人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

マルグリット・ユルスナール『黒の過程』その1

2013-03-12 21:08:25 | 書評(病の金貨)
前の文章

病いの金貨(マルグリット・ユルスナール『黒の過程』1968年)

 1、書誌と梗概、問題点
 『黒の過程』は、ユルスナールのもう一つの代表作、『ハドリアヌス帝の回想』の17年後、1968年に刊行された。同年のフェミナ賞を受賞し、ユルスナールの名を一般にも知らしめた作品である。発表は1968年であるものの、着想は若年のうちからあり、1934年に『死神が馬車を導く』との題で刊行された小説が原型である(1)。
 古代ローマを舞台とした異様に美しい一人称小説である『ハドリアヌス帝の回想』に対し、『黒の過程』は中世フランドルを舞台とし、三人称文体で描かれる。ハドリアヌス帝が歴史的に実在した人物であったのに対し、ゼノンは純粋にフィクションのなかの人物であるが、作者はその原型としてレオナルド・ダヴィンチやティコ・ブラーエ、ジョルダーノ・ブルーノなど多くの人物を挙げる(2)。また、古代ギリシャ・ローマに理想化されたヒューマニスト像を見る近代ヨーロッパ的な視点に忠実な『ハドリアヌス帝の回想』に比べ、ゼノンの人物像は多くのひび割れを持っており、暗い(3)。

 作品は、ゼノンの誕生の経緯や幼年時代、長年にわたる放浪時代を描く第一部「放浪」と、友となった僧院長の元に名前を隠して蟄居し始めてから僧院長の死後無謀な若い修道士たちのふるまいがきっかけとなって逮捕されるまでを描く第二部「蟄居」、告発されてから宗教裁判にかけられ自殺するまでを描く第三部「牢獄」からなる。
 ゼノンはブリュージュにある裕福な商人アンリ・ジュスト・リーグルの妹イルゾンドと、フィレンツェ出身の高位聖職者の私生児で、父親はゼノンの存在を知る前にローマに戻り、幼いうちに殺された。その後母親はゼーランドの裕福な商人で、福音主義をひそかに信じるシモン・アドリアンセンと結婚。ゼノンは家に残り司祭となるために育てられることとなる。が、やがて知の探求のためにブリュージュを出る。
 冒頭に引いた場面は、第一部、福音主義に心酔した母親が「神の王国」で死ぬまでを描いた章の後、その娘でありゼノンの異父妹であるマルタがケルンにある親戚の資産家フッガー家に引き取られてから従兄弟の資産家フィリベール(母方の従兄弟なので、ゼノンから見ても従兄弟にあたる)と結婚するまでを描いた章にある。マルタは乳母の影響で、従姉妹でありフッガー家の娘であるベネディクトとともにひそかに福音主義を信仰しているが、ベネディクトとその母サロメ、乳母などがペストに倒れる。サロメは既に死に、主人(マルタから見るとおじ、サロメの夫、ベネディクトの父)や召使たちは逃げ出し、ひとりでベネディクトの世話をしているマルタのもとに医師としてゼノンが訪ねてきた。少し長くなるが、前後の部分も含めて引用したい。

  その男はなにひとつ請け合わなかったにもかかわらず、ただ彼がいるだけで、夜明け以来彼女にと   って恐怖の場所だったものが、ごくふつうの部屋に変わったのだった。階段のところまでくると、そう   するのが規則であったように、彼はペスト患者の枕頭でかぶっていたマスクをはずした。マルタは   階段の下まで彼を送っていった。
   ――あなたの名前はマルタ・アドリアンセンですって、と突然彼が言った。私がまだ若かった頃、も   う相当の年で同じ名前の人に会ったことがあるんだが、奥さんはイルゾンドという名前だった。
   ――私の父と母ですわ、あまり気が進まないような口調でマルタが言った。
   ――まだ存命ですか?
   ――いいえ、と彼女は声を低めて言った。司教がミュンスターを占領したとき、二人はあの町にい   たのです。
   彼は通りに面した入口の扉を開けようとした。錠は金庫のそれのように複雑だった。豪奢で威圧   的な玄関の間に、外の空気が少し入り込んだ。外の黄昏は雨模様で灰色だった。
   ――また上に戻ってあげなさい、彼は冷やかな善意のこもった口調で言った。あなたはしっかりし   た気性の持ち主のようだし、ペストがこれ以上新しい犠牲者を出すことはまずないだろう。(中略)、   そしてあの瀕死の病人を最後まで看取ってあげなさい。あなたが恐れるのは自然だし当然でもある   のだが、恥と後悔もやはり病いなのだから。
    彼女は頬を火照らせて後ろを向き、ベルトにつけた財布のなかを探って、結局金貨一枚に決め    た。金を払うという仕種がふたたび二人のあいだに距離を作り出し、ペスト患者の枕元で日々の貧   しい飯代を稼ぎながら町から町へとさまようこの放浪者よりはるかに高いところに彼女を押し上げ    た。                               (ケルンのフッガー家の人びと、113~114頁)

