時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

額縁から作品を解き放つ(7):工房の働き

2022年12月11日 | 絵のある部屋


15世紀の工房

イタリアに限ったことではなく、どこの国でも画家は長らく、パン屋、大工などと同じ部類の「職人」’craftsmen’ として位置づけられていた。子供が職業選択をするに際しては、ほとんどの場合、父親の職業を継ぐか、親の考え次第で決まっていた。時代を下って、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールやジョン・コンスタブルのように、パン屋や粉屋であった父親の仕事を継がなかった例などもあるが、画家は概して先が分からない、リスクの多い職業として考えられてきた。才能の評価は、多くの要因に依存しており、画家として成功できるかは容易に定め難かった。

ルネサンス期のイタリアにおいては、絵画などの美術作品は画家や彫刻家などが自らの創意で制作し、それを見た顧客が購入するという今日のような状況ではなかった。作品は概して高価であり、徹底して顧客による注文生産だった。顧客は典型的には領主などの支配者、貴族、銀行家、富裕な商人、名士、教会などであった。時には、結婚祝い、病気の治癒を感謝する印として、上層の市民からの注文もあった。画家に求められる芸術性などもあってか、彼らは次第に ’artists’と呼ばれるようになった。

イタリア・ルネサンス期の画家の工房 bottegaは、初期段階では、親方画家と職人一人くらいで運営されていたような状況もあったが、時代が進むとともに、教会、聖堂、修道院などからの壁画や天井画、祭壇画などの大規模な作品需要が増加し、ローマ、フローレンスやヴェネツィアなどでは、親方の下に助手として職人、徒弟などを集めた大きな工房が生まれるようになった。

厳しい顧客
こうした工房への作品の依頼主は、制作されるべき作品への要件が厳しく、主要点は契約に記載することを求めたばかりでなく、完成した作品が意に沿わないと、描き直しや契約破棄なども少なからず発生した。要件の内容も宗教画であれば人々の信仰心をかき立てるものであること、歴史画であれば、描かれる人物の容貌、衣装などに、厳しい内容が求められた。大聖堂など公共の場に描かれる作品には、しばしば独立の画家グループなどによる評価も行われた。大変著名な画家が新たな創意で制作した作品でも、伝統を重視する顧客側から不満足とのコメント、苦情などがあると、画家が自らの意思を貫徹できる場合は極めて少なく、その意味で画家は長年、顧客に従属する職人の地位に甘んじなければならなかった。

よく知られた例としては、バチカン宮殿にあるスィスティーナ礼拝堂のフレスコ画を描いたミケランジェロの場合、聖職者たちの間から裸体が多すぎるとの批判、苦情が出て、一時はフレスコ画の取り壊しまで議論された。この例はミケランジェロのような大画家といえども、長年に渡り蓄積された慣例、しきたりから離反することがいかに困難であったかを示している。

他方、フローレンス、ヴェニス、マントバ、シエナなどの都市間では強いライヴァル意識があり、それぞれの独自性を発揮させるために、他の都市から芸術家を引き抜いて新奇な試みをさせるなどの動きがあった。そのため、人気がある画家たちの中には、いくつかの都市を渡り歩いて制作し、多額の制作費を稼ぐ者も現れていた。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)のように、引き受けた作品を未完成のままに放置してしまうことで、評判の悪い画家も生まれた。

アーティストを育てる工房の役割
15世紀中頃から末にかけて、それまでの顧客、パトロンが絶対優位の関係は急速に変化した。画家に依頼される仕事も大きくなり、画家ひとりでは消化できなくなっていた。画家の工房は、次第に規模が大きくなり、画家の父親は息子を画家にすることに熱心だった。それでも、人手が不足し、徒弟という形で画家を志す若者にスキルを伝授する方法が足られた。幼い頃から優れた画才を示した若者は、有名な画家の工房に入るよう勧められた。

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N.B.
ルネサンス期の工房から育った有名画家たち
ロレンゾ・ギベルティ(1378-1455)は有名な彫刻家だったが、フローレンスの幼児洗礼堂の扉の前で長年働いたが、後年、市内に大きな工房を持った。ドナテロ、パオロ・ウッチェロ(1397-1475)など、多くのアーティストがここから育った。アンドレア・デル・ヴェロッキオ(c.1435-1488)の工房からは、ピエトロ・ペルギーノ(c.1450-1523)、サンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)、レオナルド・ダ・ヴィンチなどが育った。ペルギーノはペルージアまで出向き、ラファエロ(1488-1520)を指導した。ルネサンス美術の世界は大きなものではなかったので、画家たちはライヴァルがどの程度の仕事をしているか、つぶさに知っていた。複数の工房を運営する画家もあり、ドナテロとミケランジェロのように、ピサ、フローレンスなどで工房をシェアしていた場合もあった。

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この時期の工房は、大小の違いはあったが、親方の下に職人、徒弟などの階層があった。徒弟は一般に男子(女子もいなかったわけではない)で、11歳くらいの若さで採用され、上達の具合などで3年から5年を費やした。徒弟は通常親方の家に住み込み、食費、衣料なども支給された。最初は工房の掃除など簡単な仕事から始まり、使い走り、刷毛の製作、画材の準備などを経て、親方の指示により簡単な部分の描画、彩色などの段階へと進んだ。さらに親方の認定次第で、職人などと呼ばれるようになると、作品のある部分の制作を担当したり、親方の素描に沿って、ほとんどひとりで作品を完成することもあった。

職業集団としての工房・ギルド
助手や職人にまでなると、工房所在地にあるギルドに加入し、会費を納め、一人前の画家として工房にいながらも制作することが認められた。熟達した職人は作品に自分の名前を入れることも認められた。初期のレオナルド・ダ・ヴィンチは、こうした過程を過ごした。工房を離れ、独り立ちする場合には、自らが制作した優れた作品をギルドに提示することが求められた。顧客が工房を選ぶ場合、職人や助手にどれだけの報酬が支払われているかも、ひとつの要因だったようだ。

イタリア・ルネサンスの栄光を支えた底辺には、こうした工房の働きがあった。工房ではギリシャ・ローマ時代の作品の模写、収集が行われていた。古代美術の流れを正確に継承するために、有名な工房はさまざまな内部蓄積を怠らなかった。ルネサンス期のイタリアは文化の中心地として、ヨーロッパ各地から多くの美術志願者を集めた。教会、大聖堂などの壁画、祭壇画などの大きな需要が少なかった他の地域では見られなかった、工房を中心とした独自の文化拠点が生まれていた。

続く




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