人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

グリーンゲイブルズのアン

2013-03-03 12:27:15 | 書評の試み
今日はちょっと趣向を変えて、気楽に書けるものを。
しんどい…、花粉症なのかな?


『赤毛のアン』というと、日本では夢見がちな少女の物語として、ロマンティックなものとして享受されているようですが、家族像という観点からも、参考になる面があると思います。
 孤児を預かって育てることとか、夫婦じゃなくて結婚していない兄妹であるとか、あの時代に孤児の娘を大学に行かせてあげてること(アンが自分で貯めたお金使って、ですが)とか、そのときにマリラが仲の良い女の人と同居するとか。それも自分の方針を押しつけるのではなく、アンがやりたいことを邪魔しないように気をつけている感じで、家族でありながら他人である、アンとマリラの距離感もいい。
 しかも、ボランティア精神を発揮して可哀想な子どもを引き取ろうとしたのではなく、労働力として男の子を貰おうとしたのに、手違いで女の子が来てしまった、その子を大事に家族として育てることになった、経緯の描き方もうまい。「神の思し召し」だったんだ、と終盤でマシューとマリラが言うのですが、偶然出会うことになった命を引き受ける感覚は、確かにキリスト教的なものなのかな、と思います。少女小説として同じように人気のある『若草物語』に比べて、イレギュラーな家族ですが、健康的ですよね。
 
『赤毛のアン』の原題は、Anne of Greengables(綴り合ってるかな?)と言って、直訳すればグリーンゲイブルズのアン。それだと日本語として分かりにくいので、『赤毛のアン』という題をつけたそうです。確かに、『赤毛のアン』は、分かりやすくてきれいな題です。でも私はやっぱり、『グリーンゲイブルズのアン』のほうが、内容をよく表した良い題だと思うんですね。なぜなら、この物語は、どこの誰でもないただの「アン」が、「グリーンゲイブルズのアン」になるまでの物語だから。最後にマシューが「わしの自慢の娘だ」と言って亡くなり、アンはグリーンゲイブルズを守るために奨学金を蹴って家に残ることを決める。
『赤毛のアン』という題だと、どうしてもギルバートとの関係が中心になります。前半でギルバートがアンの髪の毛をからかって喧嘩し、最後ギルバートがアンにアボンリーの教員の道を譲って、仲直りするので。日本におけるロマンティックなものとしての享受は、そのへんの影響もあるのかな、と思います。確かに続編の続編のそのまた続編くらいで、アンとギルバートは結婚しますが、ここではまだまだそんな話にならない。アンはお勉強とお家のことで頭がいっぱいです。


最新の画像もっと見る