 ここでは、ゼノンがマスクをはずしマルタがゼノンを送って階下に下りた後、彼らのきょうだい関係にも関わる両親についての質問がなされる。ゼノンがペスト患者を診る医者としての仮面を取り払ったことでただの人となり、二人の距離が縮まったことを示すだろう。そしてその会話の後、「入口の扉」が開けられ、「豪奢で威圧的な玄関の間に、外の空気が少し入り込ん」できた。「恐怖の場所だったものが、ごくふつうの部屋に変わった」とあることとも合わせて、ゼノンがマルタに外の世界をもたらし、恐怖を取り払う存在であることを示す。しかしながら同時に、ゼノンは他に知るもののないマルタの臆病さを見抜く存在でもある。そして縮まった二人の距離は「金貨一枚」を払うことによって再び作り出され、マルタを「はるかに高いところ」に押し上げた。それは同時に、実際に扉が閉ざされ彼女が「上に戻る」=ベネディクトの病室に戻ることをも意味していよう。このような空間表象は、その夜明けにベネディクトが亡くなるのであるが、ベネディクトの埋葬の描写にも見出すことができる。

    その日のうちに彼女はサロメといっしょにウルスラ修道会の尼僧院に埋葬され、その墓石が嘘で  塗り込められるように閉ざされるのをマルタは見た。ベネディクトが従姉妹の勧めに従って狭い道に  足を踏み入れ、彼女といっしょに神の都への歩みに踏み出しかかったことを知るものは、誰もいない   はずだった。(中略)少女の死は、自分のほうは生きつづけたいという気持ち、あるがままの自分、   現にいま自分が持っているものを諦めて、教会の床石の下におさめられるあの冷たい包みになん   かなりたくないという激しい欲望をかき立てただけだった。(中略)災いを前にしたときの彼女は臆   病そのものだった。首斬り役人を前にして、ペストが流行したときに自分であれほど深く愛しているつ   もりの無垢の少女に忠実であった以上に、永遠の神への忠誠を誓うことは、一向に確かではなか  った。だとすれば、従うつもりのない判決の時を、できるだけ遅らせるほうがよかった。
                                                 (同、114~115頁)

 ここで描かれる「激しい欲望」は、この後彼女自身の結婚にまつわる場面で「つまり、金がもたらしてくれる安全さと世の敬意のゆえに金を愛していたのである」(117頁)とあるように、自分の身を守ってくれる金への愛情となる。もっとも、裕福な従兄妹フィリベールとの結婚に服従する理由を探すために、半ば断られることを前提に彼女が結婚を申し入れた書記が、それを断るために「嘘の口実」を探す(同)のに対して、結婚するときマルタは「いっさいの嘘を避けようと努め」(118頁)信仰のことを口にするのであるが。この後信仰のことは二度と口にされることはなく、「書記の慎重さが、服従するための立派な理由をマルタに提供してくれた」(117頁)とあるように、マルタは自分の意志を偽る慎重さの方へと大きく一歩踏み出したことになろう。
 ここでは「金を払うという仕種がふたたび二人のあいだに距離を作り出し、ペスト患者の枕元で日々の貧しい飯代を稼ぎながら町から町へとさまようこの放浪者よりはるかに高いところに彼女を押し上げた」とあるが、はじめにでも触れたとおり、このときの記憶は長くマルタのなかに残る。また、ここで一枚の金貨が支払われているが、ゼノンと従兄弟のアンリ=マクシミリアンが語り合う場面の後と、ゼノンが頼りにしていた僧院長の死後ブリュージュから逃げようとしてやめた砂丘の散歩の場面で、金貨を一枚支払うという行為が描かれている。ゼノンとアンリ=マクシミリアンが語り合う場面は、小説冒頭で旅立つ二人がふたたび会合する場面であり、砂丘の散歩はゼノンの人生全体を喩えたものとも読める重要な場面である。金貨は一体何を表象し、どのように機能するだろうか。

本文引用について:前の文章を参照
注記:
(1)書誌事項は、『黒の過程』解説(堀江敏幸)を参考にした。
(2)『黒の過程』解説、訳者解題、著者インタビュー「ある「黒の過程」・・・・・・」(聞き手:マチュー・ガレー、岩崎力訳『目を見開いて』白水社、2002年)など参照。
(3)佐藤亜紀「殺人者のファンシー・プローズ 作例二。ナボコフ『ロリータ』」(『小説のストラテジー』青土社、2006年)には「過酷な外部的状況に圧迫され、内から破綻して表情を失った《人間》たちの「事故にでも遭った」ように生きて死ぬしかない無価値な生と死を、重苦しく時としてはぎこちない三人称で書く」とある。また、著者インタビュー(前掲)において「時代の変化」「十五年に及ぶ私たち自身の体験」をハドリアヌス帝と異なりゼノンが「地獄のような悪循環に」はまり込む理由としてあげている。

つづく


最新の画像もっと見る