時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

苦難の時代:対比モデルとしてのルーベンス(2)

2022年05月13日 | 絵のある部屋




Self-portrait in  Hut, 1623《帽子を被ったルーベンス自画像》ダンビー侯爵の依頼で、チャールス王(当時はプリンス・オブ・ウエールズ)へのプレゼントとするために制作。
油彩・板、85.7 x 62.2cm, Royal 
Collection, London,  UK
Commissioned by Henn Danvers, Earl of Danby(1573-1643) as a present for King Charles, when he was Prince of Wales

この自画像制作は、ルーベンスを大変驚かせたと伝えられている。ダンヴァース伯の求めとはいえ、未来の王に自画像を贈るというのは傲慢ではないかと感じたのだろう。伯爵は作品が助手が介在せず、ルーベンスが自ら筆をとり制作した作品であることを確実にする意味でも自画像を望んだといわれる。ルーベンスの作品といっても実態は工房の助手の制作に近いものであることが流布していたのかもしれない。その意味で、この作品はルーベンスの自画像制作の真の技量を計るにふさわしい作品といわれている。大変興味深い作品だ。



アントウェルペン時代(1609年ー1621年)
ルーベンスはイタリアに約8年滞在した。イタリアの魅力はこの画家にとっても非常に大きく、もっと長く留まりたかったようだ。しかし、母マリアが病に倒れたことを機に、1608年にはアントウエルペンへ戻った。画家が帰国した理由の一つには、当時ネーデルラント諸州とスペインの間で勃発していた80年戦争が、1609年の停戦協定によって12年間の休戦期に入ったことがあげられている。
     
1609年には、ルーベンスはスペイン領ネーデルラント君主のオースリア大公アルブレヒト7世と大公妃となったスペイン皇女イサベルの宮廷画家に迎えられた。ブリュッセルの宮殿ではなく、アントウエルペンに特別に工房を開設することが認められ、宮廷ばかりでなく多くの顧客からの注文を受けるようになった。かくして画家、外交官としての役割も重みを増し、1609年にはアントウエルペンの有力者の娘イザベラ・ブラントと結婚した。

1610年にはルーベンスは自らデザインした新居(現在は博物館)に移り住んだ。ここは画家の素晴らしい工房となり、ここで働いたアンソニー・ヴァン・ダイクやヤン・ブリューゲルなど多くの優れた芸術家を生み出した。大規模な工房で多くの職人、徒弟がおり、ルーベンスはしばしば素描だけを行い、職人たちに色彩などを指示し、最後に筆を加えるというタイプの作品がかなり多かったといわれる。工房には、後に著名となった職人たちが多数働いていた。



Rubens and Brueghel the Elder, The Feast of Achelous, ca.1615, oil on wood, 108 x 163.8cm, The Metropolitan Museum of Art, New York
ルーベンス&ヤン・ブリューゲル《アケロウスの祝宴》


この作品は、メトロポリタン美術館が所蔵する数少ないルーベンス作品(来日していない)の一点だが、神話上の想定、人物はルーベンス、風景は友人のヤン・ブリューゲルが描き、二人の親密な共同制作の成果として知られている。
画題はオウィディウス(43B.C-A.D.17?:  ローマの詩人、オウグスタス帝に追放され客死)の神話伝説集 Metamorphosesから選ばれた光景といわれる。
ルーベンスとブリューゲルの合作とは一見見えない一体感のある作品だ。



この時代、ルーベンスは同時代の他の画家が到底望み得ない恵まれた環境において、画業の充実・拡大を行なった。とりわけ、アントウエルペンの聖母マリア大聖堂の祭壇画《キリスト昇架》(1610年)、《キリスト降架》(1613-1614年)などの作品制作は、バロック期祭壇画の中心的作品として、ルーベンスがフランドルにおいても画家としての評価を決定づけることになった。


