時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

繁栄の意味を考える:黄金時代のオランダ文化

2020年12月14日 | 書棚の片隅から


Simon Schama, The Embarrassment of riches: An Interpretation of Dutch Culture in the Golden Age, Vintage Books, New York: NY., 1987, 698pp.
サイモン・シャーマ『富の恥ずかしさ:黄金時代のオランダ文化の解釈』
ニューヨーク:ヴィンテージ・ブックス、1987年、698ページ 表紙


Original: Jan Steen, The Burgher of Delft and his Daughter, 1655, "Private collection, United Kingdom"

“Let those who have abundance that they are surrounded with thorns, and let them take great care not to be pricked by them.”
John Calvin
Commentary on Genesis
13:5・7
(上掲書引用)

初めから終わりまでコロナに翻弄された一年となったが、終息の先はまだ見えない。他方、人生の終幕までにしておきたいことも少なからず残っている。

このブログを開設した動機のひとつとなった17世紀ヨーロッパ美術への好奇心は依然強く、もう少し追いかけてみたいことがある。

いくつかの関心事がある。唐突に聞こえるかもしれないが、そのひとつは、この時代、ヨーロッパの中心的存在であったオランダの評価である。スペインやポルトガル、フランスなどをしのいで繁栄を誇った。繁栄を享受、牽引する中心地は時代とともに変化する。

17世紀オランダはしばしば黄金時代と呼ばれるが、見方によると、ヨーロッパという「困窮の海に浮かぶ小さな繁栄する島」のような存在だった。多くの旅行者などが驚いたように、市民の住宅は小綺麗に飾られ、衣服、食べ物なども豊かであった。美術、科学、建築、印刷などの領域で優れた成果が目立った。

17世紀半ばまでにアムステルダムは、ローマのサンピエトロ寺院、スペインのエスコリアル宮殿、ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿だけが規模や壮大さでそれに匹敵するほどの大きさの新しい市庁舎を建設した。富、力、文明の高水準を達成した象徴ともいうべき建物である。



Gerrit van Berckheyde, The Dam wuth the Town Hall, Amsterdam, Rijksmuseum

人口200万未満の三角州に、膨大な富が吸い込まれていった。地理学的には決して恵まれた場所ではない。そこで膨大な富と繁栄を生み出したものはなにだったのだろうか。富を追い求めること,そして富んでいること自体は恥ずかしいこと、当惑することではないのか。サイモン・シャーマ(ハーヴァード大学歴史学教授)が、本書で掲げるこの問は、現代にも通じるテーマでもある。刊行された当時、一度通して読んだことがあったが、その後は辞書のようにほとんど10年近く、机の上に置かれ、折りに触れ開かれてきた。

本書が目指したものは、17世紀黄金時代といわれるこの時期のオランダの政治経済的地位と文化の解釈である。シャーマの学問的蓄積、学殖の豊かさが十分に発揮された作品に仕上がっているといえる。圧倒的な視野の広さとバランス感覚に驚かされる。この時代のオランダ絵画というと、フェルメールばかり思い浮かぶ人があるかもしれないが、それがいかに偏っているかが分かる。それほどにこの時代の美術の広がりは多岐にわたる。本書でも美術史の範疇に入る叙述は多いが、シャーマは独学であるという。

上記の問に答える形で、シャーマはこうした膨大な資料的蓄積の上にこの作品を完成したが、通常の歴史書という範疇には入り難い。むしろ、ヨハン・ホイジンガが試みた「17世紀のオランダ文明」の遺産に関する図像的スケッチに近い。それでも、彼の壮大な研究は、オランダあるいは芸術の歴史の領域をはるかに超えている。

魅力的なパノラマ
17世紀以来、今日に継承されているオランダの宗教的規律、道徳と家庭経済の関係の探索は本書を貫くテーマである。オランダの富とその誇示的消費はシャーマの関心事であり、厳格なカルヴァン主義がもたらす抑制とこの国に生まれた富をいかに考えるかというテーマが追求されている。


Jan Steen, Saying Grace: National Gallery, London
Quoted from Scharma p.485
ヤン・スティーン 『食前の祈り』

シャーマがスポットライトを当てた点は数多い。普通のオランダ人の日常生活、飲食、衣服、個人的な持ち物、愛、礼儀などローカルな慣行、社会的問題、銀行や株式取引、家族、とりわけ子供の存在、など多彩にわたる。



