのであり、彼の冒した危険はみずから選んだものだった。
 冷たい風に気をとられて、彼女は頭を回した。足元で燃えている火は広い部屋のごく一部を暖めているだけだった。氷のようなこの冷たさは、幽霊が通ったときに感じるものだという話だった。いまや末期に近いその男は、彼女にとってこれまでつねに一種の幽霊なのであった。しかしマルタの背後にあるのは、人気のない豪華なサロンだけだった。同じような豪華な空虚が彼女の生活を支配していた。思い出のなかで少しでも心のなごむものがあるとすれば、それはベネディクトにまつわる思い出だけだったが、そのベネディクトも神に召されてしまい(神があるとしての話だが)、彼女自身最後まで見とれぬままに終わったのだった。若い日の彼女を燃え上がらせた福音主義の信仰も、ボワソー枡をかぶせてもみ消してしまい、いまは巨大な灰が残っているだけだった。(中略)一度しか会ったことのない兄が六カ月間偽名を名乗り、悪徳を隠し、上辺をつくろって善行を施したからといって、生まれてこのかた彼女がやりつづけてきたことに比べればものの数ではなかった。彼女は教会参事の手紙を手に取ると、フィリベールの部屋に上がって行った。
 夫の部屋に入るときにはいつもそうするように、夫の振舞いと養生ぶりを見て、軽蔑もあらわに唇をよじらせた。(美邸、353~354頁)


 マルタはベネディクトを看取ることが出来なかったことに、空虚さを感じている。マルタから見たゼノンは、「彼女がなろうとしてなれなかった反抗者」「幽霊」のように映る。ゼノンは、短期間ではあれマルタと同じく身を守るために名を偽り上辺をつくろう生活をする、共通性を持つものとして、分身のように扱われているのである。
 ただ、彼女の場合は「恐れ」からであったのに対し、彼の場合自分自身の精神、意思のためであったけれども。そのことが「暖炉の前に腰をおろし、刺繍した衝立で強い火から守られていた」彼女が、兄のことを考えるにつれ、「足元で燃えている火は、広い部屋のごく一部を暖めているだけ」になり、更に「若い日の彼女を燃え上がらせた福音主義の信仰も、ボワソー枡をかぶせてもみ消してしまい、いまは巨大な灰が残っているだけだった」とまで言わしめる。ここでは暖炉の炎は単なる暖炉の炎ではなく、マルタの意思や情熱を表わす比喩となる。「卑怯さ」から強い炎を避けたけれども、安全な暖炉は生活を暖めてはくれず、「豪華な空虚」に寒さを感じる。仮面を脱いだ兄に見抜かれた「裸の彼女」は「卑怯」であったけれども、そこに彼女自身の精神はないのだろう。守るべき自分自身はないのである。
 さらに、ベネディクトの病床の場面に「彼は包帯用の布の切れ端で、唇についている赤みがかった血膿を拭き取り、ストーブに投げ込んだ。匙や、彼がそれまではめていた手袋も同じ道を辿った」(112頁)とある。これは単なる衛生上の判断を描いているのではない。燃やされてしまったのは、単なる包帯布や匙や手袋ではなく、マルタのベネディクトへの思いであり、共に歩み出しかけた信仰の思い出である。
 ペストの場面では「高いところ」=「上に上がる」は瀕死のベネディクトの部屋を示し、この場面では痛風病みの太った夫、フィリベールの部屋を示す。ベネディクトの部屋はゼノンの存在によって恐怖の対象からふつうの部屋に変わったのであるが、フィリベールの部屋は軽蔑されるべき通風病みの病室から、何も言わないでゼノンのために金を払わないというフィリベールの行為によって、慎重さが尊敬される、金で守られた安全な生活空間となる。前者は彼女が仲良しだったつもりなのに、ペストへの恐れから「敵」に過ぎなくなっていた従姉妹、後者は鈍いけれどもその「慎重さ」に感嘆することになる夫(358頁)。前者は、信仰していたはずの福音主義の象徴であるとともに「卑怯さ」の自覚であり、後者は卑怯さを慎重さとして肯定的に意味付けなおすことである。
 ベネディクトの埋葬場面に、「ベネディクトが従姉妹の勧めに従って狭い道に足を踏み入れ、彼女といっしょに神の都への歩みに踏み出しかかったことを知るものは、誰もいないはずだった」との一文があるが、これはマルタとベネディクトの類似的な分身関係と、そこからの永遠の別れを示してもいるだろう。
 同様に「道」の比喩を用いながら分身関係を意味する一文が、『黒の過程』冒頭におかれている。ゼノンとその従兄弟、アンリ=マクシミリアンが会話する場面。「ポプラ並木に縁取られた平坦な道が、自由な宇宙の断片を彼らの前にくりひろげていた。権力を求める冒険者と知識を求める冒険者が二人並んで歩いていた」(大街道、15頁)ともあり、二人はともに「冒険者」であるが別の道を歩むことが示唆されてもいる。

