時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

レンブラントのユダヤ人

2008年09月10日 | レンブラントの部屋

  

 
レンブラントに関する書籍は、この画家だけを直接に対象としたものに限っても優に数百冊を越えるといわれる。17世紀ヨーロッパ美術界に傑出する偉大な画家だから、当然だろう。その中で近年出版された作品で、暇が出来たらぜひ読みたいと思っていた数冊があった。例のごとく片隅に積んでおいたのだが、実際に読むとなるとそれなりの覚悟がいる作品だけに、レンブラント関連だけでも手つかずに残っていたものが10冊近くあった。時々開いてはまとまった時間ができたらと、自分に言い訳をしていた。しかし、月日は待ってくれない。そろそろと思っていたところ、翻訳書が刊行されたものも出てきた。

    そのひとつが、Steven Nadler. Rembrandt's Jews. University of Chicago Press, 2004.*である。最初に、今後の読者のために、この翻訳書に付された有木宏二氏の「訳者まえがき」は、通常の書籍のまえがきの域をはるかに超え、レンブラントならびに本書を理解するに、要を得て、きわめて適切な手引きとなっていることを付け加えておきたい。訳文もこなれていて読みやすい。

  本書は、2004年ピュリツァー賞ノンフィクション部門の最終候補にまで残った作品なので、レヴェルも高い。それだけに、安易に読める作品ではない。しかし、読み始めたらたちまちにして深く引き込まれた。中身の濃い充実した作品なので、一部分だけをメモ代わりに記す。

「ユダヤ人問題」
  レンブラントの作品の中には、ユダヤ人を描いたり、題材としたものが多く、それをめぐって、俗に「ユダヤ人問題」The Jewish Connection という固有の問題群が設定されてきた。ユダヤ人は、レンブラント がさまざまな折に画題として断続的に取り上げてきた対象であったし、画家は当時のオランダ社会に生きるユダヤ人と多くの交友もあった。本書はその問題に正面から対峙した本格書である。

  レンブラントに関心を抱いて以来、17世紀のオランダ黄金時代において、カルヴィニズムを基本とするプロテスタント教国として独立し、意気軒昂なこの国にあって、カトリック、ユダヤ教徒などの異教徒はいかなる状況に置かれていたのかという疑問は常にあった。オランダ人の友人などとの会話から、少しずつイメージは蓄積されてきたのだが、深部において不明な点が残っていた。カトリック教徒の問題は、今回は触れないが、これもきわめて興味深いテーマである。

  レンブラントは愛妻サスキアとの結婚後、一時期の仮住まいの後、1639-1658年の約20年間を念願のシント=アントニス・ブレーストラート(ユダヤ人大通り)4番地の豪華で美しい家に住んだ。しかし、画家はこの時に借り入れた負債を、ついに生涯返済することはできなかった。隣家はアイレンブルフ(サスキアの叔父、画商)邸であった。

  画家の前半生は仕事と名声に満ちていた。しかし、大作「夜警」の制作後、画家の運命は急速に逆境への道を転がり始めた。この著名な画家は、次々と不幸な出来事を経験する。作品も売れなくなり、1656年にはついに破産し、思い出多い豪邸を競売に付すまでに追い詰められた。そして、これもユダヤ人の多いローゼンフラフト通りの家へ転居することになった。この顛末については、ブログで少し記したこともあった。(蛇足ながら、本書の読者はできれば、アムステルダムの地図を傍らに本書をひもどかれると、臨場感が高まるだろう。本書にも簡単な地図は収録されている。この都市に普通の旅行者よりはながらく滞在した筆者にとっても、追憶の旅をたどるような懐かしさがそこにあった。)

オランダ共和国の成立
  オランダ史をたどると、スペインとの激しい戦いに明け暮れた16世紀、ネーデルランド独立の気運は急速に高まり、1579年、南部のフランドルとブラバンド両州、ならびに北部7州は、「ユトレヒト同盟」を結び合い、2年後の1581年、北部7州のみが一方的にスペインから独立を宣言した。北部7州と南部はここに決定的な分裂をし、北部7州はオランダ共和国としてひとつの国家となった。

  こうした苦難な道は、敵対したスペイン側も例外ではなかった。ここでは、とりわけユダヤ人問題に焦点を当てる。1492年のコロンブスの新大陸発見後のスペインにおいて、ユダヤ教徒に対するカトリックへの強制的な改宗が行われた。その過程で多くのユダヤ人の間に表面的なカトリックを装うだけの改宗ユダヤ人「マラーノ」を生むことになった。