マリー・ド・メディシスの庇護と外交官としての活動(1621-1630年)
1621年にはフランス王太后となったマリー・ド・メディシスが、パリのリュクサンっブール宮殿の装飾用にと、自身の生涯と1610年に死去した夫アンリ4世の生涯を記念する連作絵画をルーベンスに依頼している。しかし、マリーは、息子のフランス王ルイ13世によって追放され、1942年にケルンで死去した。

《マリー・ド・メディシスの生涯》は24点からなり、現在はルーヴル美術館が所蔵している。

1621年にネーデルラントとスペインの12年間の休戦期間が終わると、スペインのハプスブルグ家の君主はルーベンスを外交官としての任務に起用し始めた。1627年から1630年にかけて、ルーベンスはこの仕事に多くの時間を費やした。


Allegory of Peace and War or Minerva Protects Pax from Mars, 1629-30, oil on canvas, 203.5 x 298cm, The National Gallery, London
《平和と戦争の寓意》(1629-30年、ナショナル・ギャラリー蔵)
ルーベンスは1930年までロンドンに滞在。


晩年の活動(1630-1640年)
晩年の1630年から1640年にかけては、画家はアントウエルペンと近隣で過ごした。

最初の妻イザベラが思いがけず死去した後、1630年には53歳になったルーベンスは、16歳のエレーヌ・ルールマンと再婚している。その後、エレーヌは画家のモデルとして多くの作品に描かれるようになった。

ルーベンスの作品の中心は、歴史画や風景画までも含めて広い意味での神話画にあるといわれているが、ブログ筆者は以前からこの画家の肖像画の技量に惹かれてきた。画家の生涯において広く張り巡らされた人的関係のネットは、多くの顧客から肖像画の発注を生み出した。結果として肖像画家と言ってもよいほど多数の肖像画の作品を制作し、多くが今日まで継承されている。工房が関わった作品も多いと思われるが、妻や子供の肖像画はルーベンスが自ら全てを制作したと考えられ、画家の熱意が十分に注入された作品となっている。それぞれに人物の性格を的確に把握した作品となっているが、とりわけ幼い子供の描写は素晴らしく、このブログでも紹介したことがある。


Clara Serena, ca.1616, oil on canvas mounted on panel, 37 x 27cm, Liechtenstein Museum, Vienna, Austria
《クララ・セレナの肖像》
ルーベンスの最初の妻との間に生まれた5歳の娘、(下掲の)母親に非常に似ている。写真のように見る者に近接感を与える描写は当時の主流ではなかったが、画家の最初の子供としての愛情が反映したものだろう。頬の赤み、鼻の部分の光の当たり具合など生き生きとした描写であり、肖像画の傑作といえるだろう。



Portrait of Isabella Brant, ca. 1625, oil on panel, 86 x 62cm
Galleria degil Uffizi, Florence
《イサベラ・ブラントの肖像》
ルーベンスの最初の妻であり、画家として著名になっていた時期に描かれた肖像画である。イサベラはこの翌年に死去している。ルーベンスはイサベラの肖像画はほとんど描いていないが、夫妻が幸せな時期を過ごしていた頃の肖像として、信頼の表情が窺える良い肖像画である。



Portrait of Helene Fourment, 
ca.1630-32, oil on canvas, 97 x 69cm, Alte Pinakothek, Munich, Germany
《エレーヌ・フォウルマンの肖像》
ルーベンスの第二の妻であるエレーヌについても、画家はかなりの数の肖像を自らの手で全てを描いたと推定されるが、完成後は工房の助手や画家の愛好家などが模写の対象としたため、議論の対象となる作品もある。しかしながら、その中でこの作品はルーベンスが全てを描いたとされている。


ルーベンスの生涯における作品数は1200点余り(一説では1500点から2000点)と極めて多作だが、大部分は工房での作品と推定されている。画家はデッサン程度で、職人、徒弟に指示を与えて制作させ、最後に筆を加えたことが多かったといわれる。しかし、画家は自らの関与の程度に十分配慮し、作品価格などに反映させたようだ。