Pinter Claesz., Still Life with Herring, Roemer, and Stone Jug. Boston Museum of Fine Arts, Quoted from Scharma p.160 
ピンター・クラエズ『鰊のある静物画』

それらは、多かれ少なかれ統一されたカルヴァン主義の社会における道徳的文脈の中で取り上げられ、論じられている。個々の解釈は多岐多彩にわたるが、シャーマは強制はしていない。いかなる対象も反対解釈は可能であり、その余地は残されている。

シャーマはマックス・ウエーバーの資本主義とカルヴィニズムの関係の解釈をかなり改めるとともに、黄金時代の新たな文化的解釈を提示している。オランダ人の自己認識は、神の選民に相当し、旧約聖書のイスラエルのように位置づけている。興味深いのは、地理的版図としては小国の部類に入りながらも、そこに展開する領域の振幅の大きさである。宗教的基盤という意味でも、カルヴィニズムにとどまらない。オランダのほぼ中央部に位置す 
ユトレヒトには14世紀以来の塔が残るが、カトリックの流れは、イタリアから戻った北方カラヴァジェスティの作品画風とともに、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールなどに独自の影響力を発揮した。

スペインそして自然との戦い
試練(または信仰の試練)の後には、贖いと繁栄(恵みのしるしとして)が続いた。それは彼らの叙事詩であり、カルヴァン主義の「道徳的地理」(シャーマの言葉)の賜物であった。新しいカナンに入ったイスラエルの生まれ変わった子供たちでもある。試練(または信仰の試練)の後には、贖いが続く。

オランダの道徳的地理は、絶え間ない恐れと警戒を要求した。自由と水防(水力工学)は密接に関係していた。時々、堤防はスペイン人に対して(1574年ライデンの包囲)または100年後にルイ14世の前進する軍隊に対抗するものだった。時々、堤防は外圧に耐えきれず崩壊し、土地を氾濫させた。1726年と1728年の壊滅的な洪水は、ソドムの兆候と解釈された。1731年までに、北海沿いの巨大な堤防が崩壊した。

貧しい人々、病気の人々、孤児、不自由な人々、ハンセン病患者、老人、弱者のための慈善団体が国民を支えた。オランダの社会福祉は、世界の他の多くの地域の羨望の的となった。

オランダ人はとりたてて好戦的ではない。19世紀まで、この国には騎馬像はなかった。しかも、彼らは最も非典型的である。英雄的な記念碑は単にオランダ人ではありません。地元の民兵グループは、ハールレムのフランス・ハルスによる有名なシリーズのように最も華やかなものでさえ、実際には「武装した民間人」のグループの肖像画だ。

スピッツベルゲン島からタスマニア、ニュージーランドまで、オランダ人は常に素晴らしい旅行者だったが、海外に定住したいという衝動を感じた人は比較的少数だった。ニューヨーク、とりわけマンハッタン島はニュー・アムステルダム Nieuwe Amsterdamといわれたが、そこに住んだのはジョークの的にされるようにアメリカ人だった。

サイモン・シャーマは、彼の縦横に描かれた本「富むことの恥ずかしさ」に込められた芸術的な富について恥じることはないだろう。この大著に掲載された幾多の文化遺産の絵画、写真は飽きることがない。惜しむらくはカラーではないことだ(このブログではカラーで掲載した)。

いかなる斬新な試みも逃れがたいが、この大著にも批判がないわけではない。たとえば、本書はオランダ共和国についての恣意的、選択的歴史であり、重要な歴史的視点が欠けているともいわれる。とりわけ、オランダの植民地活動の多くが捨象されており、スペイン、ポルトガルを上回る奴隷貿易のもたらしたものをほぼ無視しているという指摘である。確かに奴隷貿易、そして東インド会社の活動の側面は、ほとんど登場してこない。

しかし、この大著は通常の歴史書とは言い難く、オランダ文化の華麗な集積とその側面としての富の具体像についての華麗な展示ともいうべき存在に思える。698ページという大著であり、一見手に取ることをためらわせるが、興味を惹く分野から読むことも可能であり、新型コロナウイルスが強いる閉塞感を忘れさせる楽しさを深く秘めている。



Judith Leyster, "Yellow-Red of Leiden! from Tulip Book, Frans Hals Museum, Haarlem



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