  この政策は、形だけのカトリック教徒への改宗ではないかとの猜疑心を生み、大審問官トルケマーダの指揮による異端審判所が恐怖の活動を展開する。まさに異端者を焼き尽くす恐怖のきわみである。異端審問所は実に1834年まで続いた。ゴヤの描いた不気味な作品群を想起されたい。そして、この恐怖は隣国ポルトガルへも波及し、イベリア半島を覆い尽くした。

「セファルディ」と「アシュケナージ」
  かくして、ここにおいても安住の地を失ったユダヤ人は、イベリア半島から交戦の相手国であるオランダへと逃避をはかる。彼らは「セファルディ」(ポルトガル系ユダヤ人)と呼ばれ、オランダ人のような身なりをして、オランダ風の名前をつけ、オランダ社会に定着・浸透を図った。1620年代半ばまでは、アムステルダムのユダヤ人といえば、このポルトガル系ユダヤ人であった。

  他方、「セファルディ」とは別の範疇に含められる「ユダヤ人」が。主として東欧やイタリアなどからオランダへ流入する。彼らは「アシュケナージ」(ゲルマン地方を意味するヘブライ語「アシュケナズ」Ashkenaz に由来するが、より一般的に、東ヨーロッパ全土のユダヤ人を指す)と呼ばれていた。17世紀前半のオランダは黄金時代を迎え、一定の社会的寛容さも醸成されていたのだろう。彼らユダヤ人はその経済力を背景に次第に発言力を増し、ユダヤ教の信仰の自由をオランダ政府に要求し、遂にはそれを認めさせるにいたる。

  アムステルダムには、「セファルディ」そして「アシュケナージ」のシナゴーグ(ユダヤ教の教会)が多数建設される。レンブラントがアムステルダムへ移住し、活動を開始したのはまさにこの頃であった。その光景は、ピーター・サーンレダムやエマニュエル・ド・ウイッテによって、描き出されている。

  1620年代までは安定していた社会風土は、1630年代に入ると、にわかに急変する。あの「
30年戦争」(1618~1648年)が中央ヨーロッパを荒廃させ、多くのユダヤ人がほとんど唯一の逃避地となっていたオランダに難を避けるようになっていた。

ナチスにつながる問題
  レンブラントは、17世紀だけの著名画家ではない。とりわけ、そのユダヤ人とのかかわりは、今日まで続く時代のさまざまな折に、画家の意思を超越した問題の核となってきた。なかでも、ナチスとの関連は無視できない。レンブラントはドイツ人でもなく、オランダの生んだ最高の画家であったが、さらにユダヤ人と深く関わっていた。それだけに、レンブラントの「ユダヤ人」問題は、淵源が深い。「アンネ・フランクの日記」にも関わる問題である。

  レンブラントとユダヤ人は実際にいかなる関係に立っていたのか。当時、オランダ人は、ユダヤ人と関わり合うことを避ける傾向にあった。しかし、ユダヤ人の経済力その他の点で強制排除することもしなかった。オランダ人の実利的な国民性の反映でもあろう。

  レンブラントがアムステルダムで定めた住居は、いずれもユダヤ人が多い地域であった。しかし、レンブラントは自らの意思で、ことさらユダヤ人が多い地域を選んだわけではなかったようだ。レンブラントの初期の師匠ラストマンも、愛妻サスキアの叔父の画商アイレンブルフもユダヤ人ではないが、ここに住んでいた。レンブラントは特にユダヤ人居住区というよりも、自らの画業に最も適した場所を選んだのだ。豊かな富に恵まれたパトロンに不足しない地域でもあった。

  しかし、画家はそれらの事情を超えて、他の画家よりもユダヤ人にはるかに強く関心を抱いていた。他方、レンブラントの関心の対象であったユダヤ人などの異民族は、この時代のオランダ社会においてはきわめて不安定な状況の中で過ごしていた。その具体的な事情は、本書にこと細かく描かれている。

「永遠の魂」にかかわる問題
  プロテスタント宗教改革は、厳しくユダヤ教に対した。とりわけ、ルター派がそうであった。しかし、プロテスタント学者は、基本的に聖書原典の詳細な研究を強調した。彼らにはユダヤ教を排除することはできない背景があった。17世紀アムステルダムでは、ユダヤ人とキリスト教徒の間には密接なつながりがあった。
 
