人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

人形論について―その1

2013-03-02 21:20:32 | 人形論(研究の話)
現在の研究課題
で、肝心の人形論。
ブログを「人形の文学論」と銘打っているくらいなんだから、そろそろ説明しても良いでしょう。

私の「人形論」の骨子は、大きく分けて、以下のようなもの。
1.球体関節人形の思想史
2.人形論の文学論への転用
(1)『源氏物語』を対象に→その2
(2)笙野頼子の作品群を対象に→その3

今日は1.について書いてゆきたいと思います。
(1)球体関節人形とは
 球体関節人形は、パーツとパーツの間に球状のジョイントが嵌まり動かすことが出来るようになっている人形です。西洋で19世紀頃制作されたビスクドールにおいてこの仕組みが多く用いられました。日本においては独自の文脈で発展を遂げます。

 (2)「少女」と「人形」と「内面」
 澁澤龍彦は「少女コレクション序説」において、「少女は一般的にも性的にも無知であり、(中略)主体的には語り出さない純粋客体」(初出『芸術生活』1972年4月号、引用は『澁澤龍彦全集』12、河出書房新社、1994年)とし、シュルレアリズム的な文脈で理解されるドイツの人形作家ハンス・ベルメールを紹介しました。初期の人形作家である、四谷シモンや土井典はベルメール、澁澤に強く影響を受けています。ここでいう「内面」とは、性愛や生殖に関わる主体的な意思と理解できます。この時期において、球体関節人形の「球体は」「世界を脱臼し、フェティッシュの対象となるパーツ(乳房や脚や足)を際立たせるための装置」でした。
 けれど今では、「女性の作家がとても多くて、自分の内面を「人形の性格や内面」によって表現するというのが、彫刻のような美術表現とは大きく異なっている」(今野裕一、天野昌直「人形作家列伝」中の天野の発言。『ユリイカ』2005年5月号)とあるように、「製作者や享受者である女性たちが自己を投影するための装置」と言えます。
 少女をばらばらにし、オブジェ化する…、フェティッシュの対象である身体の細部を取り外すための手段であった、その他ならぬ「球体」が、少女自身によって、ばらばらな身体を結びつけるための道具とされる…。ばらばらであるがゆえにリアルであり、内面を表現することができる、そういう媒体として球体関節人形がかたちづくられるようになってきた。
 この転換点として、天野可淡(+吉田良)を位置づけようと思っています。

(3)「内面」と芸術観
 球体関節人形の作家が、しばしば「内面」を表現するのは「芸術」とは違うかもしれないけど…のような弁解をすることに注目したいと思っています。つまり、人形は「内面」を表現しないことによってその芸術性を保証されるようなものとして出発したということ。これはオーソドックスな文学観とは対照的です。

(4)「人形」と「文学」
 セルフポートレートドールで有名になった井桁裕子は、「私小説」をテーマとした展覧会を開いています。
 小説の「内面」、殊に「私小説」の「内面」は、自画像に比されるように、絵画的な比喩で語られてきました。つまり、消失点を設定する、遠近法的な作図法によって深みを錯覚させる。今ではそのような「深み」は信じられていない…、とされますが、よく指摘されるような、フラットなキャラクター的な方向性もあるかもしれないけれど、別様の内面表現も、あっていいと思うんですよね。消失点を設定する遠近法的内面表現に対して、皮膚を切り裂き、ばらばらにして、内臓をさらけ出すような内面表現。そのひとつとして、人形も考えられるんじゃないか。
 谷川渥「彫刻と人形 比較論の地平」(『美術手帳』2006年3月号)は、増渕宗一の論を踏まえ、
 絵画(遠近法)/彫刻(量塊性)/人形(衣装性)
に分類します。
 絵画は近代リアリズム文体と相性が良いけれども、ハンス・ベルメールの球体関節人形は、シュルレアリズム的なもの。
 だから、芸術論の一分野としての人形論を、文学論に転用することで、絵画的な内面描写とは異なる内面表現が見えてくるんじゃないかと思います。

つづき


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