 アンリ=マクシミリアンは大街道を選び、ゼノンは細い道をとった。突然、二人のうち若いほうが取って返し、仲間に追いついた。巡礼の肩に手をかけて、
 ――ねえ、ウィウィーヌのことを覚えているかい? ぼくら悪童どもが学校の出口で尻をつねったりしてると、君がよくかばってやった青白い小娘さ。彼女は君を愛しているよ、(中略)。必要とあれば世の終わりまで君を待つと言ってるよ。
 ゼノンは足を止めた。なにやらはっきりしないものが彼の眼差しのなかを通り、やがて消えた。焚き火にまじった湯気のしめりのように。
 ――どうしようもないな、と彼は言った。このぼくと平手打ちをくらったその小娘のあいだに共通するものといって、いったいなにがあるというのだ。別の人が余所でぼくを待っている。ぼくはそっちのほうへ行く。
 そして彼はまた歩きはじめた。
   (中略)
 ――Hic Zenoと彼は言った。このぼく自身さ。(同、17~18頁)


 「焚き火に混じった湯気の湿り」と、火にまつわる比喩が用いられている。「焚き火」は「細い道の先」を進んで行った先に「このぼく自身」が待っているとあることから、自分自身の比喩であろう。「共通するもの」が何もないことが、その小娘を振り切る際の根拠とされていることからも、ゼノンが自分自身を重視していることがわかる。これは後にゼノンとアンリ=マクシミリアンが語り合う場面で「もうひとつの快楽より、いささか人目を忍ぶあの快楽のほうを心ゆくまで味わう」理由のひとつとして「ぼくと同じ作りのあの肉体は、ぼく自身の悦楽を映す鏡」(第二部 インスブルックの会話、136頁)であることをあげていることからも言えるだろう。やがて彼自身の「精神」(143頁)のなかで消える「湯気のしめり」は、当然その小娘への淡い親切心をさす。彼自身の探求において、女や恋はその始発から排除されている。もちろん関係を持ったり親切にされたりする女性は存在するが、それは「焚き火に混じった湯気のしめり」のようなものである。
 この二人は、小説中盤で再び会い、語り合う。《黄金の子牛》館という居酒屋で頬に怪我をしたアンリ=マクシミリアンがたまたまその居酒屋の主から小屋を借りて身を隠していたゼノンと出会うのである。
 この日雨模様だが、アンリ=マクシミリアンが帰る頃にはようよう上がる。最初「ぼんやり部屋を照らしていた」のは「つましい火の赤い光」(122頁)であり、ゼノンは鉄床に座り、当初火のそばに立ったままだったアンリ=マクシミリアンは暖炉のそばをしばし離れては戻って腰をかけてる。ここで炎は教皇大使がゼノンの「燠のちょろ火に金を投げ込むかどうか」(123頁)と言われ、アンリ=マクシミリアンが「あいかわらず火の仲間なんだな、ゼノン」(一二四頁)と言っているように、錬金術の炎、アンリ=マクシミリアンに彼の科学(真実の探求、精神)が「Aegri somnia(病める妄想)」(一二六頁)といわれたときには、ゼノンは
心臓の膨張と収縮を調べる仕事にとりかかっていて、そっちのほうが僕には遥かに重要だというのに、なんだか知らんが教義の解釈などの名誉のために、町の広場でとろ火で焼き殺される危険を冒すなんて、このぼくがどうしてそんなことをするものか。(同)
と叫んでいるように、火刑の炎など、さまざまなものを象徴する。これは、「ゼノンの最後の旅」の冒頭で「人間の理性が炎の輪に取り囲まれる時代のひとつだった」(160頁)とあることとも符合してる。また、ゼノンの科学が「病める妄想」といわれることは、マルタの「恥と後悔」も「病い」と言われることとも関わってくる。
 が、とりわけ重要なのが、小説冒頭で語られる場面と同じくゼノンの重視する意思や精神、またアンリ=マクシミリアンの重視する愛の炎が象徴されることである。ゼノンが愛した下僕の死を語る場面を見ておきたい。

