時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

貴族の処世術(3):ロレーヌ公国の下層貴族

2012年01月30日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 

 

Statute Représentant Charles III, Duc de Lorraine

1545-1608

Nancy, Musée lorrain

 

 

貴族になった条件
 近世初期17世紀、ヴィックのパン屋の次男から画家として名を成し、さらに貴族にまで栄達をとげたジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生涯についての記述を読んでいると、さまざまな疑問が浮かび上がる。
ラ・トゥールはなにを評価されて貴族になったのだろうか。新妻ネールの父親がロレーヌ公に仕える貴族であることが、考慮の条件のひとつであったであろうことは推定できるが、貴族が一代で終わることはこの時代、珍しいことではなかった。当時の貴族に求められる人格要件などは、いかなるものだったのか

 

 他方、この画家をめぐる美術史などの記述には、貴族となった画家の金銭欲や粗暴な行動などが伝えられている。しかし、それらの根拠は、ほとんどが徴税吏などの第三者の記録であり、断片的なものに留まっている。これらの点を同時代の他の貴族たちと比較して、いかに理解すべきか、少なからず疑問を抱いてきた。

 この点を解明するひとつの糸口は、可能ならば同時代の同様な貴族との比較を試みることであると考えた。幸い近年の古文書研究と家系学の成果が、この謎をある程度解明してくれている。かならずしもこのテーマに限ったことではないが、近世初期のロレーヌに関する史料は、ナンシーの文書館あるいはパリの国立文書館にかなり良く保存されている。戦乱・騒乱などを幸いにもくぐり抜けて、今日まで継承されてきた貴重な資料だ。それらに基づいた研究がたまたま今回目に触れた。

ジャック・マウエの場合
 前回記した16世紀末、1599年にロレーヌ公から貴族に任じられたジャック・マウエは、ロレーヌ公国の政治の中心であるナンシーやメッスなどからは遠く離れた小村の地主に過ぎなかった。なぜ、ジャックは貴族にまでなりえたのだろうか。マウエ家の家系に関する詳細な研究によって、興味深い事実が浮かびあがってきた。

 ジャックの父親ニコラ・マウエは1500年代後半、北バロアBarrois の小村アタン Étain の村長だった。この小村はメッスへつながる要衝の地に位置していた。ニコラ・マウエは、村長として村人に対する公的サービスの提供などを行う資質は備えていたようだ。

 ジャックに貴族の称号を授与するに際して、ロレーヌ公シャルルIII世が判断基準とした要件がいくつか記録に残されている。そのひとつは、ジャック・マウエが「徳性、思慮深さ、慎重さ、勤勉など」を備えていることを称えている。特にこれらの要件は、ロレーヌのみならず、その他の土地でも同じように、同時代の人たちが貴族に必要な要件と認めていることが記されている。要するに貴族としての一般的要件をジャックも備えているとしている。ここで注目すべきひとつの点は、個人の人格について記しているが、家系には一切言及していないことにある。

重要な要衝としての認識
 注目されるのは、ロレーヌ公がジャックがマルス・ラ・トゥール Mars-la-tourの村に27年間居住していることに言及していることだ。この地は、ロレーヌの政治経済上の拠点であるメッスに隣接していて、ロレーヌ公国と司教区にとって、戦略上重要な意味を持っていた。

 さらに1590年代初期におけるロレーヌ公シャルルIII世とフランスのアンリIV世との戦いにおけるジャックの貢献を評価したようだ。シャルルIII世は敬虔なカトリック信奉者で、新教徒ユグノーの支援を受けたHenryIV世と対抗していた。アンリIV世が1589年にフランス王位に就くと、たちまちロレーヌ公爵領と司教区の間の前線で争いが始まり、平和協定が締結された1594年まで絶えなかった。マルス・ラ・トゥールは、ロレーヌ公国にとって、戦略上要衝の地と考えられていたようだ。ジャックが貴族に任じられた最大の理由は、こうした大国、小国入り乱れての領土争いにおけるロレーヌ公への貢献が評価されたためだった。

 中世以来、ヨーロッパの君主にとって、領土をめぐる戦い、そしてそれを支える財政的基盤の確保はなににもまして重要なものであった。戦いは大きな意味を持っていた。君主にとっては自らの領土の維持・拡大が彼らの存亡を定めることであり、そのための戦いは最大の関心事であった。当然ながら、戦略・戦術を含めて、軍隊の力が勝敗を定めた。そのために身を挺して武勲を挙げた者、戦略にたけた者が功労を評価されて、貴族にとりたてられることが常であった。何世紀にもわたって戦争の結果と領土の存亡とは表裏の関係にあった。その争いの中核的集団としての貴族にとって、戦争は常に中心的関心事であった。

 

 こうした戦乱の時代を生き抜くために、貴族たちは名誉や利得ばかりでなく、多くの負担も背負っていた。ロレーヌ公国では重要な決定は、旧騎士 ancienne chevalerieとして知られた建国以来の功労者として、いくつかの名家が握っていた。ロレーヌはフランスと神聖ローマ帝国の双方から影響を受けていたが、貴族制の実態についてはフランスに近いものだった。

 

 

 貴族に任じられるまではマウエ家は無名の家系であった。だが、マウエ家は、その後ほぼ5世代を通して貴族制の中で昇進を続けた。ロレーヌのような小国は、17世紀初頭の時代のヨーロッパではいたるところに見られた。王朝の盛衰は激しく、1代かぎりで消滅した貴族は多かった。しかし、この中にあってマウエ家は巧みに世の荒波を切り抜け、生き残った家系だった。それには巧みな処世術も必要だった(続く)。

 

 

 

同家の子孫は1900年代初期にナンシーの古文書館に家系に関わる重要書類を移管し、とりわけ初期の文書の滅失を免れていた。継承されている文書はかなり充実した形で残されているが、財政的史料、女性に関する史料はさまざまな理由で開示されないようだ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 貴族の処世術(2);ロレー... | トップ | 貴族の処世術(4): ロレー... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚」カテゴリの最新記事