  17世紀オランダでは、ラビ(ユダヤ教の教師にして共同体の助言者)によって「永遠の魂」に関する著作が多数書かれた。たとえば、有名なラビ、メナッセ・ベン・イスラエル Menasseh ben Israel は、26冊の書籍を6ヶ国語で著し、最初のヘブライ語の出版社をアムステルダムに設立している。そして、イングランドへのユダヤ人受け入れの支援者でもあり、アムステルダムのユダヤ人コミュニティの主導者の一人だった。彼もレンブラント邸の近くに住んでいた。二人の交友は深く、後に記すように、特記すべきものがあった。

  とりわけイベリア半島において、強圧の下とはいえユダヤ教を棄て、罪を背負ったユダヤ人とその末裔たちにとって、彼らの魂が肉体の死後救われるのかという問題は、なによりも重要な問題であった。あの哲学者スピノザは、改宗ユダヤ人の末裔であったが、その思想によって、ユダヤ人共同体から永久に追放された。スピノザもレンブラント邸に近いブロックに住んでいた。

  この「永遠の魂」にかかわる動きは、1665年、サバタイ・ツェヴィという名の偽のメシアの到来が、ヨーロッパならびに中東地域におけるユダヤ人をかつてない熱狂の渦に巻き込んだことで過熱した。改宗ユダヤ人は、メシアの到来による魂の救済を真に渇望していた。

  そして、このメシアへの渇望は、キリスト教世界にも広がった。キリスト教の改宗主義者は、ユダヤ人がその信仰の過ちを悔い改め、キリスト教に改宗すれ
ば、救世主キリストの復活が早期に実現するという千年王国待望論を抱いていた。そこにはキリスト教徒としての千年王国への期待と、他方でのユダヤ教ととしてのメシアへの渇望のふたつが存在していたとみられる。同時代の画家でも、レンブラントとフェルメールを分け隔てる精神的根源は、ここに求められる。

  この時期に生きた画家レンブラントは、ユダヤ教のラビメナッセ・ベン・イスラエルと親交を結び、名作『ベルシャツァルの宴』Belshazaar's Feast (ca.1635)、『書斎の学者』などを制作することができた。レンブラントの作品は時にかなり粗放に描かれたように見えるものがある。実際、そうした作品もある。

  しかし、レンブラントの作品に対する時、見る者はそれがいかなる情景を描いたものであるかについて深く考えさせられる。とりわけ、多くの日本人のように異教の徒にとっては、描かれたテーマの真意を推測することに著しい努力を必要とさせられるものがかなりある。画家がいかなる発想の下に、時に必要な文献を読み、なにを考えて描いたかという点について、安易な姿勢では到底理解できない深みがある(この問題については、いずれ記すこともあろう)。別に、フェルメールを批判しているわけではないのだが、波風少ない、平和な市民生活の一瞬の美しさを描いたフェルメールの作品とは、根本的に異なっている。

  終章近く、1657年11月、メナッセ・ベン・イスラエルが世を去り、アムステルダムに運ばれた亡骸が、アウデルケルクに埋葬されるくだりがある。アムステルダムのユダヤ人共同体のほとんどの人々が、この高い学識と異教間の相互理解を支えてきた志し高き人物を悼み、最後の尊敬を示すべく姿を見せていた。しかし、さまざまな理由でその場に姿を見せることが出来なかった者もいた。バルーフ・デ・スピノザは、亡きラビの生徒であったが、臨席できなかったと思われる。

  そして、レンブラント。この偉大な画家の姿は墓地には見られなかったのではないか。あるいは密かに片隅に立っていたのかもしれないが。画家は貧窮のどん底にあり、残っていた財産の売却がその月の後半に行われることになっていた。心身ともに打ちのめされた時を過ごしていたに違いない。メナッセはレンブラントの芸術活動において深く心を通わせた旧き友であった。レンブラントはその時、どこにいて、なにを思っていたのだろうか。

  本書は決して軽く読める書籍ではない。川の流れに急流、淀みがあるように、本書にはさまざまな緩急がある。緩やかな流れに来ると、読者はあのアムステルダムの光景の中に、一人の歩行者としているような錯覚にとらわれる。しかし、激流では必死に流されまいと居住まいを正し、著者、そしてレンブラントと対峙することを迫られる。久しぶりに充実感を覚えた一冊であった。


目次(翻訳書)
訳者まえがきーーレンブラントの影の中でーー17世紀オランダ絵画とユダヤ人ーー

一章 「ブレーストラート」で
二章 破戒の図像
三章 悲運のラビ
四章 「エスノガ」
五章 来るべき世界

訳者 あとがき
参考文献 


*

Steven Nadler. Rembrandt's Jews. University of Chicago Press, 2004.
スティーヴン・ナドラー(有木宏二訳)『レンブラントのユダヤ人 物語・形象・魂』人文書館、2008年。

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