ラ・トゥールの現存する作品数が50点余であるのは、戦乱の地という過酷な環境で、多くの作品が逸失、滅失したと考えられる。それにしても、ルーベンスの旺盛な製作意欲には驚かされる。ルーベンスは祭壇画、神話画、肖像画、風景画などを含む歴史画を中心に様々なジャンルの絵画作品を残した。さらに、外交官、人文主義学者、美術品蒐集家など広範な領域で活発な活動をし、さまざまな成果を残した。

かくして、ルーベンスの生涯はきわめて恵まれ、多くの栄光に輝いたものとなった。この画家は天賦の才に加え、その出自、徒弟時代、イタリアへの旅と長い滞在、多数の庇護者と人脈、多彩な作品ジャンル、アントウエルペンでの大規模な工房運営、外交官としての活動と作品への顧客増加など、この時代の画家としては数少ない傑出した画家となった。

こうした画家としての輝かしい成果は、ルーベンス個人の画家としての天賦の才、努力に帰属するものであることはいうまでもないが、画家の生まれ育ち、活動した北方ネーデルラントの社会環境の成熟度が大きく寄与していることも指摘しておくべきだろう。ルーベンス、レンブラント、フェルメールなどの画業生活を支えた舞台は、他の地域では望み得ないものであった。

17世紀ヨーロッパ画家の作品評価の基軸をどこに置くべきか。考えるべき多くの課題が未だ残されているように思われる。



概略年表
1577年  ペーテル・パウル・ルーベンス 6月28日、ジーゲン(ウエストファーリア:現在はドイツ)に生まれる。
1587 年 家族はスペイン領オランダ(現在はベルギー)アントワープに移住。
1598年 アントワープの画家ギルドに入会を認められる。
1600年 イタリア、スペインに旅する。《キリスト昇架》《(マントヴ ァからの友人との)自画像》などを制作。
1605年 3年近くをジェノヴァ、ローマなどで過ごす。イタリアにはおよそ8年滞在した。
1608年 アントワープへ戻る。同地はフランドルでの対抗宗教改革の 拠点。
1609年 イザベラ・ブラントと結婚。《(イザベラと共に)自画像》、 《スイカズラの東屋》など。
1610年 《サムソンとデリラ》
1610-14年  《キリスト昇架》《キリスト降架》などでヨーロッパ有数 の画家としての評価確立。
1611年 最初の子供クララ誕生。
1614年 長女アルベルト誕生。
1618年 3番目の子供ニコラ誕生。
1622-25年 フランス王ルイXIIIのためタペストリー制作。フランス王家のための美術品制作。「王子・王女の画家」との評価広がる。
1623年 《帽子を被った自画像》
1624年 《東方3博士の礼拝》Adoration of Magi
1625年 ヤン・ブリューゲル死去。ルーベンスは遺児の保護者となる。
1626年 イザベラ・ブラント死去。ルーベンスは痛風に悩まされる。
1629年 ロンドン、ホワイトホールの天井画制作。
1629-30年 《戦争と平和の寓意》
1630年 エレーヌ・フォウルマンと再婚。夫妻は5人の子供を養育す る。最後の子供は画家の死後5ヶ月目に誕生。
1630-32年 《聖イルデフォンソ祭壇画》などの仕事を完成させる。
1635-40年 神話画制作
1640年 5月30日、心臓発作で死去。62歳。


References
‘RUBENS, SIR PETER PAUL’ The Oxford Companion to Western Art, 2004
Susie Hodge, RUBENS: HIS LIFE AND WORK IN 500 IMAGES, LORENZ BOOKS, 2017

クリスティン・ローゼ・ベルキン『リュベンス』高橋裕子訳、岩波書店、2003年
ヤーコブ・ブルクハルト『ルーベンス回想録』ちくまライブラリー、1993年



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