 ぼくの下僕は別の王国のどん底でのように死んでいった。(中略)ぼくは部屋に据えつけられたストーブで、麦藁のマットレスをひと握りずつ燃やした。内面の世界と外界、大宇宙と小宇宙は、モンペリエで死体を解剖したころとなんの違いもなかった。しかし噛み合った二つの大きな歯車が、いまや完全に空回りしているのだった。壊れやすい機械仕掛けは、もはやぼくの興味を引かなかった・・・・・・。(138頁)

 ベネディクトの病床の場面と同じくペストに触れたものを燃やす炎が描かれているが、象徴的にはこのとき燃やした灰のなかから、「六カ月たったからね、燃えさしの先で灰になにやらかきつけながらゼノンが言い返した。好奇心がまたしても頭をもたげ、自分のもっている才能を使いたいという気持ちがふたたび生まれてきたのだ」(139頁)と、失っていた好奇心がふたたび燃え上がっている。「燃えさし」「灰」から好奇心へと導かれる表現は、ゼノンが愛について言う「不死鳥のようにそれ自体の灰のなかから蘇るあの炎」(135頁)との表現から導かれたものであろう。
このゼノンの「気分」は「結局暖炉のそばに戻って腰を下ろ」したアンリ=マクシミリアンにまで「伝染」し(140頁)、一方ゼノンは「前日よりは少しは明晰に考えようと努める」「Sempiterna temptatio(果てしなき誘惑)」(142頁)について考え次のような意思を取り戻す。

 湿っぽい夕闇の忍び込んだ部屋の中で、顎を引いたまま彼は腰をかけていた。酸に冒されて染みができ、ところどころ火傷の痕のある彼の手が、炉床の赤っぽい光に染まっていた。魂のこの奇妙な延長物、すべてとの接触に役立つこの肉からなる偉大な工具を、彼が注意深く見つめているのがわかった。
 ――私は感嘆に値する! ついに一種の興奮に駆られたゼノンは言ったが、アンリ=マクシミリアンはそんな彼のなかに、コラ・ギールと機械の夢を分かち合い陶酔していた頃のゼノンが認められるように思った。(中略)いまぼくがもち上げるこの燃えさしから、重量という概念を引き出すことができるし、この炎から熱という概念を引き出すこともできる。(中略)ぼくは自分の夢を夢みた。それを夢以外のものとして受け取ることはしない。真理を偶像視することは注意して差し控え、正確さというもっとつつましい名前を与えるほうを好んだ。(中略)世にいう栄光以外にもさまざまな栄光があり、ふつうの火刑台以外にもさまざまな火刑台があるのだ。ぼくは言葉を信じないことにほぼ成功した。ぼくが死ぬときは、生まれたときより少しは愚かでなくなっているだろう。(142~144頁)


