人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

人形論について―その2

2013-03-10 21:00:14 | 人形論(研究の話)
 山口昌男さんが亡くなられたそうですね、というか、ご存命だったのですね。
ご冥福をお祈りします。


 今日は人形論について、続きを。→前の文章
 具体的な考察対象の1つである、『源氏物語』について説明します。
1.臨終間際の大君の様子は、「身もなきひひなを臥せたらんここち」と形容される。
  白ううつくしげになよなよとして、白き御衣どものなよびかなるに、衾をおしやりて、中に身もなきひひ  なを臥せたらむここちして                             (総角、四巻四五七頁)
 「雛」は通常子どもの遊びにおいて描写されるものであり、かなり特異な表現である。大君死後には薫の「むかしおぼゆる人形をもつくり、絵にもかきとりて」という願いが描かれており、浮舟の登場や「人形(ひとがた)」「形代」の方法を導くとされる。「人形(ひとがた)」「形代」の方法は正編における「ゆかり」を引き継ぐものとして注目されるが、「ゆかり」という語と「形代/人形」という語は性質が異なり、「雛」も紫の上を中心に、方法論的に注目されるモチーフである。「雛」は「人形(ひとがた)」や「形代」とは別種の機能を持つことが指摘されるが、共通する面にも着目したい。そこで、「雛」と「人形(ひとがた)」を併せて論じるものとして「人形(にんぎょう)論」の導入を提案する。

2.人形論の地平…人形論について―その1参照。
 『源氏物語』的な心的遠近法の作図の上に、人形論を当て嵌めたときに何が見えてくるだろうか。古典的な心的遠近法の上では、絵画と彫刻、人形の対比は、谷川が言う以上に曖昧にならざるをえない。しかしながら、人形が「肉体不在」、衣装的存在であるとの指摘はあまりにも「御衣」や「衾」のなかで「身もなき雛」のようである、との形容に合致しており、『源氏物語』における人形論の有効性を予感させる。

3.『源氏物語』の「雛」と「人形」
 「雛」であると同時に「人形(ひとがた)」でもあるのは、源氏と大君。虚構の空間を創造して遊ぶものである人形と、物語空間の創造が重ねられ、主人公性を象徴する。ただし源氏に関しては「雛」も「人形」も将来の創造に関わるのに対し、大君に関しては過去へと視線が向けられている。雛は雛の内側からの視点によって、人間(登場人物)に見立てられた人形で遊ぶことによって、虚構空間の創造に参与。人形は人間(登場人物)を人形として見ることによって、物語内現実を虚構化する。

4.人形の衣装性
1)紫の上…源氏に見立てた雛に衣を着せる。
2)大君が衣装の中に「身もなき雛を臥せたらん」よう。
3)浮舟…大君の「人形(ひとがた)」として登場。
入水未遂後に調度や衣装を寄せ集めたものが遺骸の代わりに火葬→衣装と身体が互換性。代わりに火葬される衣装や調度は、浮舟の人形。
最終詠…「尼衣かはれる身にやありし世のかたみに袖をかけてしのばん」(手習、五巻381頁)
尼衣の上に法要の衣が重ねられる。尼衣をまとう出家者でありながら、その「かたみ」(片身)は法要の衣をまとい、死というフィクションを生きる。別の衣が半身だけ重ね合わせられることで、つまり切断されたものの組み合わせである身体である点で、浮舟は人形的な身体を体現。
 衣=身の比喩が成立。「身」も「衣」のように、裁断したり、縫い合わせたりできるものとなる。衣は織物=テクストの比喩により、物語をカットし、つなぎ合わせるような文芸行為の喩とも親和性が高い。

女の子の着せ替え遊びから、男性による(薫→大君など)オブジェ志向を経て、女の子によるゴスロリチックな自己表象へ、という流れも見出だせるんではないかと思うの。

本文引用、頁数は新日本古典文学大系『源氏物語』による。

つづき

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