 これまで描かれてきた炎、つまり、意思、炎そのもの、火刑代などの表象が統合され、弱まっていた炎が強まり、ゼノンの意思も強まるという流れが導かれる。
 この夜二人は別れ、翌日アンリ=マクシミリアンはふたたびゼノンに会いに戻るが、ゼノンは宗教裁判所に逮捕されることを予測し逃亡した後だった。そこでアンリ=マクシミリアンは「《黄金の子牛》館」にワインの代金として「食卓に一枚の金貨を投げ出すと、釣銭も受けとらずに急いで立ち上がった。数日後彼はブレンナーの谷間を通ってイタリアにとって返した」(151頁)。
 この章は、先にあげたマルタとゼノンが出会う章「ケルンのフッガー家の人々」と、アンリ=マクシミリアンが死ぬ章「アンリ=マクシミリアンの経歴」の間に配置される。さらに「アンリ=マクシミリアンの経歴」後、「ゼノンの最後の旅」が語られ、ゼノンのブリュージュでの蟄居生活が語られる第二部に続く、重要な部分に配置されている。マルタとベネディクト、ゼノンとアンリ=マクシミリアンという分身関係のそれぞれ一方が死ぬ前に、それぞれ一方が金貨一枚を払っており、最後にはその残った二人が分身関係として対峙のである。
 整理しよう。いとこ同士が対照化され、その対照同士が対照化され、更にそのうちに含まれる異父兄妹が対照化されている。それぞれの本質が、ゼノンは自己の精神や意思、アンリ=マクシミリアンは恋愛、マルタは卑怯さ、ベネディクトは信仰、であり、ゼノンとアンリは細い道と大街道に別れ、マルタはベネディクトを狭い道に導き入れるものの彼女自身がたどったのはケルンからミュンヘンへの、すなわち裕福な養女から裕福な妻への道である。そして、ゼノンもマルタも炎から身を守ることを知っているが、前者は炎に表象される自分自身の意思を持っており、世界の各所を放浪する。後者は巨大な灰しか持っておらず、ある地点からある地点へと導く道を辿ったのみである。このゼノンとアンリ=マクシミリアン、マルタとベネディクトの関係が、一枚の金貨によって、それぞれの後者が死ぬ時点において交差するのだ。
 そしてまた、ゼノンも一枚の金貨を支払う。僧院長の死後ブリュージュから逃げようとしてやめた砂丘の散歩の場面。砂丘の散歩でゼノンは裸になり本来の自己と自由を取り戻す。
 彼はこの道の途次、最初は一人でおり、盲人と出会い銅貨を恵み、イギリスへ行く舟に乗ろうとしてやめ、砂丘で散歩し、「道らしい道を避けて歩」(300頁)き、集団の後を追おうとしてやめ、「道を変えて内陸を目指した」(301~302頁)。金貨一枚を払ったのは、当初「一瞬ためらい、やがて通りすぎた」、「五十年前、彼の母とシモン・アドリアンセンが結婚する直前のこと、彼らはアンリ=ジュストの代理としてこの小さな土地のあがりを取り立てに行ったことがあった」、道の迂回している「かなり大きな農場」(282頁)の中庭に帰り道では入って行ったところ、行きで見たのと「同じ女」(302頁)がおり、その女から兎を買ったときである。

 彼がフロリン金貨を出すと、釣の小銭がないのだった。彼もそうではないかと思っていた。しかしそれはどうでもよかった。満足が彼女を若返らせていた。とどのつまり、シモン・アドリアンセンが幾スーかの小銭を恵んだとき、お辞儀したあの十五歳の娘は、もしかしたら彼女なのかもしれなかった。(306頁)

 マルタ、アンリ=マクシミリアンと同じくゼノンも釣を貰っていない。そしてこの兎を放し、その「自由」を喜ぶ(307頁)。「道の残りはなんの事件もなかった」(同)。

 地下迷宮の建築家であるこれらの臆病な動物たちは、それでも腰の力と敏捷さ以外には何の武器ももたずに危険と戯れ、尽きることのない多産さによって絶滅を免れているのだった。罠や棒や長柄の熊手や投網を免れるのに成功すれば、彼らはまだしばらくとんだりはねたりして遊び戯れるはずだった。冬になれば雪の下で毛が白くなるだろう。そして春になれば萌え出た緑の草をまた食べはじめるだろう。   (307頁)

 「不安におびえる人間という被造物のあいだには」「その本性のもっとも深い奥底から湧き出る反発と憎悪があり、宗教のために殺し合う時代が過ぎても、他の名目でまたしても燃え上がるのにちがいなかった」(302頁)「世を冒す病はそれよりはるかに根深かった」(同)などとあることから、兎は人間の喩であろう。兎を放し、その多産であることを思い、生き続けることを思うとき、それは物語が選び取ったぎりぎりの人間への肯定であるといえる。そしてそれは、マルタでもある。
 この場面は、自分がかつて来た場所――しかもそこは自分の生まれたリーグル家に縁のある場所である――に戻ってくると言う構成、あるいは、かつてそこに取り立てに言ったときのことを思い出す

すぐそばの砂丘で、軽い殻を手のひらにのせたまま、風下に走って遊んだものだった。殻はともすればすぐ風に吹かれて自分の前を舞い、やがて一瞬鳥のように空中にとどまるのだった。だからそれをとらえなおそうとしなければならず、しかも走り方が、途中で切れる曲線を描くとか直角に曲がるとか複雑になっていくのだった。ときおり彼は、一生その遊びを続けてきたように感じた。   (282頁)

などから、ゼノン自身の人生を比喩するものとも読める。「いまの彼はあまりにもしばしば、自分自身の過去の、二度と戻らない瞬間を生きなおしていた。それは後悔からでもなければ郷愁からでもなく、時間の仕切り壁が砕け散ったように思われるからだった」(第二部、砂丘の散歩、299頁)ともあり、過去が回帰し現在のゼノンの意識のなかに入り込んでいる。ゼノンは再びもとの場所に戻ってきてしまったのだ。冒頭に「せめて自分の牢獄をひと回りしてみようともせずに死ぬ無分別なものが誰かいるだろうか」(16頁)とあることから考えると、ここでなぜゼノンがもう逃げなかったのかが分かるだろう。過去との結びつきは、リーグル家の台所でかつて働いていた女にゼノンであることを見抜かれる場面でも描かれている。

自分自身もはや考えることもなかったあの子供、今日のゼノンと同一視するのが当然であると同時に、ある意味では馬鹿げてもいるあの幼い子、その子を彼のなかに認めるほどよく覚えている人がいるのだった。そう思うと、いまの生活を送っている自分の気持ちが励まされるように思えた。彼とあるひとりの人間とのあいだに、いかに細いとはいえ絆が生じたのだった。(第二部、ブリュージュに帰る、183~184頁)

 この女との「絆」は、「精神」を通じてのものでも、「肉」を通じてのものでもない。そのような結びつきが過去の彼を媒介とし、可能になることは人間へのぎりぎりの肯定へとつながってゆく。第一部の終わりで、細かく区切られた鏡の中の世界で孤立し閉じ籠る自己を眺めていたゼノン(ゼノンの最後の旅、168頁)の意識は、第二部ではほんのわずかに開かれている。その意味で、堀江敏幸の言う、「底を流れているかすかな希望への光は、ゼノンとその周囲の人々との交信によって開かれているのであって、そこには救いようのない完全な孤独を癒すかわりに、無言で介添えする人間がまだ生きていてくれるのだという実感がただよっている」(1)はたぶん正しい。
 放たれた兎とは、自由になった彼の精神の象徴でもあろう。

本文引用について:前の文章参照
注記
(1)『黒の過程』解説(堀江敏幸)

つづく


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